ネオンにきえて
「乾杯!」
彼の音頭共に、カラン、と気持ちの良い音が響いて、目の前に座る悟くんがグラスに注がれた液体を勢い良く呑み込んだ。ぷはぁ、とお手本みたいな息継ぎをして「これだよこれ」と笑みを浮かべる彼のグラスの中身は果汁100%のオレンジジュースである。店員さんが他のテーブルで注文されたお酒や串を忙しなく運んでいるのを横目に私もゆっくりと喉にアルコールを潜らせていく。特有の少し喉が焼けるあの感覚に目を細めれば、悟くんは捺も良い飲みっぷりだね、と楽しそうにしていた。
テーブルに徐々に運ばれてくる枝豆、キュウリ、つくね、卵焼き……ただでさえ広くない領地が狭まっていくのに慌てながら揃って手を合わせ丁寧に"いただきます"を宣言してから箸を伸ばしていく。何からいこうかな、と目移りしつつも相変わらず綺麗に箸を使う彼に感心しつつ私も自分の皿の上にいくつかの料理を摘んで、試しに出汁巻きを口に入れるとふわふわと蕩けるような味わいに小さく声を漏らしてしまった。美味しい?と首を傾けた彼にこくこくと頷いて肯定を示すと、悟くんは穏やかな顔つきで「流石硝子の行きつけだね」と微笑む。……そう、私達は今、居酒屋に来ていた。ビルの一角にある隠れ家的なお店のはずなのに、それでも充分盛況して見えるのがこのお店の全てを表している気がする。硝子はどうやってこんなお店を見つけたのだろうか?純粋に興味を抱きたくなる。飲み歩いているのか、それとも良い飲み仲間がいるのか、正解は私には到底分からない。
「憂太の調子は?」
「初めよりは任務の前も落ち着いてるかな、慣れてきたね」
「お、そりゃ良かった」
「真希ちゃんとのやり取りも柔らかくなったし……友人関係も良好ってところかな」
そっか、と呟きながら落ち着いた音でテーブルにグラスを置いた彼は何処か安心したような表情をしている。上から秘匿死刑が提案されるほどのある意味"逸材"であった16歳の少年……乙骨憂太くんは今年度転校生として東京高専に向かい入れた新しい生徒だ。底無しの呪力を孕んだ怨霊に取り憑かれた、未だその使い方を知らない少年。彼がそれと向き合えるように学ぶ環境を用意したのは紛れもなく私の目の前に居る彼、悟くんだ。彼を処刑から救う話を聞いた時には勿論驚いたし、心配もあった。元々上層部とは折り合いの悪い彼への風当たりが強くなるのは不安だし、私個人として彼には出来るだけ穏やかで幸せな日々を送って欲しくもある。
……でも、だからこそ悟くんは乙骨くんを助ける選択を下したのだ。有用な術師になれる素質を秘めている彼を引き込み、いつか未来を切り拓ける存在を生み出すため、自分の意思を継ぐ存在を増やすため、そんな打算を含んだ彼の救い方は一見すると冷たくも見えるが、確かな愛も存在する。……その証拠が今日の飲み会とも言えるだろう。彼は補助監督の私から最近の乙骨くんの情報を得て今後に生かすつもりだ。活かすだけならもっと事務的なやり取りで構わないだろうに、素直に安心したり、笑ったり、共有のための場所を高専以外で作ったり……教師としての愛情はきっと"ここ"に宿っている。
「乙骨くんの祓除は上手くいきそう?」
「ある程度の目星と検討は付けた。……あとはタイミングだね」
「タイミング……」
「憂太のアレは恐らく祈本里香に呪われてる訳じゃない」
彼の考察に思わず目を瞬かせた。上層部の見解では乙骨憂太と関係が深い故人である祈本里香が死後強大な呪いとなり彼に取り憑いている……ということだったが、悟くんは違う視点から彼の境遇を考えているようだ。まだ推測だけどね、と肩を竦めるのを見る限り今の所それを誰かに口にするつもりはないらしい。ならば私も彼が伝えてくれるのを待てば良い、それだけの話だ。半分くらいになったカシスソーダを飲み干して一つ息を吐き出す。包帯で目元を覆って髪を逆立てている悟くんは机に肘を付きながら楽しそうに口角を持ち上げていた。
