※本編後if
   





「……ただいまー……って、」
 
 




 
 
 あら。と間の抜けた声が広い部屋に響いた。普段なら扉の開く音と同時に彼女の気配と足音が寄ってくるのに、とそこまで考えてからコートのポケットを弄り、スマートフォンの電源ボタンを押し込む。表示された時刻はもうすぐ次の二十四時間の訪れを刻み始める頃合いで、相変わらずな自身の生活リズムに小さく息を吐き出した。目を閉じて革靴を脱ぎ捨てる中、リビングに確かな君の気配を感じられて、一先ず何か面倒ごとに巻き込まれた訳ではないのだと理解する。我ながらあの日結んだ縛り≠フ効果は絶大だ。
 
 

 ───結局、世界は変わっていない。僕や未来ある若者、そして時代に取り残されていく大人達の共同戦線の結果、巨悪たる両面宿儺を祓うことには成功したが、術師も呪霊も、その立場が変化することはなかった。誰かが決めた天秤の上にバランスよく揺らいでいるみたいに、均衡は保たれている。そもそも呪術師が呪いを使って呪い≠祓う。このシステム自体がナンセンスだとさえ感じているが、全てを撤廃するには時期尚早。僕たちが一方的に力を手放した結果、相手さんに幅を利かされちゃ元も子もない。特に僕は、尚更脱却からは遠い存在なのだろう。きっといつか、第二の両面宿儺が生まれる。その時に自分が生きているかどうか、最早定かではないが。

 
 
 唯一変わった事といえば……そう思いながら、ふと自身の左手を見つめる。真っ直ぐと美しく輝くシルバーリングの存在感に自然と頬が緩んだ。諦めていたつもりはないが、春の訪れと共に僕達は改めて結婚式を挙げた。捺は籍を入れているだけでも幸せだと多くを望まなかったが、僕は違う。彼女との出来事ならば少しでも沢山我儘を叶えるつもりだ。白いチャペルに立つ君は本当に天使みたいで、今でもあの光景を鮮明に思い出すことが出来る。もちろん友人からのメッセージは硝子に頼んだ。初めこそ面倒そうにしていたが、彼女らしい良い祝いの言葉だったと思う。テレビ台の隣に置かれた僕たち二人が並んだ写真を見つめてからゆっくりと視線をダイニングテーブルに向けた。綺麗な目を細めて柔らかく笑う写真の君とは違い、今の捺は夢の中に旅立っているようだ。
 
 
 


「……いつもありがとう」
 
 


 
 ソファからブランケットを持ってきて、彼女の小さな体を覆い隠すように被せる。自身の手を枕代わりにして薄い瞼を閉じた捺の寝顔は穏やかで、少しだけ安堵する。どうしても遠方任務に出ることがある僕が彼女を待たせてしまうことが多い。その辺りは昔から補助監督をしていた捺は理解しすぎるほどに理解していて、有難い反面やはり申し訳なさも感じている。女は家庭を守るもの、なんて前時代的な考え方もしたくないし、事実捺も優秀な呪術師だ。彼女は高専と提携しながら今も術師を続けている。だからお互い様……とはいかないのが現実で、食事や洗濯は時間の関係上捺がしてくれることが常だ。
 ただの五条悟でいい%謔ヘ僕にそう言ってくれるけれど、未だ全てを放り投げられない僕は、大概ひどい男なのだろう。それでも君は「悟くんらしいね」と笑った。まるで僕が、そう選択するのを知っていたみたいに。
 
 
 そっと、流れ落ちるしなやかな髪を撫でた。指通りが良くて天井から注がれた仄かな灯りに艶めく毛先を指に絡めて、そっと力を抜く。くるくると元の形に戻っていくそれが、たまらなく愛おしいと感じた。……その時、
 
 
 
 
「っうわ、」
「…………ん、」
 
 
 
 
 雪がしんしんと降り積もるような静寂を切り裂く、無機質な電子音。一定の間隔で数秒のメロディを繰り返す彼女のスマートフォンが木目調のテーブルの上で幾度となく揺らいだ。慌てて止めようとしたのも束の間、元より寝起きがいい彼女は社会人らしくゆっくりと長い睫毛を押し上げて、数回瞬きをした。ビー玉のような瞳に光が差し込み、視線が交差する。……そして、次の瞬間きゅっと瞳孔が縮み上がった。
 
 
 
「さ、さとるくん……!?」
「……おはよ捺」
「うそ、いつ帰って……ごめんなさい私全然……」
 
 
 
 
 アワアワと落ち着かなそうな捺が何処か可愛らしく、思わず口角が緩むのを感じた。真面目な彼女らしい反応だ、と思っていると先程彼女の眠りを妨げたアラームがもう一度鳴り響く。不意に目が止まったのは、液晶画面に刻まれていた文字列だ。ゼロが並んだ通知の下に並べられているのは、見知った人物の名前と特別な日を示すその単語。あ、と溢れた声に苦笑したのは捺だった。
 
