ミルク・ディッパーは零れない











「っねがいしまーす!」
「あーっ疲れた!」
「……すみません捺さん、お願いします」











三者三様の声掛けに微笑みながら「どうぞ」と穏やかに彼らを迎え入れる。最後に乗り込んできた伏黒くんが酷く申し訳なさそうな顔で謝罪しするのを見て、気を遣わなくてもいいのに、そんな思いを込めて大丈夫だと返事した私に相変わらず浮かない顔をしている彼は何処までも真面目な青年だ。全員が席に着いたのを確認してから鍵を掛け、アクセルを踏み込み、ゆっくりとした滑り出しでタイヤを回して行く。そうして私は、今日も彼らを無事に送り届ける仕事に取り掛かるのだった。




後部座席で3人並びながら楽しげに話している今年の1年生は、やはりとても仲が良い。真希ちゃん達も勿論仲が良いけれど、やっぱり学年によって雰囲気には特色が出る。大体3人以上車に乗る時は1人は助手席に座る事も多いのに、ぎゅうぎゅうになってまで体を寄せ合う虎杖くん達はもはや兄妹のような空気を感じるし、見ていて凄く微笑ましい。長く1人だった伏黒くんも今では2人に揉まれつつも嫌そうでは無いし、相性が良かったんだろうなぁとミラー越しに微笑みを浮かべた。……この仕事をしていると、つい、学生達の爽やかさに当てられてしまう。自分にもこんな時代があったんだなと考える度に今を生きる彼らが眩しくて仕方がない。経験したことは違えど、私にとって高専での学生生活はかけがえのない大切な時間だ。大切な、青春なのだ。






「……あれ?そういえば行きって伊地知さんだったよな?」
「あ、確かに!でも帰りは捺さんなのね」
「実は伊地知くんはやらなきゃいけない仕事が出来ちゃって……私が引き継いだの」






私じゃ不満だった?と揶揄いまじりに問いかけると虎杖くんと野薔薇ちゃんはブンブンと大袈裟なくらい首を横に振る。そんな訳ない!と主張してくれる彼らは相変わらず良い子達だ。くすくすと唇を緩めたけれど「……今日捺さんオフでしたよね?」なんて。伏黒くんの鶴の一声が車内に響いて瞬間的に車内が水を打ったように静かになった。そして数秒の沈黙の後、ワッ、と急な盛り上がりを見せる後部座席に苦笑いが零れる。どうして彼はそれを知っていたんだろう、誰にも言ってないと思うんだけど……そんな疑問に応えるように彼らのやり取りが鼓膜を揺らした。








「ちょっと伏黒!なんでアンタ捺さんの予定把握してんのよ!?」
「好きなんか!?そうなのか!?伏黒ォ!!」
「ッちげーよ!!前の授業で五条先生が煩かっただろ……」
「そうだっけ?」
「お前らな……」








ギリギリと青筋を立てる彼が見えて呆れ混じりの乾いた笑みが落ちる。悟くん皆に話してたんだ。ぼんやりその姿想像したけれど、ものの数秒で嬉しそうな彼がイメージが出来て最早何も言えなくなった。確かに家でも凄く喜んでいたっけ「久しぶりに捺と休みが被った!」と夢中で抱きしめてきた悟くんはまだ記憶に新しい。大袈裟だなぁと思いつつ、私もやっぱり嬉しくて、昨日の帰りに彼の好きな手料理を振る舞う計画で食材を買っておいた。……悟くんは拗ねていないだろうか?伊地知くんから受け継いだのは1年生の送迎だけなので晩御飯の準備までには帰れると思うけれど……口を尖らせて青い目で見つめてくる彼が脳裏に浮かび上がる。帰ったら離してくれないパターンかもしれない。








「それに捺さん、今日は指輪してるだろ」
「…………え?」
「指輪……って、もしかしてあの位置捺さん結婚してたの!?」
「マジ!?ほ、ほんとだ……相手は!?どんな人!?」
「お前らマジかよ……相手なんか決まって、」
「───勿論、僕だよ?」