「今日はよく飲むね。僕がいるから?」
「……そうかも」
「……そんなに簡単に肯定されるとちょっと恥ずかしいんだけど」
恥ずかしい、なんて言いながら私の頬に手を伸ばした彼にきゅっ、と瞳を細くする。触れた手の大きさやぬくもりがなんだか懐かしい気がした。数年前と比べると彼と私だけの時間は少しばかり減っている。これは彼が悪い訳ではなく、最近の呪術界での流れや呪いの勢いが増している事を示している。彼でないと手に負えない任務が東京でも、東京以外でも兎に角多くて悟くんは長期の出張を余儀なくされていた。乙骨くんが高専に来てからは更にその傾向が強くなり、彼を気に入らない上層部は乙骨くんへのフォローを疎かにさせたいのか、それとも単なる嫌がらせなのか。この2ヶ月、悟くんはほとんど高専にも帰ってきていない。
「……ごめんね」
「……どうして謝るの?」
「僕は本気でもっと捺の側に居たいのに……それを選べなくて、ごめん」
彼の目は見えないけれど、その顔が曇っていることぐらい容易に想像できた。もう一度静かに「ごめんね」と伝えた彼になんだか不思議な気持ちが込み上げる。あたたかくて、やさしくて、それでいて何処か泣きたくなるようなそんな衝動。それでいて彼にこんな顔をさせてしまった罪悪感。渦巻く感情を胃の中に落とし込むように嚥下して、私は口角を持ち上げた。今の私にできることはきっと、これだ。
「大丈夫だよ」
「……そんな訳、ないだろ」
「勿論私も寂しいのは、寂しい。……けど、悟くんの夢を応援してるから辛くはないよ」
「……」
「僕って一人称もすっかり慣れたんだなって思うし、生徒のことを大切にしてる悟くんが、私は、好き」
本心だった。確かにあの広い家に1人で彼の帰りを待つのは寂しくて、少しだけ苦しくもなる。2人で寝ても余るくらいなら大きなベッドに私だけ転がっても、ひんやりとした人の温もりの足りない布団に心が凍えてしまう気がした。それでも彼は忙しい間を縫って小まめに連絡もしてくれるし、いつもいつも「会いたい」と伝えてくれる。そんな優しい言葉に私は元気を貰っている。私が悟くんに会いたいと思うように、彼と私に会いたいと願ってくれている。それはきっと、言葉に出来ないくらい幸せなことだ。
暫く黙り込んだ彼は突如その場から立ち上がると伝票と私の腕を掴んでレジへと歩いていく。ろくに手をつけていない料理が残っているのに驚いたけれど、静かな表情に何も言えなくなってしまった。カードで簡単に会計を済ませ、家に帰る方とは反対の道のりを歩いていく彼の足取りはとても素早い。
「っ、さとるくん、まって、何処に……!」
「ホテル」
「ホテル!?」
「……この辺安っぽいとこしかねぇな」
衝撃を受けた私の声はどうやら彼には届いていないらしい。急くような声で裏通りのネオン看板に首を左右させ、その中で一番高い施設で目を止めた彼はあっという間にフロントを潜るとじっと説明書きに目を通してからチェックインを済ませていく。抵抗する間も無く所謂ラブホテルにしては割高な料金設定な事に目を丸くする私をエレベーターへと連れ込んだ彼は、しゅるりと包帯を解いて頭を振った。
ふわり、と浮き上がるようにして美しい白髪が元の位置に戻り、真っ青な青が顔を出す。それを目にした瞬間、きゅ、と胸の奥が締め付けられるような感覚に陥った。五条くんだ、と。私の体が彼の全てを感知する。髪を立ち上げたスタイルにはもう慣れたつもりだったのに、昔からよく知る見た目に戻った途端にトクトクと心臓が鼓動し始めた。あまりのスピード感に気持ちが追いついていなかった私の精神がやっと今追いついたような、そんな感情を得たのだ。彼の手が熱いのか私の手が熱いのか、今ではもう、わからない。
