街に降りて任務をこなした後、高専まで戻る道のりは決して簡単なものではない。その性質上ひっそりと森の中にその姿を隠した東京都立呪術高等専門学校は、静かに鎮座している。夏と呼ぶにはまだ早い、それでも湿気の多い空気にシャツが張り付いて仕方ない。無事に終わったし、早く帰ってしまおうと足を動かす中、ふと見上げた空の奥にはぼんやりと暗雲が立ち込めている。少しだけ、嫌な予感がした。
 
 
 
 
 ───屋根が抜けたような、土砂降りだった。大粒の水滴がもの凄い勢いで地面を叩き、激しく飛沫を上げる。目の前が霧のように霞んで、あっという間に何も見えなくなる。溜息すらも掻き消される大雨にこういう時の直感は当たるものだとしみじみ実感した。必死に走り、どうにか逃げ込んだ古びたバスの停留所。錆の目立つトタン屋根の下でぐっしょりと濡れ鼠になった私は最早この現状に薄く笑うことしかできなかった。高専の黒い制服を脱ぎ、ゆっくりと息を吐き出す。……この様子だときっと、暫く止みそうにない。
 
 
 
 
「凄え雨だな」
「……えっ、」
 
 
 
 
 ビクッと無意識に肩が揺れる。突如鼓膜に届いた響くような低い声色に私はやっと、口元に傷を携え、黒い髪から雫を垂らす体格の良い男の人が寂れた青いベンチに座っていたことに気付いた。……全然、気配が無かった。あまりこんな経験は無くて少し戸惑ったけれど声を掛けてくれたのに無視をするのも忍びなくて「そうですね」と慌てて返事をした。
 
 
 
 
「悪いな、そんなに驚くとは思ってなかった」
「い、いえ!そんな……私こそ失礼な反応しちゃってすみません」
 
 
 
 
 クツクツと喉の奥を鳴らした男の人は、トン、と背もたれを叩いて「座れよ」と私に促す。まだ当分立ち往生だぞ、という彼の言葉は尤もで、少し迷いながらも椅子の端にそっと腰掛ける。……不思議な雰囲気の人だ。筋肉質な体とは裏腹に気取られない空気を持っていて、何か格闘技やスポーツでも嗜んでいるのだろうか。私たちに流れた沈黙を雨音が埋める。気になることでも?と問いかけてきた彼に戸惑いつつも口を開いた。
 
 
 
 
「その筋肉……どうやって鍛えてるんですか?」
「なんだ、お嬢ちゃんもこういうのに興味あるのか?」
「そう、ですね。一応筋トレはしてるんですけど中々そこまでは……」
 
 
 
 
 うーん、と顎に手を当てて考えるように首を持ち上げた彼は、そうだなぁ、と静かに目を閉じる。初めは気づかなかったけれど……こう見ると、綺麗に整った顔立ちの男の人だ。五条くんとはタイプが違うけれど女の人が放っておかないであろう人なのはなんとなく想像が付く。数秒首を傾けていた彼は何か思い当たったように瞼を押し開いた。
 
 
 
 
「一番は体質≠セな」
「……やっぱり生まれ持ったモノなんですかね?」
「そこは変えられない根幹だろうよ。どんな人間でも生を受けたその瞬間からある程度のことは決まってるもんだ」
 
 
 
 
 私が考えていた答えより、数倍現実的な言葉に少しだけ驚いた。お嬢ちゃんなんて呼び方をする人だからもう少しぼんやりと、漠然とした答えが返されるものだと思っていたけれど、彼は輪郭の整った解を口にする。それは一つの考え方として納得できるもので……やっぱり、不思議な人だ。と小さく頷いた。私をただの女として扱わず、人として捉える。この人の感性は何となく信用出来る気がした。
 
 
 
 
「アンタは元々筋肉量が多くない。ならどれだけやっても俺みたいにはならないだろうよ」
「……そう、ですか」
「えらく残念そうだな。そんなに筋肉が欲しかったのか?」
 
 
 
 
 楽しそうに口角を持ち上げた彼に、数秒の逡巡の後、今後のために必要なんですと嘘を吐かずに言えるだけの情報を提示すると、そうかい。と興味があるのかないのかいまいち読み取れない口振りで男性は笑う。……何者、なのだろう。少なくとも私の勘が普通ではないことを告げている。でも、それ以上踏み込むのも得策ではない気がしてやまないのだ。
 
 
 
「にしても、何だってこんな雨の日にお出かけを?」
「……朝早くて、天気予報見れなかったんです」
「そうかい、そりゃあ大変だ」
 
 
 
 学生か?部活動か何か?鋭く鈍い光を持つ切れ目がちな瞳が探るように私に問いかける。そんなところです、と返しながらお兄さんこそ何の用事ですか?興味も兼ねて尋ねれば、彼は一瞬キョトンと面食らったような表情をしてからお腹の辺りを押さえてケラケラと笑い始める。思わず、といった様子の笑みに戸惑う私に対して、ごめんごめん、と男性は適当に謝罪を重ねた。
 
 
 
 
「お兄さんなんて呼ばれ慣れてなくてな……つい可笑しくなっちまったよ」
「でも……まだ若いです、よね?」
「ガキにとっちゃおじさんかもな」
 
 
 
 
 あー、と残った笑みを逃すように息と共に声を発した彼のことがやっぱりよく、わからない。いい人、悪い人、そんな言葉で割り切るのが難しい……謂わばグレーゾーンに立ち竦む人のように思えた。何処までが彼のスペースなのか読みきれないのだ。そもそもこんな山の麓の停留所。なぜ彼はこんなところに居たのだろうか?何が目的で?ここに来る人間なんて、とそこまで考えた時に「散歩だよ」と混じり気のない声が落ちる。
 
 
 
「散歩、ですか?」
「あァ……ここから見える夕日が絶景なんだよ」
「……夕日が、」
 
 
 
 キュ、と細められた黒い瞳に少しだけ微かな光が灯る。今までの彼とは違う表情に思わず息を飲み込んだ。掴みどころが無い蜃気楼のような男性に初めて意思≠ェ見えたような気がしたのだ。……高専から見る夕日の美しさを、私もよく知っている。幾度となく背中を押されたその光景を思い返して「……わかります」と気付けばそう呟いていた。
 
 
 

「……へぇ?」
「……私も、よくこの山から夕日を見るんです」
「何のために?」

 
 
 
 彼がどんな答えを求めているのかは分からない。ただ、素直に私は思うままに声を紡いだ。私があそこで空を見る理由を。私が何を考えているのか、少しだけ名前も知らないこの人に伝えたいと思ったのだ。
 
 


 
「……燃えるみたいな赤い夕日を見てると、」
「……」
「全部、忘れられそうで」
「……奇遇だな」
 

 

 
 俺もそうなんだ。色の消えたぼやきに、感情は乗っていない。虚しくて、苦しくて、そんな吐露を声にした、悲しい呟きだった。私は何を言っていいのか、どうすればいいのか、もう分からなくなっていた。何を言っても陳腐で、お節介に思える。言い淀み、見つめることしかできない私に対して彼は、ふ、と鼻を鳴らす。
 
 


 
 
「……止んだぞ」
「……あ、」
「次降り出す前に帰りな、閑夜捺」
 
 
 


 
 ……どうして。そんな声は静寂に飲み込まれる。彼の顔が、深く聞くなと告げていた。後ろ髪を引かれながらも私はその場から立ち去る。雲間に太陽が浮かび、すっかり雨は上がっている。少し進んだ先で振り返ると、もう彼はそこには居なかった。
 
 
 


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