決して静かだとは言えない狭苦しい空間。もうどのくらいの時間が経ったのか、自身の体内時計が狂っていなければとっくに一週間程度は過ぎている気がする。とは言え物理的な時間という概念すらこの中には存在しないらしい。普通の人間なら可笑しくなっても仕方ないだろうな。……と空想出来るくらいには、僕自身余裕はあった。
特級呪物に納められるなんて体験簡単に出来ることじゃあないし、と適当に天井を眺め、浮かんでくるのは外に置いてきたヒトの顔。可愛い生徒たちと、同僚と、そして、彼女の顔。
一瞬喉を震わせようとして、直ぐに名前を飲み込んだ。生者の生き血を啜ろうと手を伸ばす骸たちに美しい響きに満ちたアイツの名前を教えてやるのが癪だと思った。……捺は今、何をしているのだろう?まるで遠距離恋愛みたいなことを考えて、ふ、と口角に笑みを浮かべる。これは自嘲なのか、それとも。
……心配がない、といえばそれは嘘になる。自分のしくじりが笑い飛ばせるようなものでないことも理解していた。それでも今はどうにもならない、これが現実だ。ならば悪あがきするよりはここでじっと、来るべき時を待つしかないと思っている。信じているという言葉で形容するには酷い状況かもしれないが、それ以外に他無い。外がどうなっているのか考えるのはもう数日前にやめた。あれこれ想定してもどうせそれを超えた結果に直面するんだ。そのギャップに動揺するよりは出た時に全て考えればいい、そういう結論に"した"。
「やくそく、して欲しいなって思って……」
「約束?」
「キスはその……い、嫌じゃないけど!」
「……うん」
「……生きて、帰ってきてからね、って……」
細くて折れそうな小指を差し出して、何度も目を逸らしながら向けられた言葉とその感情。思い出すだけで心臓の奥の方に熱が灯る感覚。彼女が僕を繋ぎ止めるためにしてくれた、やくそく。これを愛おしいと思わずして、何を思えばいいのだろうか。自然と自分の右手を持ち上げて伸びた小指をじっと見つめた。赤い糸が繋がっているなんて表現があるけれど、僕と君の間に糸が張ったのはあの瞬間かもしれない。
宝石が散りばめられた東京の夜を見下ろして、赤く紅葉に染まった高専を歩いて、狭い車内で通じ合った。色気があるんだか無いんだか分かりゃしない。……君と僕は、運命なんて言葉が似合う関係ではなかった。運命が組み上がるより先に彼女を遠ざけていたのは紛れもない自分だ。だからこそこの半年は君との繋がりを持とうと必死だった。形振りなんて構っていられない。そんな暇があるのなら捺と話していたかったくらいだ。
学生だった当時と比べて彼女に会える時間は少なかった。知らぬ間に上り詰めていた特級という地位のせいで上は散々僕をこき使う。実際どうしょうもない強さの呪霊がいることは稀で、かもしれないという可能性に駆り出されていたのが現実だ。心の底からの感謝なんて言葉から程遠いジジイ達の空虚な「よくやった」という形だけのソレにまともな返事なんてした試しがない。
だからこそ、後進育成には力を注いできた。僕の周りには硝子や捺を含め女性術師も多かったし、こんな腐り切った呪術界を目の当たりにするたびに根本から変えてやろうと決心できた。僕の生徒を含めた若き世代が台頭できるよう、その土壌を作ることには惜しまない。ある意味そうして僕に薪をくべ続けてくれた肥溜めには感謝している。あくまで、ある意味だが。
……この短い期間で捺との関係は確かに変わった。君の想いの一端を知り、僕は感情を曝け出し、受容された。お互いにお互いと向き合い、話し合い、認め合った。思い出したことも多かったし、君の強さにも、弱さにも触れた。僕だって格好悪いところなんて見せるつもりはなかったのに、いつの間にか全部を暴かれてしまった。少し恥ずかしくもあったけれど、同時に何処かスッキリした気分にもなれたのは、君の柔らかさの賜物だと思う。君が居るから強くなれるなんて恋愛映画の主題歌みたいな言葉だけど、概ね間違っていない。僕は捺が居たからこそ、ここに居る。……本当に今居る場所を指しているわけじゃないけどさ。
ふ、と一つ息が零れた。自分の境遇は正直現状どうでもいい。どうでもいいというのは実際語弊があるけれど、それ以上に僕は彼女のことが心配だった。今世界がどうなっているのか検討が付かないけれど、どうなっていたにせよ、きっと彼女は……捺は、苦しんでいる。責任感の強い彼女だ。自分が出来ることを探して無理をしてでもきっと、それを遂行している。今捺のそばに君を理解し、支えてくれる人物はいるのだろうか?
脳裏に浮かぶのは生徒達を護ろうと奮闘する交流会での姿。……そして、俺達を助け出そうとした廃工場での出来事。捺は不器用な人間だ。その時の自身の出せる全力で、大切な物を護ろうとするヤツだ。その結果自分を疎かにするようなヤツだ。生き辛い、ヒトなんだ。
……もどかしい。音が鳴りそうなほどに拳を握り締める。内部からの衝撃ではこの場所は開かないと分かっているが無性にぶん殴ってやりたくなった。なぜ君が、捺が辛い時に、僕は居ないんだ。今君の側に立てなくて、何が最強だ。
「……あー、クソ」
苛立ちに似た声が落ちた。腹いせに髑髏の一つを足蹴にして目を閉じる。僕の身を案じた苦しそうな顔。それでも僕を送り出した「いってらっしゃい」の言葉。そんなお前を裏切りたくない。くだらない回り道もしたし、沢山傷付けた俺が何かを語るのは説得力に欠けるかもしれない。だがそれでも、
「……──」
はく、と声にならない声で呟いた。何処かで笑いながら無理をしている君の名前を。誰かに届ける気も届かせる気もないけれど、確かにここに君を思う僕が居ることを示したかった。 最低最悪な場所からでも、心からの愛を込めて。
頑張ったなんて言葉が安く聞こえるくらいに、お疲れ様という言葉すら気休めにならないかもしれない。だからこそ何処までも傲慢に、自信を持って君に会いたい。その自信に君が体を預けてくれるように、強くありたい。
頑張らなくていい、無茶しないでほしい、きっとそれは机上の空論だ。だからただ、君は生きてさえくれればいい。死なずに居てくれればそれでいい。後のこと全てを僕に任せてくれていいから、だから、
「……死ぬなよ、」
神様なんて信じていないが、祈ることで救われるものがあるのであれば喜んで祈ろう。きっと捺はこうしている間にも馬鹿やってる。それを止める資格は今の自分にはない。ならば多くは望まない。ただ、お前が生きてさえいればそれでいい。頼んだなんて情けないセリフだが、今はそれさえも惜しい。頼むから、生きてろよ。泣いてもいいから俺がそっちに行くまで這ってでも生き残れ。
もう一度、静かに小指を見つめた。そこに目に見える証は無くとも、確かに君の心臓と僕の指は繋がっているような気がした。