「……捺」
「さとる、くん……」
「お前、俺に会いたかった?」
私達の部屋に入ってすぐ。後手に鍵を閉めた彼は私に向き直り、問いかける。私がそれに頷くより先に悟くんは私の唇に噛みついた。獣みたいな拙さで、そして少しずつ人間らしく情緒的に、いやらしく舌が交わっていく。久しぶりの感覚に脳が震えて足を制御している力が徐々に抜けていくのが分かった。僅かな息継ぎと咥え方の変化の合間、必死に、途切れ途切れに伝えた「あいたかった」という言葉は彼に届いたらしい。大きくて立派な骨で形成された腕が腰に回り、私を離さない。がくん、と倒れそうになるたびに優しく撫でながら力強く捕まえてくれる悟くんになんだか安心感すら覚えた。終いには立っていられなくなった私の体を軽々と持ち上げる彼は妖しい色の照明が灯っているベッドへと私を連れて行く。丁寧に、大切なものを扱うようにマットレスの中心に体が包み込まれていくのを感じつつ、私は彼を見上げた。影になっていてもその瞳は相変わらず美しい。
「……久しぶりなのに家じゃ無くてごめん」
「……家のベッドだともう一回り広いもんね?」
軽口混じりの返答に一瞬面食らったように瞬きを繰り返した彼はニヤリ、と効果音が聞こえそうな笑みを浮かべ、そうだな、と笑った。彼はやっぱりこういう顔がよく似合う。もう一度私に口付けをした彼はベルトを抜き取り、自身のシャツを床に荒っぽく脱ぎ捨てた。日焼けしていない白い肌には見慣れない傷が無くて、それにひっそりと息を吐き出した。悟くんに抱かれる度、彼の体に前とは違う何かが無いか確かめるのは私の癖のようなものだ。悟くんの術式を踏まえると新しい傷が残っていないことは今回の任務を彼が無事に終えたという何よりの証なのだ。
整った筋肉に抱きしめられながら普段とは違う環境に少し肌を震わせた。年甲斐もなく、ちょっとだけ緊張しているのかも、知れない。ホテルで抱かれるなんて学生以来だろうか。2人で向かった任務の帰り、なんとなくそういう雰囲気になってお互い右も左も分からないまま地方の安いホテルに泊まった事がある。あの時と比べると東京のホテルは随分立派な作りだなと感心してしまった。
「……任務の夜、いつも思う」
「っ、なに、を?」
「なんで隣に捺がいないんだろって」
「……悟くん、」
寂しそうな憂の残る顔付きをしていた彼は私の呼び掛けに頭をあげ、ふ、と柔らかく笑い「捺も悟って呼ぶの慣れてるじゃん」と呟いた。それがなんだか凄く恥ずかしくて、さっき彼の一人称に触れた時、彼も同じような気持ちだったのかと思うと肩身が狭く感じる。こんなにも一緒に居たら慣れるよ、と照れ隠しも込めて少しだけつっけんどんに答えても、悟くんはやっぱり落ち着いた様子で笑った。
「……めちゃくちゃ嬉しい」
「……ぁ、」
「捺に名前呼ばれるの、すげー嬉しい」
なんて、幸せそうな顔をするんだろう。なんて綺麗に笑うんだろう。彼の家のものと比べると明らかにチープな電球なのに、それでも尚、悟くんはきれいだ。ずるい。こんなにもかっこよくて素敵な彼に幸せそうに微笑まれてしまったらきっと、どんな女の子だってやられてしまう。惚けてしまった私を抱きしめて「……愛してるよ」と囁く彼の言葉に嘘偽りはない。シーツの布ズレの音を聞きながら心地よい倦怠感に呑まれた私が、全てが終わった後、ピロートークで彼が言った「今悟呼びに慣れたら結婚しても困らないもんね」という飛躍しすぎた未来予想図に赤面してしまったことはきっと言うまでもない。
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