はじまりの朝









「…………俺と、付き合って下さい」










傾いた太陽に世界全てが真っ赤に染まる。高専の木造の校舎をいつもより明るく、濃く色付かせた夕日は窓ガラスを反射してキラキラと宝石みたいに輝いている。目を丸くして俺の前に立つ彼女の頬が柔らかな橙に移り変わり、床に写る影がいつもより長く、くっきりと描かれていた。カラカラに乾いた喉から発した俺の声はきっと、酷く情けないものだったに違いない。掠れて、小さくて、それでも、出来るだけハッキリと伝えた短い言葉。伝えたかった、言葉。普段適当に話して敬語なんて使う間柄じゃないのに人間はこういう時はどうにも謙ってしまうものなんだと今日、初めて分かった。感じたことが無い極度の緊張に胸が苦しく、胃の奥から酸がせり上がりそうだった。真っ直ぐ立っている筈なのにグニャグニャと足場の悪い場所に居るような感覚がして、身が竦む。こんなに誰かを好きになるのも、こんなに誰かに拒絶されるのを恐れたことも初めてなのだ。俺にとって初めての事ばかりで、正直よく分からない。









「お前いつになったら告白すんの?」硝子にそう笑いながら言われた。売り言葉に買い言葉、今週中にしてやるよ!そう叫んでいた時にはもう2人はニヤニヤと嫌な顔をして"言質取ったぞ"と笑った。後悔した時にはもう遅い。たった4人のクラスなのに態々傑に捺をこの廊下に呼ぶように頼んだ。……というか、そうしろと提案された。告白すると決まった時からずっと、毎晩悩みに悩んで寝不足になった。捺と会う度に頭の中に告白の事が彷徨いてマトモに会話出来なかった。……本気で体調が悪いのかと心配された時は流石に焦ったけど。





伝える時間は夕方にした。朝だと踏ん切りが付かないし、夜まで落ち着かないのも耐えられないと思ったから。それに、俺が彼女と初めて本当の意味で顔を合わせた時間も今みたいによく晴れた夕陽の差し込む時間だった。あの日は泣いていた彼女の顔には、今日はただ驚きが張り付いている。いっそ殺して欲しいとすら思った。遠くから鴉の声が聞こえるだけで、俺と捺の間には沈黙が流れている。長い長い、沈黙。もしかしたらたった数秒なのかもしれないけれど、俺は今処刑台に上って首にロープを巻き付けているような気分だった。あまりに生殺し、いいから床板を抜いてくれ、そう叫びたくもなる。








「……私、こそ、よろしくお願いします」









……え?ワンテンポ遅れて思わず口から抜け切った声が出た。いま、捺は、何を。状況について行けず、小さく頭を下げた彼女の丸い後頭部を凝視して、次に顔を上げて俺を見つめた捺の、恥ずかしそうに紅潮した頬と耳、丸く透き通った潤んだ瞳……そして、緊張からかぎゅっと握られた小さな手を見てそこでやっと俺は、彼女からの返事が"はい"だった事に気付いた。それと殆ど同時に廊下の角からやけにゆったりと歩いてきた硝子と傑は「やっとかよ」「おめでとう」なんて言いながら俺の背中を勢い良く叩いた。ッてえ!!と声を上げた俺に2人は容赦無くゲラゲラと肩を揺らして笑っている。何なんだよコイツら、つーか見てたのかよ!!








「どうなる事かと思ったよ……捺もありがとう、悟を受け入れてくれて」
「コイツ慰めんの絶対面倒だから助かったよ」








相変わらずとんでもない言い草の2人は捺を囲むようにして口々に感謝を述べていた。囲まれた中央でオロオロと交互に傑と硝子を見る彼女もまた動揺しているようで凄く恥ずかしそうに見てたの?と縮こまっている。小動物みたいな姿はこんな時でも可愛くて胸の奥にチクチクと針のように衝撃が突き刺さっていくのを感じた。完全に置いていかれているが、俺も俺で何が起きているのか理解が追い付かず意識がフワフワしている。だってそうだ、さっきまでロープに吊られていたのに、今はいきなりその綱をナイフで切られて解放されたのだから。ぼんやりと3人のやり取りを見つめて、ふ、と渦中の彼女と視線が交わる。あ、と小さく呟いた声はきっと彼女には届いていないだろうけど、ふにゃり。そんな音を立てて緩められた唇と柔らかな眼差しに思い切り唇を噛み締める。かわい、すぎる。





