選んだ道
私の部屋に突然入ってきた彼は酷く不安定だった。誰かが受け入れてあげないと何処かに行ってしまいそうな輪郭のない姿を見たその瞬間、私は自分の中の悲しみがすっと引いていくような感覚に陥る。押し寄せた波が元ある場所に帰るような不思議な気配を肌で感じながら、私は気付けば今にも溢れ出しそうな青い瞳を抱き寄せていた。大丈夫、大丈夫、と小さな子をあやすみたいに唱え続けて、その間彼は静かに、それでいて強く私を抱きしめる。綺麗な彼に落ちた哀しみを少しでも減らしてあげたい、背負ってあげたい、そんな思いであの日私は彼を受け入れたんだ。捺、と必死に私を呼ぶ声に応えるように、彼の広い背中とほんのり硬い動物みたいな白髪を出来るだけゆっくりと穏やかに撫でて、暗い夜が過ぎるのを2人で待った。時刻は午前4時過ぎ。白み始めた空の奥で名前も知らない鳥の声が聞こえて、次第に彼の力が弱り始めたのを感じる。彼もきっと朝の訪れに安心してしまったんだろうな、と思いながら優しく五条くんの背を撫でて、それから耳元で「おやすみ、」と呟いた。彼はその声にピクリ、も反応し、覚束ない動作で大きな掌を私の頭に伸ばすと、一度、二度、微かな力で髪に触れ、すぐに動かなくなった。聞こえ始めた寝息が一定になるまで見守って、ツキツキと痛んだ頭がタイムリミットを告げる。私も、眠ってしまおう。
「……はよ」
次に目を開けた私を迎えたのは、海底すら透けてしまいそうな純粋な青。罰の悪そうな、そして少し気恥ずかしそう声で朝の挨拶を口にした彼に「おは、よう、」と枯れた喉で返事をする。まさか五条くんも私も、初めて一緒のベッドで寝るのが今日になるなんて、少し思っていなかった。そう考えると寝起きの顔も跳ねっぱなしの髪型も途端に恥ずかしくなってきて、顔ごと慌てて目を逸らしたけれど、五条くんはそれに、あ、と不満そうな声を零す。捺、と私を呼ぶ声が背中側から聞こえたけれど、今の顔をこれ以上彼に晒す勇気は無かった。涎がついていたら嫌だし、昨日は沢山泣いてしまったから瞼が浮腫んでいるかもしれない。きっと、ひどい顔だ。
「……なんで目逸らすんだよ」
「だ、だって……」
「捺、」
五条くんの声には不思議な魔力がある。振り返らないと決めていた筈なのに、私の名前を呼ぶハッキリとした声が頭の中に木霊し、自然と体がぎ、ぎ、ぎ、と回って改めて彼と向き合ってしまったのだ。まるで操られたかのような言葉の力に唖然とする私の顔に五条くんの手が伸びる。大きくて暖かいそれは頬を軽々と包み込み、親指の腹で軽く涙の跡を拭い取ってしまった。涙自体は決して綺麗なものではないから彼にそんな事させるのは気が引けて、慌てて止めようとしたけれど五条くんは全くやめるつもりは無いらしい。何度も何度も丁寧に跡を拭った彼はそのままゆっくりと自らの顔を寄せて、ちゅ、と小さなリップ音を立ててキスをする。その行為に未だ慣れず固まってしまった私を見て、楽しそうに口角を上げて五条くんは笑った。……五条くんは、ずるい。
「……だから教師でも目指そうかと思ってる」
彼の言葉にふ、と視線を持ち上げる。どっかりと私のベッドに腰掛けながら足を組む彼は真っ直ぐに天井を見つめていた。……あの日以来、五条くんは弱った姿を私には見せていない。彼が教育という道を選んだのは意外だったけれど、何処か納得している自分もいた。実際私もこの数年で彼に沢山のことを教えられてきたし、学んで来た。彼の教え方は実践的で分かりやすく、それでいて効率的なのだ。五条くんの持ち得ている強さというものは才能だけでは無く、強くなるための最短距離を走り続けた所にもある。私と同い年の彼がここまで強く、まさに最強と呼ばれるようになったのは常に戦いに対して頭を回し続け、貪欲に努力し続けたからだ。それはきっと元の才だけでは成し得ないものだと私は思っている。
何処からか持ってきたお饅頭に噛み付いた彼はモゴモゴと口を動かしながら「俺だけ強くても多くは救えない」と呟いている。……少し聞き取りづらかったけど多分、そんな感じのニュアンスだろう。五条くんが教師を目指した理由として語った今の呪術界の改革については私も幾つか思うところがある。総監部に当たる上層の人間には若い世代が居らず、任務を続ける中でしばしば思想が偏っていると感じることが多かった。他にも良い噂は聞かないし、彼の考えは真っ当で筋が通っている。
