沢村栄純
思わず吹き出してしまいそうなくらいに緊張で固まって、猫目で手の中の茶碗を見つめる沢村君。多分、飲み方が分からないのだろう。教えてあげようとしたのだけど、御幸君が人差し指を立てて口元へ当てるから声を描けることが出来なかった。
前々からこの性格の悪さは知っているけれでも、これじゃあ後輩に嫌われてしまうのではないか。
「ま…回すんでしたっけ?」
「あれ?お前、茶道できるんじゃねぇの?」
「おっ、思いだしてただけだよ!」
「はいタメ口〜」
笑う御幸君。助けを求めるように沢村君から視線を向けられて、私は苦笑するしかなかった。
事の始まりは先週、ひょんな事から野球部で茶道とは何たるものかという話題になったらしい。野球部で何故そんな話題になったのかまでは聞かなかった。
兎に角そんな話題になって、『沢村は茶道なんてぜってぇ無理だろ』と言う御幸君達に、出来ると意地を張ってしまったらしい。で、御幸君が同じクラスで茶道部の私に、沢村君に茶道をやらせてくれと頼み込んできたのだ。なんと酷い先輩だこと。
ニヤニヤしながら後輩を見つめる御幸君。そろそろ助け舟を出してあげようかと思っていた時、茶室の戸が開けられて渡辺君が顔を覗かせた。
「おーい、茶道部。ここに御幸いる?」
「うん、居るよ」
「化学の中町先生が呼んでるよ」
「おー、今行くわ」
面倒くさそうに立ち上がる御幸君。ちょっと行ってくると私に言ってから、くるりと沢村君の方を振り返った。
「俺がいない間、こいつに教わるのは反則だからな」
「当たり前だー!もともと知ってっから大丈夫だよ!」
「はっはっは。俺先輩だってーの。んじゃ、頼むわ」
「うん。いってらっしゃい」
そうして御幸君を見送って、茶室には私と沢村君の二人だけになってしまった。
相も変わらず手の中の茶碗を見つめる沢村君。絶対に茶道なんかやった事ないんだろうなぁ。
「あのね、」
「い、いやぁー、良い茶碗ッスね!」
「え?あ、うん」
「……」
「……」
「…こっそり教えてのらえませんかね…」
口を尖らせ、猫目になって小さな声で言う後輩に、思わず私は吹き出してしまった。
「なっ!笑わないでくださいよ!」
「だって、ふふ、沢村君がおもしろいから」
そんなー、なんて不貞腐れる姿がまた面白くて笑ってしまう。なんだか弟が出来たようで、新鮮な気分だった。私は一人っ子だけど、きっと弟ってこんな感じなんだろう。こんな可愛い後輩と仲良しな御幸君が羨ましい。
そうして簡単に茶道の基本を教えてあげると、沢村君は真剣に私の動作をみつめて何度も真似をして、あーでもないこーでもないと騒ぎながらなんとか覚えていった。新入部員に教える時は皆緊張して静かに胸の内で焦るような子たちばかりなので、この騒がしさがなんとも面白く可愛らしい。今日一日で何度私は笑ったのだろうか。
「御幸君、遅いね」
「はっ!そろそろあいつが帰ってきそうですね。帰ってきたらぎゃふんと言わせてやります!」
そうだね、と笑って言えば、彼も悪戯っぽく笑う。
「そうだ、苗字さん」
「なに?まだ分からないことある?」
「いや、俺が苗字さんに教えてもらった事は、内緒ですからね」
「わかってる。御幸君には言わないよ」
「じゃあ、二人だけの内緒ですね!」
そう言われてから反応するまでに時間がかかった。
「そ、そうだね。内緒ね」
二人だけの内緒。あれ?何だこれ。何か変だ。
目の前で笑う沢村君は、やっぱり可愛い。けど、これが弟?
なんだかもっと別な存在に感じて、私は彼から視線を逸らしてしまった。何だ、これ。
その答えを知ったのは、御幸君がニヤニヤしながら戻ってきた後だった。
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