※モブトリッパーがいたらif
好きなものを先に食べるか、後に食べるか。この議論は昔から人々の間で頻繁に交わされるものだと思う。では、それがもし嫌いなもの≠ネらどうだろう。
僕の目は恐らく、僅かな違和感を見逃さない。獄門疆の封印が解かれた後紹介された見知らぬ女。渋谷での一件以来均衡が完全に崩れたこの世界に態々乗り込んでくるなんて殊勝な人間が居たものだ、なんて考えていたが、六眼を通して見た女の持つ呪力が明らかに他≠ニは違うことにすぐに気が付いた。そのくせして僕を見るなり明らかに好意の目を向けてくるものだから、そのチグハグさに鳥肌が立ちそうだ。いや、実際は少しも立っていないのだが。
「フリーの術師をしていた」なんて嬉々として話す女の姓は耳馴染みのない音をしている。そもそも、こんな状況で態々フリーという安全圏に居た術師が高専に力を貸す、そんな状況も理解し難い。夜蛾先生なら間違いなく疑う案件だろ、と思ったが既に彼は居ないし、この猫の手でも借りたい現状ならば深く追求せずに通してしまった……という所だろうか。女の斜め後ろに控える捺は困ったような笑顔で僕たちのやりとりを見つめていた。
「わたし、五条さんに会いたかったんです!力になれるなんて嬉しい……」
「へぇ、僕って随分有名人なんだ」
「そりゃあもう……!」
グッと掌を握り込んで僕を見上げるその目と口が一瞬何かを言おうとして踏み留まる。そこに何かしら少なくとも僕に言えない隠し事があるのは分かった。やはりこの女は信用からは遠い人間らしい。簡単な挨拶が終わった後、捺に声を掛けてあの女について尋ねると、彼女は普段に増して言葉を選びながら話し始める。その時点で自身の機嫌が徐々に降下している自覚があった。
「術式の強さとか運動能力は申し分ない人だよ。私も何度か任務に出たけど……」
「いいよ取り繕わなくて。アイツ何かある≠セろ」
僕の指摘に捺は小さく息を吐いてから「悟くんにはお見通し?」と白状し始める。どうやらあの女は本当に突然高専に現れたらしい。ここに辿り着けるのだから術師であることは間違いないのだが、なんでも自ら高専に来ておいて、何から何まで新鮮そうに辺りを見渡したり「本物だ」なんて口走っていたらしい。観光客かよ、と思わず突っ込んだ僕に捺も同意して頷いていた。僕の冗談染みた発言とは違い、彼女は随分神妙な顔付きで話し始める。……なんと、あの先ほど自己紹介していたのに名前すら記憶に残らない女には戸籍≠ェないのだ。それどころか今日までの所在やどんな人生を送ってきたのか、そういった記録が何もなかったらしい。
何処から湧いて出たのやら。そう思いつつ窓の外に視線を向ける。女は高専の門の前を妙に楽しげに闊歩していた。捺の目にもその姿は止まったらしい。少し驚いたように瞼を見開いてから「自信、あるんだなぁ」とある意味感心している彼女にそれか危機管理が出来ないバカだな≠ニ鼻で笑ってやった。僕の口振りを諌めるように捺が悟くん、と名前を呼ぶ。秋の日暮れに歌う鈴虫のような心地良い声色に一度目を閉じてから降参だとでも言うように軽く腕をあげた。
「……あんまり威圧しちゃダメだよ?」
「……僕の奥様がそう言うなら」
心配そうな彼女の瞳を見つめ返し、そっと左手に嵌められたリングを撫でた。……捺は聡い女性だ。あの女の素性が怪しいことなんて分かりきった上で現状波風を立てるのは得策ではないと考えているらしい。補助監督としての人生が長かった彼女にとって、現場の運営を気にするのは理解出来る。だから今≠ヘ何もしない事にした。別にこれは僕の優しさってわけじゃない。寧ろその方が都合がいいと考えた。……今も尚窓の外から突き刺さる視線を感じながら捺の薄い体をそっと抱き寄せると、途端に視線から感じる情報は負のエネルギーへと変化していく。あの女が何をしたいのか、何をする気なのか、手に取るように分かった。あとはきっと、釣り針を垂らして待つだけだ。
「五条さんと任務に出られるなんて嬉しいです!」
「あ、そう?」
まあ任務ってほど形式的なものじゃないけど。そう付け加えつつ俺は釣れた魚≠ニ表参道を歩いていた。渋谷から近いこの場所には未だに呪霊が溢れているらしい。寧ろ渋谷で壊滅的な被害があったことは呪霊達も分かっているらしい。渋谷に自身よりも高位な存在が居たことを理解していた。だからこそ、その付近には近付かないのだ。
僕が獄門彊に居る間、この一帯に放たれた呪霊を祓っていたのは捺だった。今回も彼女が自ら現場に向かうつもりだったようだが……それを僕が引き受けた。この女の目の前で。見事網にかかった女は半ば強引に捺を押し除け「閑夜さんの代わりに私が行きます!」と声高らかに宣言した。……捺は心配そうに僕たちを見上げていたが大丈夫、大丈夫と返しておいた。
『わたし、閑夜さんより呪術の扱いには慣れてると思うんです』
『閑夜さん、任務の伝え方は丁寧ですよね。無理して現場に行かなくていいのに』
『というか、あの人元々は呪術師だったんですよね?それが補助監督に転向して、また術師になって……どっちつかずって言うか、』
