2.水を含んだ橙色


次の日、ぼんやりと授業を終えると、すぐに美術室に向かった。描き掛けていた油絵には手を付けず、水彩絵の具を出して筆にたっぷり水を含ませる。あの目は、外と同じ色だった。どんより曇り空。ちらついていた雪。走り過ぎる時に一瞬、オレンジ色の街灯が写る。ゆらゆら揺れていて、ぼんやりしている。輝くような光は写らない。
手を動かせば動かすほど、苦しい気持ちになっていった。
色をのせて、筆を洗って、また色をのせる。スケッチブックも水入れの中も、次第に淀んでいった。

「なまえ副部長、どうしたの」

同期の女子部員に声を掛けられて、ハッとした。

「いや、なんかもう、ぐちゃぐちゃで」
「うん。ぐちゃぐちゃだね。しかも何で泣きそうなんだよ」
「……何でだろう。わかんない」
「何でだよ」

あははと笑った女子部員に、もう止めておけと、やんわり忠告された。私を思って言ったのかと考えて、大丈夫と答えようとしたが止めた。彼女は後輩たちの事を考えて止めろと言ったのだ。僅か3人しかいない1年生は、心配そうな、でも声を掛ける事に躊躇いと少しの恐怖を抱いた目で、ちらりとこちらを見た。
ね?と目で言われて、思わず頭をがしがし掻いて、絵筆を置く。

「あー、やーめた。皆お菓子食べる?今日はクッキー持ってきたんだ」

大声で言ってみれば、ほっとした空気が流れる。棚にある鞄を取りに行けば、皆一か所に集まってきて、一年生の一人がコーヒーの準備を始めた。美術部恒例のお菓子タイムが始まって、絵の話や最近あったクラスの話。語尾に「ね」が付く先生の今日の「ね」数は1授業48「ね」だったとか、今度の美術館の特別展はいつ行くとかで盛り上がる。楽しいはずが、時々ふっと虚しくなるのは、彼の事が引っかかっているからなのだと思う。
彼はこうして、楽しく部員と話すことはあるのだろうか。そう考えて、何で私は上から目線でなんだと恥ずかしくなった。
その後は皆あまり自分の作品に手を付けず、談笑して部活が終わった。私は自分の絵に手を付けれなかったのでちょっと残ろうと思ったのだけれど、いざ絵を前にすると筆は全く進まなかった。これじゃあ意味がない。さっきまで描いていた水彩画も、もう手は付けたくない。仕方がないので、今日はも帰ろうと思い、後片付けをして
美術室を後にした。

「あ」
「……」

運が悪いのか良いのか、バス停には彼が居た。私をちらりと見ると、何でもないようにまた真っ直ぐ前を見る。

「……」
「…いつもこのバスなの?」
「あぁ」
「へぇー。……」
「……」

めちゃくちゃ気まずいのですが。しかもバスの時間までまだ20分もある。どうする私。このまま無言で突き通すか。それとも先に切り出して「昨日はほんと無神経でごめん」と謝ってしまうか。
なんて悶々と考えていたら、彼から先に口を開いた。

「昨日はすまなかった」
「え?ちょ、何でクリス君が謝るの」
「俺が卑屈になって、嫌な思いをしていただろう」
「そんなんじゃなくて、私が無神経だったから」

ちらりと彼を見れば、淀んだ瞳が私を捕えていた。

「今日、すごい顔して絵を描いていたから」
「え?美術室に来たの?」
「昨日の事を謝ろうと思って行ったら、少し驚いた」
「いや、あれはいつもなの。描き始めると止まらないから、私。だから、その、私こそ無神経でごめんなさい」

すとんと、言葉が落ちた。喉元につかえていたものが無くなったせいか、息をすれば冷たい冬の風が体中に満たされる。そうして吐き出された息は、白くなって消えていく。私の中のぐちゃぐちゃなものも同じ様に消えて行った。

