今日は、任務に行く前に履いた靴の紐が劣化して今にも擦り切れそうだった。たまたま見たテレビの占いで私の星座は最下位だった。履こうとしていたタイツに穴が開いていた。何かとついてないなぁ、なんて感じつつ、五条くんと夏油くん、そして私の3人で任務へと向かった。表現しづらい焦燥感や、なんだかいつもと違う気がする、という漠然な意識を抱きつつも、私の少し前を歩く2人の背中に、正直、なんとかなるだろう、と思っていた。そう、油断していたんだ。
それはスローモーションみたいだった。体の大きな呪霊だと思っていたが、地下に根を張るようにたくさんの触手を張り巡らせていたらしい。突然噴き上がったみたいに真上に伸びた無数の触手は木々を抉りながら天へと向かう力を持っている。厄介だな、と思った瞬間に少し前の地面が盛り上がったのが分かった。それは夏油くんの足元で、同じように気付いた五条くんが驚異的な反射神経で彼へと腕を伸ばしたのが分かる。でも、彼よりも近い位置に立っていた私はそれよりも早く、目の前の夏油くんを"突き飛ばして"彼はバランスを崩したことで呪霊のターゲットから逃れた。だって、代わりにその場所に次に立っていたのは皮肉にも私だったのだ。
捺!と私を呼ぶ声が聞こえる。返事をする前に浮き上がっていく体はどんどんと地面から遠くなっていき、目を丸くした夏油くんたちからも離れていってしまう。どうにか逃げようとしたけれど、呪霊はここぞとばかりに触手を締め上げ、きりきりと胃と胸骨が縮こまり、痛みと吐き気でその様子を見ていた2人はすぐにまた呪霊本体へと攻撃を激しくしていき、彼らの連携が決まるごとに巨体は鈍い叫び声を上げた。一本、二本、と触手は切り落とされ、同時 にのたうち回る呪霊は息をする間も無く小さくなり、そして、仕上げだと言わんばかりに夏油くんが使役するいくつかの呪霊が重なり合うと未だ大きな体を包み込み、次の瞬間、抹消から中枢へと次々に爆破が始まった。私を捕らえていた触手も流石に耐えきれなかったらしい。投げ捨てるようにして解放された私は摂理に従うように真っ逆さまにに地面へと吸い寄せられていく。数秒後襲われるであろう今を想像して歯を噛み締め、強く目蓋を閉じた。
「ッは、ぁ……っ、」
「ん、っう……!」
鈍い衝撃がじっとりと骨と筋肉に伝わった。……でも、それだけだった。肉が切れるような感覚も、どくどくと血が溢れるような感覚もない。恐る恐る目を開ければ、視界いっぱいに広がったのは五条くんの顔だった。彼は洗い呼吸を吐き出しながらも、私と目が合うと、ふ、と少しだけ厳しい表情を柔らかくして、捺、と名前を呼んだ。何が起こったのだろう、とぽかんとしている私に駆け寄ってきた夏油くんは「……良かった」と深々と息を吐き出す。どうやら私は何故か助かった、らしい。
私をガッチリと掴んだ手は頭全体と肩まわり、もう片方は膝裏への回されており、しっかりと横抱きするような形で五条くんは私を受け止めたようだ。いくら彼であっても落ちてくる人間を抱き留めるのは容易では無かったはずだ。ごじょう、くん、と少し震えた声に少し夏油くんと会話していた彼は私へと目を向けた。が、すぐにその目は吊り上がり、大きな瞳がじわじわと怒りに染められていく。あ、まずい、と思った時にはもう遅かった。
「〜っんの、馬鹿!!何さらっと死にかけてんだよ!!!!」
「ご、めんなさい……!」
「今の高さだとお前良くて骨折、悪くて脊髄損傷だぞ分かってんのか!?」
「わ、わかってる、わかってます…………」
物凄い剣幕で私を怒鳴りつける彼の言葉はもう仰る通りなので何の反論も出来なかった。小さくなりながらもお叱りを受けて頷く私を見ていた夏油くんは苦笑いしていたけれど、今日ばかりは止めるつもりはないらしい。助けを求めた視線はすぐに彼の笑顔で弾かれた。五条くんはツラツラと私の行動を批判したが、ふ、と一度言葉を止めると私の顔を覗き込むようにじっと見つめた。どうしたんだろうか、と私も恐る恐る彼を見つめ返すと、ぽつり、と小さな声で呟いた。
「……怪我は」
「え、」
「怪我、ないのかって聞いてんだけど」
「え、ええと……ちょっと締め付けられてたとこが痛いくらい、で、」
そう言うと容赦無く私の服をめくり上げた彼は、腹部に巻き付くように残された鬱血の後にギュッと眉間にシワを寄せる。私も想像以上に痛々しかった跡にうわ、と声を漏らした。これはしばらく残りそうだなぁ、なんてぼんやり考えているとぐらり、と体が揺れて視界が急に高くなった。慌てて首元に捕まったけれど、ぐら、ぐら、と揺れる感覚は非常に落ち着かない。彼は私を抱いたまま立ち上がるとそのままスタスタと歩き始める。歩けるよ、と慌てて声を掛けたけれど聞くつもりはないらしい。隣を歩く夏油くんが「念のために硝子に診てもらおうか」と言ったのに一度頷いた五条くんはそれ以上何も言わなかった。こんな風に抱き上げられることなんて初めてで緊張とじんわりとした恐怖の中、そっと彼の服を掴んだ。それを一瞬見下げた五条くんは「落とさねぇよ」と一言、少しぶっきらぼうに告げる。思わず瞬きした私は彼の顔をじっと見つめてから「……うん、」と返事をした。もう一度彼の服を握り、そのままゆっくりと体の力を抜いて彼の胸元にもたれかかる。じんわりと伝わる熱と拍動が心地いい。あぁ、生きてるんだなぁ、なんて、馬鹿みたいな考えを浮かばせつつもそっと目を閉じた。五条くんの腕の中は、なんだか、安心する香りがした。
「……寝たな」
傑の声に頷いて、目を閉じている捺に視線を向ける。胸郭はしっかりと上下していて、彼女がきちんと生きていることが確認できた。……空中から落下する彼女を見た時、本当に肝が冷えた。無茶する奴だと分かってはいたけれど、あんなにも呆気なく、何の抵抗もなく落ちていくものなのか。まるで生きるのを諦めたみたいに瞼を閉じたのは何故なのか。でも、確かに彼女は今俺の腕の中で穏やかに眠っている。まるでさっきのことが何も無かったかのように。呆れた根性だな、と思いながらも緩やかにカーブする睫毛と小さな唇の可愛らしさにあまりこれ以上何か言う気持ちにもなれなかった。
「咄嗟に"お姫様抱っこ"ね」
「……茶化すなよ」
「そのまま帰ったら硝子にも言われるよ」
傑の言葉にその光景がありありと浮かんで息を吐き出す。そして、それから改めて彼女をしっかりと抱き直した。意外そうに瞬きした傑は妙に楽しそうに口角を持ち上げたけど、もう知らねぇ。俺の胸の中に収まる彼女の小ささや、子供みたいに縋り付いてくる手になんとも言えない思いを抱えつつも、俺たちは高専へと足を進めた。無論、帰ってすぐに硝子からめちゃくちゃに揶揄われたのは言うまでもない。