ピー、ピー、と機械的な音が響き、運転席側のドアが開いた。ぬっと上半身を差し込んで後部座席を覗き込んだ彼に3人の肩が一斉に飛び上がり叫び声が木霊する。……そう、彼らの談義が白熱する中、私の運転していた車はとっくに高専に辿り着いていたのだ。いつ声を掛けようかと迷っている間にフロントガラス越しに歩いてくる悟くんの姿が見えてそのままにしておいたけれど、非難轟々、といった所だろうか。ビビった〜!と胸を撫で下ろす虎杖くんと驚いたというより半ば怒りに近い野薔薇ちゃんと伏黒くんに彼は少しも悪びれる様子はない。笑って、メンゴメンゴ、と手を軽く振るだけだ。







「恵の言う通り、そりゃ僕以外あり得ないよね?」
「……まぁ、そうなのかな?」
「あ、何その釣れない反応!ちゃーんと僕も指輪付けてきたのに」






そう言って節のある手を見せた悟くんの薬指にはきちんとシルバーの指輪が嵌められている。シンプルで高級感のあるデザインは彼とショップで吟味した特別な物で、私達は基本的に肌身離さず身に付けている。……指輪としてではなく、ネックレスだが。指輪してるの初めて見たけど!?と案の定ツッコミを入れた虎杖くんに「悟くんは何かと狙われやすいから隠している」ことを伝えると、彼は興味深そうに、それでいて少し複雑な顔をして頷いていた。大方理解はしてくれたけど同情してくれている、というところだろうか?優しい生徒の想いに素直にありがとうと伝えると悟くんも何度か首を縦に振り「捺を必要ない危険に晒したくないからね」と軽く私の髪に指を通していた。







「でも捺さんって補助監督よね?どんな出会いだったの?」
「僕と捺は元々同期だったんだ。捺も昔は呪術師としてバリバリ働いてたよ?」
「バリバリ……かは分からないけど一応働いてはいたね」
「……自信持ちなよ。君は充分よくやってた」
「……早速目の前でイチャつかれても困るんだけど!」








む、と不満そうに目を細めた野薔薇ちゃんが車を降りたのを皮切りに残りの2人も軽く頭を下げながらドアを開けて足を地面に付けていく。それに倣って私も鍵を抜いて車にロックを掛けると仁王立ちした彼女がこうなったら洗いざらい吐いてもらうわよ!と意気込んでいた。さっきの反応を見るに怒ってしまったのかと思ったけれど、どうやら実際は違うらしい。臨む所だね!とキラキラしたオーラを身に纏った彼は野薔薇ちゃんからの俗っぽい質問の数々に一問一答の形式でサクサクと妙に慣れたように返答する。おお……と圧倒されている私と男の子2人はそんなやりとりを眺めつつ、ふ、と両側から私を見下ろした。







「元々捺さんは呪術師だったんだよね?……その、何で補助監督になったかって……聞いても大丈夫?」
「そんなに重い理由じゃないよ?ただ……」
「ただ?」
「……悟くんが教師を始めるって決めた時、私も出来るだけ近くでサポートしたかったら。それだけ」
「……それってつまり無償の愛ってヤツ?」








虎杖くんの言葉選びに思わず目を丸くする。隣でギョッと目を見開いた伏黒くんの気持ちはよくよく伝わってきたけれど、それ以上に私はつい、堪えきれず吹き出してしまった。無償の愛なんてそんなセリフ、何処で覚えたんだろう。私のこれは無償の愛なんて大それたものではない。ただのエゴであり、彼への押し付けですらある。補助監督をしていなくても彼を支える選択は出来ただろうし、結局私は私にとって生きやすい道を選んだに過ぎないのだ。少し考えてから「無償のではないかもね?」と笑った私の頭上へ不意に影が落ちる。導かれるように、殆ど反射的に見上げた私の目にはアイマスクを片側だけずらした彼の瞳が映って、あ、とそれを知覚した途端に柔らかな感覚が唇に触れたのを感じた。あつくて、よく知った感覚。頬に添えられた包み込むような掌に意図せず瞼が降りていく。決して長くはない口付けが交わされ、すぐに離れてゆき、悪戯っぽく笑う彼の姿が揺らいだ視界に輪郭として浮かんで何度も瞬きをする。……キス、された。理解が追いついた途端に燃えるように体が火照った。