「気にしていない」
「ありがと」
「さっきは何を描いていたんだ」
「あれは、そうだな……沈む宝箱?」
「……すまん。わからない」
「いいよ。よく言われるから」

それから他愛のない会話をしてバスを待った。殆どは私が私が喋ってばかりだったけれども、彼は短い言葉で返事や相槌を打ってくれていた。相変わらず目は淀んでいるけれども、たまに、ふっと小さく笑ってくれる。こうして会話を続けていれば、何かの瞬間でその目に僅かにでも光が戻るのではないかと期待したのだけれども、前を見つめたままの目に光が戻る事は無く、思っている程簡単な問題じゃないのだと改め実感した。それと同時に、こんな風になってしまっても腐らないのは彼が野球を好きで、まだ諦めてなんかいないからなのではないかと少しの期待を抱いた。
そうしているうちに予定より少し遅れてバスが来て、私たちは昨日と同じ席に座って会話を続けた。
後ろを向いて話す私に、今日も彼は目を合わせず窓の外を見ている。そのままさっきまでと同じように短い返事や相槌を打っている。時折盗み見る目もまた昨日と同じで、この時間帯の薄暗さとここ数日続く曇り空を映し出して、時折オレンジ色の街灯を一瞬映す。
さっき吐き出したはずのぐちゃぐちゃ感は体の奥底にまだ僅かに残っていたらしく、彼の目を見ていたらまた少しずつ込み上げてきた。

「外、見るの好きなの?」
「どうしてそう思うんだ?」
「昨日も見てたでしょ。あ、私は外見るの好きだよ」
「…好きというか、安心するんだ。見ていると溶け込める」
「ふーん」

珍しく長い答えが返ってきて驚いた。話題を変えるべきか迷っていると、彼が続けて口を開いた。

「目が淀んでいると言われたんだ」
「え?」

思わずどきっとしてしまった。いや、ときめきとかじゃなくて。

「自覚はしていたが、口にされると案外キツいな」
「…うん」
「天気が悪いのを見ると、自分の目と外の淀んだ景色が溶け込んでるような気がして、騙せてるようで安心する」

確かに、彼の暗く淀んだ目とこの曇天の冬空は溶け込んで一体となっている。けれども、どこか違う。彼の目もどんより重たく、暗く沈んでいるけれど、この景色にない他の何かがある。
自嘲気味に笑う彼の横顔を見て、ずきんと胸が痛んだ。そんな顔は見たくない。

「私は、クリス君の目が好きだったな」
「昔の、だろ?」
「うん」
「はっきりしているな」
「うん。ごめん」

相変わらず此方を見ようとしない彼。揺らめく瞳の中でオレンジ色がたまに映っては一瞬で消える。

「でも、だからね、」

彼の顔に両手を添えた。無理やり顔をこちらに向かせれば、案の定驚いた顔をしていたけれども、そんな事気にしている場合じゃない。目と目が真っ直ぐ合って、一呼吸置いてから私は口を開いた。

「時間がかかってでも、戻ってほしいと思ってます。諦めないでよ」
「!……」

見開かれた目の中に光るそれは何だったのか。街灯の光か、取り戻した輝きなのか。兎に角僅かにいつもと違うものを映した彼の目。僅かに揺れながらも真っ直ぐ私を捉える。
二人して時間が止まったように一言もしゃべらず、動きもしなかった。彼の顔に触れた両手から心臓の音が伝わってくる。いや、もしかしたら私の心臓の音かもしれない。
そうしていると、くぐもった声がバスの車内に響いた。

「えー、病院前ー、病院前ー。お降りのお客様はいらっしゃいませんか?」
「あ、」
「え、」

運転手さんの声で引き戻されて、途端に恥ずかしくなった。言いたいことを言って勝手に人の顔を掴んで、私はなんてことをしているのだろう。顔に熱が集中して、今度はどうすれば良いか分からなくなり固まってしまった。そうやって一人でパニックになっていると、彼に片手を掴まれた。

「すまん。ここで降りる」
「う、ううう、うん!ごめん!」
「あと、復帰は諦めてない。毎日リハビリに通ってるから、またいつか返り咲いてやるさ」

なんて捨て台詞みたいな事を言って、彼は席を立ちバスから降りて行った。プーとドアが閉まるブザーが鳴ってバスが発車すると、彼が歩いていく後姿が見える。向かっているのは病院で、おそらくここでリハビリをしているのだろう。今日の後姿は大きく見える。
その姿が小さくなるまで見て、見えなくなった瞬間に再度顔に熱が集まってきた。
ほんと、なんてことをしてしまったのだろう。明日からどうやって彼に接すれば良いのか。
バスを降りる際に「青春だね、頑張って」と運転手さんに声を掛けられて、より一層明日からの彼との接し方を考えてしまった。


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