「冬の沖縄って、飛行機安いんだね」
 

 
 
 
 知らなかったよ。そう言いながら何者にも囚われず悠々と水中を揺蕩う大きなジンベイザメを悟くんは見つめていた。天井から差し込む微かな光に鱗を煌めかせる、海の中の宝石みたいに輝く小魚達に少し目を細める彼はただ、静かにそれらの事象を受け入れる。
 
 
 悟くんと沖縄に行くのは二度目だ。しかも、今年中に。一度は任務のためだったが、今回は完全に彼の思い付きのようなものだった。私も冬に沖縄に来るのは初めてだったが、十二月の肌寒さを少しだけ緩和してくれる気候には驚かされる。向こうでは防寒着を完全装備しないとやっていけない寒さだが、此方ではまだまだ秋の香りが色濃く残っている気がした。
 
 
 日本がもうすぐ終わるかもしれない、そんな危機感に術師たちが憔悴している中、一歩都会から外に出れば何も知らない人たちがいる。昔から変わらない当たり前の光景だけれども、こんなに大規模な呪霊災害で都心が崩壊しても尚、沖縄は以前と殆ど変わらない朗らかな空気に満ちている。
 


 
 
「うん。……やっぱり夏はマリンスポーツが人気だから高いみたい」
「あんまり相場とか考えたことなかったけど、それでも前より安いのは分かるよ」
「……これから、一緒に覚えようね」
 
 

 
 
 悟くんとは付き合いが長い。彼は五条家で生まれ、それから最強の術師として生きてきた。今までも時折見え隠れする金銭感覚のズレには私が合わせていたけれど、これからはもう少し悟くんにも覚えてもらう方がいいかもしれない。一般的なスーパーでの値段とか、そういうものは特に。そんなことを考えていると、彼の瞳がゆっくりと私に向けられる。水槽の青と調和しながらも、確かな光を携えた何処までも澄み切った深く、美しい瞳。六眼という特別な力を有しているからこそ、人々に羨望されるその目≠ヘ、いつまでも、私に色濃く刻まれている。様々な事情は抜きにしても、ただ純粋に、綺麗だと思った。
 
 
 


 
「そうだね。これから一緒に……捺直々に教えてくれるならちゃんと覚えるよ」
「私以外でも少しは覚えて欲しいけど……」
「いーや、もう捺の言うことしか聞きません僕」
 
 
 


 
 ケラリ。冗談なのか冗談じゃないのかイマイチ図りかねる彼の言葉に、もう、と苦笑しながら私も彼の隣を歩いた。人の形をしたシルエットだけが浮かび上がる不思議な空間で、私たちはただ二人の時間を過ごした。止まっていた日々の全てを取り返すような、贅沢で子供みたいな余暇の使い方。それでもやっぱり術師として半分近くの人生を生きた私たちは完全に呪力と、呪霊と脱却することはできない。この有名な水族館にだって入る前には微かに呪霊の気配がしていたものだ。結局は力を増している彼の呪力に尻尾を巻いて逃げていったので「雑魚だな」と悟くんは笑っていたけれど。
 

 
 
 
「ここに来るとさぁ、思い出すんだよね」
「どんなことを?」
「……うーん。いろいろ?」
 
 

 
 
 数秒の逡巡の後、いろいろ≠ニいう言葉で濁された彼の記憶。それを探ろうにも、悟くんはきっと私には悟らせないだろう。そんな確信があった。見上げる顔にそれが滲み出ていたのか、彼は私と視線を合わせると「そんな顔しないでよ」と少しだけ困ったように眉を下げた。あやすみたいに悟くんの指先が私の手の甲に触れ、そっと這わせるように私の指と絡まり合う。彼の手は、冷たい。
 
 
 大きな掌に包まれながら、大水槽の前を私たちは二人で横切る。時折悟くんが魚の顔を馬鹿にしたり、笑ったり、褒めたりしながら時間は流れていく。こんな風に沖縄までの旅行を前日に決め、日帰りで東京まで戻るなんて、以前の私なら卒倒しそうなプランだが、今はあまり疑問を感じない。彼との付き合いでこういった¥o来事によくあるという前提が付属したせいなのか、単なる慣れなのか、答えは二つに一つだろう。
 
 
 

 
「沖縄ってさ、」
「うん?」
「俺にとっちゃ結構……疲れるイメージがあったんだけど、やっぱ悪くないよね」
「普段東京に居ると……こう、新鮮だよね」
 


 
 
 
 居着く人も、環境も。そう続けた私の言葉に彼は首を縦に振る。人が集まる場所にこそ呪いは溜まりやすいというけれど、沖縄は圧倒的に呪霊の数自体が少ない。同じく旅行地でも北海道は寧ろ多いくらいなのに分母にかなりの違いがある。
 悟くんはぎゅ、と少しだけ握る手の力を強くした。私もそれに倣うように力を込めた結果、咄嗟のことでも中々離れるのが難しいくらいに私たちは繋がっている。なんだかそれが可笑しく思えて「これじゃ離れられないね」と呟いた。
 