「……つまり、最高の奥さんってこと」









分かった?悠仁。そうやって得意げに言う彼にしどろもどろになった高校生の青年の顔もきっと、私に負けず劣らず赤かった。あからさまに目を逸らした伏黒くんは耳の縁を色付けているし、野薔薇ちゃんに至っては放心してしまっている。あまりに恥ずかしくて咄嗟に悟くんの腕を引き、生徒の前ではダメだって言ってるのに!と泣きそうな声で訴えた私に悟くんはやはり悪びれない。平然とした顔で「じゃあ大人に牽制するのはいいの?」と首を傾げたのに服をぐいぐい伸ばして"だめ!"と制したが、彼の口角がますます緩むばかりで効果は薄い。昔より随分大人になったはずの悟くんはこういうところはずっと子供みたいだ。









「でも僕だって今日の捺との時間すっごく楽しみにしてたんだよ?」
「う、」
「本当は伊地知にクレームの電話でも入れてやりたかったのに先に止められたし?」
「ううっ」
「すっごく寂しい思いしてたんだけどなぁ」









ずるい。そう言われては私はもう何も言えない。実際彼は私の比ではないほど忙しいし、最近では海外にまで出張に向かうことすらある。会えない日が1週間以上続くなんてザラで、完全にお互い何もない休日が今度いつ貰えるのかすら分からないのだ。……私だって寂しい。私だって会いたかった。そんな気持ちで見上げたのは彼にはお見通しだったみたいだ。包み込むように抱きしめられて「今日のご飯、なに?」と甘ったるく尋ねた彼には刺々しさは少しも感じられない。穏やかで優しいだいすきな匂いに包まれて意識が少し削られるのを感じつつ、さっきよりも随分砕けた声で「おむらいす、」と答えた私に悟くんは幸せそうに笑うのだ。半熟がいい、とリクエストしてする可愛らしさに頷いたのに、悟くんはもっともっと嬉しそうに私を抱き寄せて、耳元で囁くように唱えた。









「……ご飯すっごく楽しみ」
「……うん、」
「その後お風呂に入るのも、一緒に乾かすのも、布団用意するのも……」
「うん、うん、」
「…………捺のこと、どろっどろに抱くのも、楽しみ」
「っ、な、」
「やだ?」
「や、じゃないけど……」














……そんな、柔らかくて暖色系等のオーラを纏った2人を見つめる1年生3人の目はそれぞれ個人差がある。生暖かく柔らかい視線、若干引いた視線、此方が恥ずかしいと言わんばかりの視線……それらを一身に纏いつつも2人は尚、触れ合いをやめない。結局どちらもある程度は似たもの同士、ということなのだろうか。一番前者の視線を向けていた虎杖は「あ、」と何かに気付いたような声を漏らす。彼が指した先には五条が抱きついた故に髪が乱れ、露わになった捺の頸が見える。そして、そこにくっきりと刻まれた赤い"印"に慌てて傍の2人が虎杖の口を思い切り押さえた。あれは流石に指摘して良いものじゃない、と必死の形相で首を横に振る同級生達の姿に何とか頷いた彼はゲホゲホと噎せ返っているが何方もが自業自得だと取り合おうとはしない。所有を示すその赤が見えたのが偶然なのか、必然なのか。それはきっと五条にしか分からないが、彼女に見えない位置に付け、彼女に見えない位置から3人を見て笑うことからも答えは自ずと導き出されるだろう。








子供のような独占欲と、大人らしい行為。そのどちらもを実践してみせる彼は彼で確かに彼女を愛しているのだ。そして彼女も……そんな彼を受け入れてもう10年近くの月日が流れている。小さな背中に彼の溢れんばかりの感情を受け入れて来たのだと思うと実に感慨深いと昔から彼女を知る伏黒は神妙な気持ちで見つめていた。釘崎は、というと……もうちょっとTPO考えろよあの教師!という感情を抱きつつ、あの人もそれなりに人間らしいところがあるんだなと感心してもいた。……きっと前者への感情が殆どを占めているのだろうけど。







……この世全てから俯瞰して、この瞬間の幸せはミルク匙一杯程度のものかもしれない。これから先、もっと険しい問題にぶつかるかもしれない。未来は決して、明るくないのかもしれない。だがそれでも、2人が手を取り合い、支えている限りきっと、その匙は零れない。そう、ミルク・ディッパーは零れない。








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