「……そうやって、後進を育てて少しずつ改革を?」
「平たく言えばな。……まぁ、多分時間は掛かるけど」
でも、やる価値はある。ハッキリと告げた彼の瞳は確かな決意に燃えていた。五条くんは私に是非を問いたい訳ではない、きっと、今後そうしていくという意思表示のようなものだったのだろう。私達の世代だけで完結するかも分からない長い長い計画。でも、彼の言う優秀な後進が生まれれば、きっといつか、時代は変わる。それは一種の博打のような話だ。でも、賭ける価値はある。こくん、と肯定するように頷いて「すごく良いと思うよ」と素直な感想を伝えた私に五条くんは小さく息を吐き出した。
「でも、そっか。五条くんが先生かぁ」
「……んだよ、不満か?」
「え!?そ、そうじゃなくて、その……ちょっと羨ましいなって」
羨ましい?と首を傾げた彼に何度も首を縦に振る。同級生であった私ですらここまで伸ばしてもらえたのだから、初めから教える立場として向き合ってくれる五条くんからはどんな事が聞けるのか、どんな風に強くなれるのか純粋に興味があった。教え上手な彼から彼の思う呪術の認識を聞ける機会なんてそうそう有るものじゃない。だからそういった意味で羨ましいのだ、と訴えた私に五条くんはぎゅっと眉を寄せ、口を一文字につぐんでしまう。あまりに渋い表情を浮かべる彼に何か嫌な気持ちにさせてしまったのかと慌てたが、……お前さ、と落とされた声には怒りは篭っていなかった。
「……そういうとこあるよな、マジで」
吐き捨てるように言ってからすぐに黙り込み、真っ黒なサングラスを目深く掛けた彼につい、へ?と抜けた音が零れたけれど、跳ねた髪から覗く耳が赤く染まっているのに気付いて私まで顔が熱くなってくる。た、たしかに、その、急に褒めるのは心臓に良くないとは思うけど、こんなに恥ずかしそうにされるとは思いもしなかった。どうしていいか分からずに、ごめんなさい、と謝る私に相変わらず何も言わずグイッと顔を逸らす五条くんは案外素直な人なのだ。
私がそれに気付いたのは彼と付き合い始めてからだった。前までは何を思っているのか分からない時も多くて硝子に沢山相談していたけれど、今ではそれも殆ど無くなった。五条くんに手を繋がれる時は一度お互いの手の甲を触れさせてからだったり、恥ずかしい時は今みたいに黙り込んだり、一緒に行くと言いだす時は大抵私を心配してくれていたり……そういった細かな五条くんらしさに触れられたのは2人で過ごす時間が増えたからだと思う。彼は私に対しては言葉よりも先に行動で示すタイプの人のようで、言葉そのままに受け取るだけでは真意を読み違え兼ねない。……ほんの少し不器用で、それでいて彼は優しい人だった。
「……つーか、何で向かい合わせなんだよ」
今だって、そうだ。沈黙の後の少しだけ機嫌悪そうな言葉は別に、怒っている訳ではない。勉強机の前に座っていた私の腕をこっちに来いと引っぱり自分の所に寄せようとする彼の行為に素直に応じれば隣に座る五条くんは嬉しそうな目で私を見下ろす。それに彼本人が気づいているのかは分からないけれど、私はこの顔を見るのがすきだった。目は口ほどに物を言う、という諺は彼のためにあるのかもしれない。……わたしのベッドの上で、2人きり。初めはどうにも緊張してしまったけれど五条くん曰く「……俺の部屋で2人の方が自制出来ない」らしいので、私たちが一緒に話す時は大抵私の部屋に集まることが多い。
ぶらり、とベッドの側面に垂れた私の脚の長さと彼の脚では天と地ほどの差がある。身長が高いから仕方ないのかもしれないけれど、それにしたって五条くんはスタイルが良くてかっこいい。ずるいなぁと恨めしい目を向ける私に、なんだよ、と彼は若干困ったように疑問を投げかけたけれど、足が長くて羨ましい、と答えた私には途端に呆れたようにハァ?と片眉を持ち上げた。
「お前と俺じゃそもそも体格が違うだろ」
「でも、五条くんはそれでも長いよ……」
「…………捺は今くらいが丁度いいんだよ」
「……短足でいいってこと?」
バッ……!と何か言いたげに視線を彷徨わせた五条くんはガシガシと綺麗な髪をかき混ぜると、物凄く小さな声で「……その方が、抱き締めやすいだろ」と水滴を一つ落とすみたいに呟く。それでも隣に居る私がそれを聞き逃す筈もなく、ばっちりと鼓膜を揺らした抱き締めやすい、という響きにじわじわと一度冷めかけた熱が上がっていくのが分かる。五条くんは引き寄せた時に触れていた手を強く握りなおすと手も小さいし、とポツリと呟いて、そのままゆっくりと私を見つめる。夕暮れに近付いた時間帯に揺れる五条くんの白はまた、美しい。