 

 
 
「違う違う、離さないようにしてんの」
「わざと?」
「そう、わざと」
 
 

 
 
 捺のこと離す気ないから俺。堂々と大真面目な顔をしてそんなことを宣言する彼に少しだけ恥ずかしくなる。でも、それが冗談でも強がりでも無いとよくよく知っている私は、それに頷くことしかできない。……いや、寧ろそうするのが当たり前だというように首を振る。悟くんは優しい人だ、わたしはそう思っている。優しいからこそ、不安だった。彼はもしかしたら最後の最後で繋がった手を切り離してでも……わたしを、この世界に残していくのではないか。そんな答えのない不安が拭い切れない。それはきっといつまでも、その時が来るまでずっと続くのだろう。悟くんを信じているからこそ、そう思っていた。

 
 

 
「悟くんこそ、」 
「ん?」
「……わたしのこと、置いていかないでね」
 
 

 
 
 厚いガラス越しに泡が聞こえるかのような、静寂。悟くんは整った顔に驚きを乗せてから、キュ、と眩しいものを見つめるかのように瞼を細める。やっぱり信用ないなぁと自虐も込めてぼやく彼に「信用しているからこそ不安になる」と素直に告げれば、尚更悟くんは小さく笑っていた。
 
 


 

「もし俺が、万が一のために縛りを解く方法を探してたらどうする?」
「……私は、それを弾き返す呪術を探すよ」
「そりゃ怖いね」
 

 
 

 
 なら、おちおち解けないや。そう言う彼の言葉が何処まで本気なのかは私には相変わらず、分からない。でも、悟くんの持つ呪力の乱れはたとえほんの少しでも感知することが出来た。それを彼も自覚しているのか「探したことがないと言えば嘘になるかな」ともう一度ジンベイザメに目を向ける。……興味半分、本気半分で。付け加えられたそれにどう反応していいのか、分からない。
 
 


 
「……でも、無かった。結構遡ってみたけどやっぱり難しいみたいだね」
「……ほんと、なんだね」
「わかる?」
「うん。……伝わってきたから」
 


 
 
 
 そっか。とそれだけ呟いた彼は大水槽から離れるように、深海魚のコーナーへと進んでいく。広大な海から光の届かない場所へ。まるでそれは、何かを暗示しているようでもあった。比例するように人の気配も少なくなり、展示スペースの一角はもはや私たちの貸切のようにすら見える。悟くんは口を開いた。
 
 


 
 
「こんなにも、色々決心が揺らぐのは初めてなんだよ」
「……うん」
「……後悔はしてない。でも、お前を巻き込むのには、慣れてない」
 


 
 
 
 ここに来ると余計にそう思う。独り言みたいな彼の呟きを拾い上げる。これがきっと今の彼の本心だ。五条くんは、すぐに無茶をする。無茶をしても、それを通し切れてしまう強さがある。それを無茶だと悟らせない人だ。でも、摩耗しないわけじゃない。だって、彼は人間なのだから。
 硝子に言わせればこういうところがカッコつけ≠ネのかもしれない。……確かに否定は出来ない。でも、前とは少し違うのは、彼は今その気持ちを私に打ち明けてくれた。一人で、抱え込まなかった。それが何より嬉しかった。
 


 
 
「……ありがとう五条くん」
「……何が?」
「私に、ちゃんと教えてくれて」
「…………捺」
 
 


 
 
 少しだけ弱々しい呼名に小さく笑った。二人だけの暗くて深い光の届かない海で、私はそっと彼を抱きしめる。初めこそ体を固めていた彼は、ゆっくりと額を私の肩口に押し当てて深い溜息を吐き出した。……ずるい。そんないじらしいぼやきを聞きながらそっと背中を撫でる。彼が私に開示してくれたのは、彼なりの甘えなのだろう。
 
 


 
「私も沢山悩むことあるよ、迷ったこともたくさん」
「……」
「それを聞いてくれたのはいつも五条くんだった。……だから今は、私が聞く番」
「…………敵わないな」
 


 
 
 
 ……あと、また五条になってる。こんな時ですら指摘された彼の呼び方に、あっ、と思わず声が出た。気づいてなかったのかよ、と呆れ混じりに、それでも彼は私を離さなかった。それが、彼の答えなのだろう。人なんだから悩んでも、迷ってもいい。でもそれを抱え込まずに話してほしい。一緒にリハビリしていこうよ、と伝えた私に「……ジジイ扱いか」と吐き出されたツッコミは、水槽の中に消えていった。
 
 
 
 
 
 
 
 


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