 
 
 
「わたし、いつも気になって二回アラーム掛けちゃうんだよね……」
「……これって、」
「うん。……お誕生日おめでとう、悟くん」
 
 
 
 
 
 インテリアの一環として置いた壁掛け時計の針が天井からコンマ少し分ずれていた。誕生日という響きにそっか、と自身のぼやきが落ちる。もう、そんな時期だったのか。去年は色々立て込んでたもんね、と目尻を細めた捺はゆっくりと椅子から立ち上がると冷蔵庫から小さな小箱を取り出した。思わず上半身を伸ばして様子を伺うと、そんなに大したものじゃないからね?と前置きしながら、彼女の手がそっと持ち上がる。そこに現れたのはホイップクリームをベースに真っ赤なイチゴが堂々と鎮座した、小さなホールケーキだった。側面に少しガタつきがあり、素朴な印象を与える二人でも食べきれそうな、欲張り切らない大きさ。もしかして、と一つの可能性が頭を過り「……手作り?」と尋ねると、捺は気恥ずかしそうに頬を触りながらやっぱりわかるよね、と微笑んだ。
 
 
 
「レシピ見て作ったから味は大丈夫だと思うけど……見た目はやっぱりお店みたいには出来ないね」
「…………」
「……ちょっと、不格好すぎる?」
「いや、」
 
 
 
 寧ろ感動してる。素直に伝えた言葉に捺はキョトンとしてから大袈裟だよ、と眉を下げた。勿論全くもって大袈裟ではないのだが、彼女にはそう思えるらしい。三本の蝋燭をバランスよく添えて、柄の長いチャッカマンで火を付けたのを見届けてから慌てて部屋の電気を全て落とした。主役が消さなくても、と捺はやっぱり笑っていたけれど、主役でもなんでもこのくらいしないと示しがつかない。甘ったるい匂いが漂う暗闇でオレンジ色の炎に照らされた彼女は柔らかくて、暖かくて、綺麗だ。正しい歌よりもずっと遅いテンポで手を叩きながら僕の誕生日を祝う歌を口遊む捺の声は、いつにも増して綺麗に思えた。
 
 曲の終わりに期待するような視線が向けられる。何を意図しているのか、経験則で理解して、ふぅっ、と一思いに吹き消せば一人分の拍手で部屋の中が溢れた。今度こそ僕に動かせまい、と電気をつけた捺はただ、笑っている。
 
 
 
 
 
「今年もおめでとう、悟くん」
「……ありがとう捺」
 
 
 
 
 
 そう、今年も僕たちはこの日を迎えた。きっと来年も、その次も同じ言葉を口にするのだろう。そう考えるとなんだか少しだけ感慨深くなって、どこからケーキを切るか、と尋ねようとした彼女の体を思わずギュッと抱きしめていた。こういう時に限って愛してるよ、と月並みなセリフしか出てこなくて、それでも捺は「わたしも愛してる」と応えてくれる。
 
 欲張りな僕はまだまだ大人になれそうになくて、あと数年くらいは二人きりでもいい、そう思えてならない。わざわざ彼女の隣に椅子を引きずって並んで食べたケーキはクリームもスポンジも甘ったるくて、イチゴさえも酸味よりも甘味が強い僕好みに作られている。甘いイチゴ取り寄せたんだよ、と何処となく得意げな君がただ僕のためだけに苦労してくれたという事実を噛み締めた。弾けるようないとおしさ。僕が何年も掛けて積み上げた恋心とかいうどうしようもない存在は、まるでこのケーキみたいだ。
 
 

 
「悟くんが生まれてきてくれて……ほんとによかった」
「そんな風に言うのは多分捺ぐらいだよ」
「え、うそだぁ」
 
 
 
 
 彼女は冗談だと思っているのだろうけれど、別にこれも嘘じゃない。僕という存在の代償は決して少なくない。だからこそ、何のしがらみもなくそう思ってくれるキミに出会えたことは奇跡のような確率だ。真っ暗な夜を照らす恒星のような捺に僕がどれほど救われてきたのか、いまいち彼女自身は分かっていないのだと思う。ずるいなぁ、とこぼしたぼやきに捺が首を傾げて、それになんでもないよと笑う僕が、今どれほど幸せなのか、やっぱり君は気付いていないようだ。
 
 左手でぎゅ、とテーブルの上に置かれた小さな手を握る。昔なら随分驚いたであろう行為だけれども、捺は僕の体温を感じてすぐ、同じように握り返した。心なしか自身の左手の薬指が、いつもよりずっとキラキラと輝いて見えた気がして、小さく笑みが落ちる。……やっぱりいいものだ。誕生日が、じゃない。人生を捧げてもいいと思える人間と過ごすのが、いま一番の幸福である。そう思える自分になったのが、やっぱり良いものだ、なんて。


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