最早大荒れの俺の心を知ってか知らずか、彼女の隣に立っていた傑が「そういえば悟、好きって言った?」だとか抜かし始める。は?と、つい威圧的な返事で応えたが、確かに好きとは言っていない気が、する。ほんの数分前の何て告ったかすら曖昧な記憶を探ったが"すき"の2文字は引っ掛からない。……とてつもなく嫌な予感がした。こういう時の自分の感覚は当たると相場が決まっていた。なら言わないと、そう言いながら浮かんだ傑の嫌味なほどの満面の笑みにピクリ、と額に青筋が浮かぶのが分かる。コイツめちゃくちゃ楽しんでるじゃねぇか!俺に恥を欠かせたいだけだろ、そんな思いで「誰が言うか」と吐き捨てようとしたが、不意に感じた視線にグッ、と息を呑み込んだ。







「……五条くん、」






捺の何処か不安そうな、風に揺れる声。それでいて訴えかけてくるような真摯な目に俺は、弱い。そんな彼女の後ろに控える憎たらしい2人組を一瞬キツく睨んでからゆっくりと、一歩捺へと近づいた。……明確な始まりは定かではない。俺がいつから彼女を思っていたのか、いつからこんなにも苦しくなったのか、いつから目が離せなくなったのか、どれも具体的な答えはない。いつの間にか俺は、捺の周りには太陽の光が自主的に集まってくるように見えていた。彼女の周りだけが美しく輝いて見えた。人間ってのは都合良く、不公平な生き物で、街を歩いて声をかけてくる女も、任務先で会う女も、誰も彼も。彼女みたいに目を細めたくなるくらい綺麗なやつは居なかった。俺は捺の、自分より背が高い俺を覗くように見上げる仕草が、柔らかで触り心地の良さそうな髪が、華奢な体付きと見合わないくらいの根性が、







「…………好き、だ」







震えた喉を自覚した俺が上り詰めた熱を感じるのと、目の前の彼女がもっと真っ赤になるのは殆ど同じタイミングだった。一拍空けてから馬鹿みたいに騒いで笑いだした2人に吠える俺と、泣きそうになりながらも「わたしも、好き……!」と返した捺も、全部が夕焼けに包まれて褪せていく。4人の声が校舎に木霊して、人生イチってくらい揶揄われ、笑われ、締め付けられた日。俺と彼女が新たな形で始まった日。俺の親友もまた、目尻に涙を浮かべるくらい腹を抱えて笑っていた。この日はきっと俺が人生で忘れられない日の一つ。









そして、そんなたった1人の親友が、夏油傑が高専を去った日もまた、俺の人生を作り上げる一つとして刻まれる事になる。















「君にならできるだろ、悟」

「君は五条悟だから最強なのか?最強だから五条悟なのか?」

「生き方は決めた、後は自分にできることを精一杯やるさ」

「殺したければ殺せ、それには意味がある」
















宵の口特有の冷たく、刺すような空気。寒い季節じゃない筈なのに妙な底冷えが心地悪い。俺は傑を、止められなかった。アイツの語る理想も、生き方も、その意味も、分からない。傑は言わなかった。何故そうしたのか説明しなかった。何を思っているのか、何を考えているのか、俺には、分からなかった。ただ理解できたのは、傑は俺に助けを求めなかったし、俺を拒絶した。それだけ。俺が救えるのは誰かに救いを求められるある種"強い人間"だけなのだ。夜蛾先生は俺の言葉に何も言わなかった。ただ、俺の髪をわしわしと数回撫でて、風邪を引く前には部屋に戻れと告げる。俺もまた、何もそれに返さなかった。





いつの間にか傾いた日は夕暮れを過ぎ、とっくに夜の帳が下りている。草木は薄い露で濡れて嫌に大きな月の光を受け止めていた。きらきらと反射する光の美しさにも心は全く動かない。凝固し切った心臓の熱を少しも感じない。ふらふらと当てもなく彷徨って、辿り着いたのは一枚の扉の前だった。こんなところ見せたくない、見られたくない、そう思いつつも俺の腕はゆっくりとノブに伸びていく。鍵は掛かっていなかった。







「……ごじょう、くん……?」







蚊の鳴くような声だった。窓から差し込む月の光を背に受けてベッドに縮こまって座る、彼女。頬に流れた光の筋は彼女が泣き腫らしたことを痛々しく表していた。でも俺の体はそれに気遣い、触れるより先に彼女を強く抱き締めていたのだ。俺なんかよりずっと小さい体は重さと衝撃に耐えられずそのまま重力に従ってベッドのスプリングに倒れ込む。張り詰めた糸が切れそうな中、残された理性でせめて怪我をさせないように抱き止めて、俺と捺はベッドに転がる。いつもなら、こんなことをしたら信じられないくらい心臓が速くなって吐きそうなくらい緊張するけど、今はそうじゃない。色気なんてない、ただ、どうしてもそこにお前がいることを実感したかった。