道中の会話は殆ど憶えていない。ただ、彼女の名前が出た言葉やセリフだけは全て脳裏に刻まれていく。こういう時だけは腐ったみかん達に感謝したくなった。アイツらで耐性がなかったら直ぐにでも手≠ェ出ていたかもしれない。かといって笑顔でそれに同意する人間にもなれず、ただ義務的に頷くだけだった。
徐々に辺りの瘴気が強まるのを感じる。一応雑魚ではないらしいが、隣を歩く女は変わらず大して面白味のない話を続けていた。ふ、と足を止めた僕を見上げる女が首を傾ける。随分滑稽な仕草に笑みすら溢れない。ゆっくり腕を上げて女の後ろを指差した。
「で、キミが祓うの?」
「……え?」
女は振り返った。ボタ、と女の目の前に誰かの手首から先が転がり落ちる。え?ともう一度女は間抜けな声を呟いていたが、数秒後状況を理解したらしい。ガクン、とその場に崩れ落ちた。ガクガクと震える膝。恐怖に染まった瞳。揺らいで安定しない呪力。今度は僕が蹲み込み、首を傾げていた。
「あれ、何してんの?」
「っ、は」
「キミ、ここに何しに来たんだっけ?ほらさっき言ってたよね?……確か、捺の代わりに来たんだよね?」
「助け、助けて……助けてよォ!」
「助ける?僕が?キミはウチの生徒でもないし……ていうか大人だよね。術師やってんでしょ?高専の助けになりに来たんだよね?」
「アンタ、五条悟でしょ……!?何で、そんなこと、なんで、なんで」
「お前は誰だよ。何処で生まれて、誰に呪術を習った?あんなにイキッてたのに何ソレ?」
女の髪は呪霊の口元から滴る血液で赤く染まっていた。俺に救いを求めるように地面を這いながら腕を伸ばす姿があまりに馬鹿馬鹿しい。素性はしれないが、やはり大した人間ではないようだ。あと少しで女の手が自身の裾に触れる、といったところで無下限に弾かれるのが見えた。途端に興味を失いゆっくりと立ち上がる。女はキンキンと耳に響くような金切り声で俺を罵倒し始める。そんな奴だと思わなかった、だとか。人間じゃないだとか。あぁ、耳が痛いね全く。
「……あ、そういえば」
「目の前で見捨てるっていうの!?人殺し!お前は、人殺……ッ」
「捺の苗字は五条≠セからね」
「……は、あ?」
もう間違えないでよ。にっこりと今日一番の笑顔で僕は数歩後ろに下がった。自分の妻に散々な事を言われるとこんなにも気分が悪いのだと知れたのは良い経験になったかも知れない。これからはそうなる前に手を打たないとなぁ、なんて考えていると女の足が呪霊の口に覆われていく。迫り来る鋭い牙に涙を流して暴れる姿をただ見つめていると、ビュン、と俺の真横を黒い矢が突っ切っていったのが分かった。迫り来るその気配の主をよく知っている。まぁ、無下限に引っ掛からない時点で明白だ。
「影響=I」
「っ、ぁ、あぁ……!」
凛とした信念の籠った声が空間を切り裂いた。美しいまでに呪霊の目玉を貫いた矢に身悶えする隙を突き、影の中から飛び出してきた捺は女を俺の方へと押し出して「五条くん!」と叫んだ。仕方なくその体を受け止めてからすぐに地面に転がして、俺も捺の隣へとゆっくり歩いていく。こうやって彼女と並んでの任務なんて随分久しい。話には聞いていたがやはり捺の戦闘力や術式の扱いは随分と上達している。沖縄以来かな、と口角を上げた俺に彼女は一瞬だけ此方を見て「そんなに前だった?」と不思議そうだった。そうだよ、と返すついでに捺の頬に飛んだ呪霊の血液を拭い、怒りに身を任せて飛び込んできた呪霊が俺たちの間にある無限に阻まれる。そして、思い切り弾かれて困惑する頭部をただ、捻り潰した。
「……で、どうなったの?」
「それが……彼女居なくなっちゃって」
カラン、とグラスの中の葡萄ジュースが氷と混ざり合う音がした。任務の後すっかりあの場に女を放置したが、捺曰くどうやら行方不明になったらしい。元々所在が分からなかったのでこれ以上の捜査は難しく、何よりもあの実力では後を追うことにリソースを割くのも勿体無いと判断されたようだ。そこで、ふ、と捺が思い出したように顔を上げて僕を見つめる。
「悟くん、あの時……私が来てたの知ってたんだよね?」
「そりゃあ勿論。捺の気配を間違える訳ないでしょ?」
「……そうだよね」
ほっ、と何処か安心したように息を吐き出した彼女の仕草を見届けて、もう一度ジュースを喉奥へと押し込んだ。今捺に伝えたコトは嘘ではない。実際彼女が着いてきていることは分かっていたし、何より僕と縛りを結び呪力が溶け合っているのだ。感知できない筈がない。……だが、今捺が僕に尋ねた意図と僕の回答はきっと、異なっている。
俺は、誰彼構わず全員助けるヒーローみたいに、絵に描いたような良い人ではない。無害な奴等ならまだしも、あの女はそう≠ナはなかった。チラリと捺の左手に輝く指輪に視線を向ける。さとるくん?と俺を呼んだ柔らかな声に瞼を閉じて「なんでもないよ、」と小さな掌を包み込むように握った。……捺は、善人だ。彼女の善性に僕が充てられた事にあの女はもっと感謝しなければいけない。そんな事を考えながら目の前に届いたまだ′けていないショートケーキのイチゴにフォークを突き刺した。