捺、と私を呼んだ彼の声は少しだけあつい。ほんのりとした危機を感じた時にはもう、私の体はベッドの上に転がされていた。ごじょうくん、と止めようとした声は「分かってる」の一言に押さえつけられる。私の部屋を選んでくれている以上きっと、彼は本当にそんな事はしないんだとは思う。そう信じてる、けど、やっぱりどうしても硬くはなってしまうもので、大きな彼に覆い被さられるように視界が影で染まるのにトクトクと心臓の音が煩くなっていく。恐怖なのか、それとも好奇心なのか。はたまたそのどちらでもないのか。五条くんの目は私を見定めるような静かなものだった。けれど、
「…………はぁ」
結局、彼は何もせずにゴロンと私の隣にその巨体を寝そべらせて背中を掬うみたいに抱き締めた。わ、つい声が漏れたことも気にせずにただただ五条くんは私の体を隙間なく自分の体に密着させるだけで、それ以上は何もしない。整った顔を私の首筋のあたりに埋めて擦り付けるみたいに頭を動かす仕草が子犬みたいで少しくすぐったい。肌に触れる毛の一本一本に身を捩らせ無意識に逃げようとする私をもっと拘束するみたいに五条くんは筋肉のついた腕を強く背中に回す。
「……五条くん、大丈夫?」
「……何が」
「無理してないかな、って」
「……まだしてない」
まだ、と付いた否定の文章に苦笑する。つまりはきっと、彼は今後無理をしちゃうんだろうな。五条くんは賢い人だし勘もいい。自分のこれからが簡単な道ではないことをある程度理解してしまっているんだろう。……きっと上は五条くんが教育者になる事を嫌がる。彼ほどの強い人材ならば常に前線に出張らせて自らの監視下に置く方が動かしやすいし、何より謀反を企てられないだろうから。それに御三家の一つ、五条家の当主の彼には発言力もある。彼の思想が呪術師を目指す学生達に伝われば自らの地位が脅かされる可能性も高くなる。それを恐れた上層部が何か仕掛け兼ねない事なんて、明白だ。
「…………正直まだ、俺が誰かに教える側って意識湧かない」
「……うん」
「ぶっちゃけ、向いてないだろこういうの」
地に足つかないような、あやふやな声。息にも近いか細さからは珍しく自信無さげな様子が伝わってくる。確かに彼が自分より幾つも年下の生徒に教鞭を取る様子を浮かべるのは中々難しいかもしれない。私が返す言葉を探しているうちに「捺にも、あんなんだったし、」と付け足すように五条くんは続ける。……私は別に、五条くんを嫌いだなんて思ったことは無いし、むしろ感謝しているくらいなのに。
「……今はそうかもね」
「…………」
「でも、きっと五条くんはいい先生になれるよ」
「……何の根拠があんの」
「私にとってはいい先生だったから。……後は勘かな?」
だから大丈夫だよ、とふわふわの後ろ頭に手を伸ばす。五条くんならきっと出来る、でも、本当に嫌になったら無理して続けなくてもいい。教師という手段がもし間違っていたらその時はまた違う道を2人で考えよう、と、出来るだけ柔らかな声で彼に伝えた。私は彼が彼らしく生きる方が嬉しいし、彼がしたいこと、しようと思うことは応援してあげたい。彼がこれから生まれてくる術師たちの未来を憂い、だからこそ未来に繋がるレールを敷いていく選択をしたのは素晴らしい事だと思う。でも、極論、私にとって先が見えない未来よりも今目の前にいる五条くん自身の方が大切な存在なのだ。もしかすると、これは酷い考えかもしれないし、彼の高尚な思想の隣に並んでいいのかも分からない。けれど、私が好きなのは、やっぱり何度考えても五条悟くん、その人なのだから。
「…………先生じゃなくて、彼氏だろ」
たっぷりの沈黙の後、五条くんはそう言った。一瞬惚けた私はすぐにくすりと口角が緩んでしまい、そうだね、と頷いた。私に笑われたのが気に食わなかったらしい彼は更にぐりぐりと自分の顔を押し当ててくる。でも最後には、くぐもった声で、すき、と唱える彼はやっぱり根は素直な人なんだろうなぁ、と、私はもう一度そんな五条くんを見て微笑んでしまった。
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