組み敷かれたのと大差ない捺は俺を見上げて、いつかみたいに目を丸くしていた。こんな時でも彼女の瞳は月光を反射してひどく美しい。でも、すぐにそれは、きゅ、っと苦しそうに細められて、捺は目頭から目尻に掛けてを何度も自らの指先で擦った。まだ彼女の目には涙が浮かび薄い膜が張っているのに、捺はそんな事気にしないみたいに両腕を俺の首元に伸ばし、そのままぎゅっと俺を抱き寄せる。……音が聞こえそうな抱擁だった。彼女の重さが加わって首がもたげ、そのまま捺の肌に耳が触れた。暖かいぬくもりと、奥から聞こえるトクン、トクン、と静かに動く生の証に睫毛が、震える。捺は、生きている。俺の目の前で、俺の腕の中で、動いている。








「ごじょうくん、大丈夫だよ」
「…………捺……」
「……きっと、だいじょうぶ」








根拠も無い、確信も無い。それでも捺の言葉は何よりも、誰の物よりも信じられた。信じたいと思った。言葉にならない想いが溢れるのを堰き止めるみたいに彼女を強く、強く、抱き締める。羽交い締めにするかのような苦しい力加減にも捺は文句の一つも言わない。ただ俺の全てを受け入れようと必死にちいさな体を、腕を、広げている。俺の中で殆ど押し潰されている捺は穏やかな声掛けながら俺の背中を優しく撫でる。無事な筈がないのに、彼女も冷静なわけないのに、何故こんなにも捺は、あたたかいのだろうか。



奥歯を噛み締めた。そうしないとダメになりそうだった。甘えるみたいにぐりぐりと細い肩口に顔を埋めた。ツンと鼻の奥の方が痺れて、何度も啜った。夜が白み始めるまで、何度も捺、と名前を呼ぶ。そうしないと彼女が深い闇に連れて行かれそうな気がした。高専の周りに生い茂る森の奥から鳥の囀りが聞こえたのを合図に、俺の視界は少しずつ、朝焼けみたいに滲み始める。……おやすみ、と耳元で囁かれた馴染みの良い声もまた微睡そうなくらいに不安定で、それに何とか返事をしようと艶のある髪に指を通したのを最後に、おれの意識はぷつり、と途切れた。













次に目を覚ますと、俺の目の前には捺が居た。瞼を閉じて、すぅ、すぅ、と一定のリズムで吐息を溢す静かな寝顔は、カーテンの隙間から線状に注がれた光で輝いている。その光の筋の上にだけ浮かんだ細かな埃が雪みたいに俺たちの周りを浮遊するその光景は何処か幻想的にも感じられた。所詮ただのホコリに過ぎないのに。昨日の夜俺がここに来た時はカーテンは閉まっていなかったのを見るに、捺が閉じてくれたのだろうか。そんないじらしい気遣いに深く息を吐き出す。……あぁ、クソ、カッコ悪ィ……わしわしと髪が乱れるのも気にせず掻き上げて、透明感のある彼女の顔をじっと見つめた。白くて柔らかそうな肌には涙の跡が残っていて、思わず眉を顰めながらほんのり震えた指先で拭い取る。




俺が部屋に押しかける前からきっと捺は泣いていた。彼女の泣き顔は何度か見たことがあったけれど、昨日の涙は今までのどれにも当て嵌まらない無力さに包まれた物だった。彼女も、俺も、きっと後悔していたんだと思う。存在しているのかも分からない"もしも"を考えては苦しんでいたんだと、思う。……死人に口は無し、アイツは死んじゃいないけど、大差はない気がする。結局のところ俺にも、彼女にも、硝子にもきっと、どうすべきだったのかなんて分からない。もしかしたらコレは、避けられない不和だったかもしれない。






なら、俺はこれからどうすればいい?俺が救える範囲には限りがあると知った。ただ強いだけじゃ変わらないことがあると気付いた。今のままでは、きっと意味が無い。新しい事をしなければならない、新しいことをしようとしなければいけない。積み上がった課題の一つ一つを下ろして考えても中々明確な答えには辿り着けず、何となく、捺を見つめる。気が抜けてしまいそうなほど静かな眠りの中にいる彼女を見ていると今抱える問題や悩みについての暗い感情が晴れていくような気がした。……不思議な女。俺が愛してる、たったひとりの、大切な人。









「……捺、」








お前がこれ以上悲しまないためにはどうすればいいのだろうか。お前を泣かせない為に、俺はどうすればいい?頬を拭った指先をゆっくりと赤く熱を持った唇へと伸ばして弾力のある感覚を自ら感じた。そして、そのままそっと、一度だけキスをする。もう俺はこれ以上何も失いたくない、そんな思いを込めて小さな体を俺の体で包むみたいに腕を回した。ただ今の俺が願うのは、お前を護りたい、そんな微かで素朴な感情でしか無かった。







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