「できないって、苦しいよね」
乙骨くんと私じゃ土台が違うけど。そう言って笑った彼女は何処か懐かしそうに目を細めた。青々とした木々が揺れ、夏に近づいた光が葉の隙間から地面を明るく照らす中、僕は閑夜さんの横顔を見つめる。彼女の黒いスーツは熱を吸収して暑そうに見えた。首筋に少しだけ汗が伝っていた。だけど、閑夜さんはその黒から腕を抜こうとはしなかった。まるで……その姿に誇りを持っているかのように。
閑夜さんは補助監督だ。僕もまだ高専の仕組みを全て理解したわけじゃないけれど、未熟な生徒にも寄り添ってサポートしてくれる"補助監督"の存在はとても大きい。任務を独り立ちした時も不安で震える僕の緊張をほぐし、全力で支えてくれたのは彼女だった。学生担当、というものに割り振られているらしい閑夜さんは僕達の学年に真摯に向き合い、調整を重ね、万全で任務に臨めるような土壌を作ってくれる。内部のことは分からないが、きっと閑夜さんはとても優秀に違いない。
「そうなのよ!やっぱ分かっちゃう?」
「と、いうと……?」
グラウンドでの訓練の後。ペットボトルに入ったスポーツ飲料を喉の奥に流し込んだ僕の隣にやってきた五条先生は、優雅に腰掛けながら「最近どう?」と何とも軽い調子で尋ねてきた。担任なのだから分かっている筈だけど……と片隅で思いながらも、ここ暫くの任務や特訓の成果を伝えれば、知ってるけどね、と喉の奥を鳴らしながら彼は笑う。何というか本当に先生らしいな、と思いながら苦く口元を緩めると「捺にも聞いてるからね」と知った名前が返された。漠然とした安心感の籠った相槌が自分の口から溢れて、彼女に助けられていると話せば、更に先生は機嫌良く声を上げる。何故こんなにも彼が楽しそうなのか分からなくて素直な疑問をぶつけると、たまたま僕の近くまで来ていた真希さんがあからさまに眉を顰めたのが見えた。
「だって僕自慢の同級生だからね」
「ど、同級生!?えっ、先生と閑夜さんが!?」
「しかも愛し合ってる」
「愛!?」
「おいコラ、生徒に嘘教えんなよ」
嘘なの!?と響いた声は青空の奥に消えていく。長物を腕先で回す真希さんは憂太が騙されてるじゃねぇか、と呆れたように肩を落としていた。何処から何処までが……と戦慄する僕の側で「もうすぐ愛し合うんですぅ」と唇を尖らせた先生に"同級生は本当なんだ"と思ったのは言うまでもない。実際、本当に彼と閑夜さんは僕たちと同じように呪術師を目指す同級生だったらしい。問題児だらけのクラスの一員で散々手を焼いたと夜蛾学長に愚痴られるのはこの日よりもう少し後の事だったが……何にせよ、二人にはつながりがあった。
あの日以来、僕の中で閑夜さんの印象の一つに五条先生が加えられていた。だけど、今の彼女は自信に溢れた彼とは似ても似つかない、どこか儚げな雰囲気を持ち合わせている。だけど、それでも閑夜さんは落ち着いていた。どちらかといえば後ろ向きな言葉の筈なのに、彼女はそれを受容している。不思議な感覚だった。
「……はい。苦しいです」
「そうだよね。……私もそうだったから」
「先生の事、ですか?」
僕の問いかけに閑夜さんは、うーん、と少し視線を空に持ち上げてから「五条くんも、他の子も」とぼやいた。他、と言うのは他の同級生の事なのだろうか。……深くは聞けなかった。僕が今生きる世界はそんなに単純な物ではないから。そんな気持ちも理解しているのだろう、閑夜さんは静かに大丈夫だよ、と笑った。
「私もね、卒業して暫くは呪術師だったの」
「えっ、呪術師……?」
意外だった?と小首を傾げた彼女に失礼な反応をしてしまった、と慌てて取り繕ったけど閑夜さんはあまり気にしていない様子だ。寧ろこの反応に慣れきっているようにも見える。"あの"五条先生の同級生だなんて、きっともう幾度も誰にでも言われ続けてきたんだろう。そこに僕の知らない苦労の影が見えた気がして少し息が詰まった。でもそれを表に出さない閑夜さんは変わらず話を続ける。当時は僕のように悩んでいたこと、他人との力量の差や才能の差に劣等感を感じていたこと、何より経験不足であること。……どの悩みも、まさに今の僕の物と近かった。
「……僕だけじゃ、ないんだ」
「そう、乙骨くんだけじゃないよ」
少なくとも私がセンパイ、と喉の奥を鳴らして笑う彼女は柔らかい。でもね、と閑夜は前置きする。そして、僕をまっすぐ見つめた。緩やかに弧を描いた唇がそっと、だけど、確かに動いた。
「入学した時と比べて随分動けるようになったよね」
「そう、ですか?」
「うん、真希ちゃんの速さって他の同世代の子と比べても圧倒的だけど……最近の乙骨くんはちゃんと体が反応出来てる」
「でも……まだ全然で、」
「それはね、当たり前なの」
だって彼女は乙骨くんより先に頑張り始めたんだから。ストン、と胸の中に落ちた言葉はシンプルだ。できると思った方が驕りかも、と言いながら閑夜さんは僕にスポーツドリンクを手渡した。忘れてた、と添えられた言葉と共に触れたペットボトルはまだ冷たい。
「今日もお疲れさま、乙骨くん」
「……!ありがとう、ございます」
「なぁに、もう纏まっちゃった?」
背後から掛けられた声にビクッと反射的に体が揺れる。目の前にいた閑夜さんも僕よりも上の方へと視線を向けて「あ、」と漏らした。見知った声の主は僕の肩に手を置くと、ね?と大きな体を曲げて僕を覗き込んだ。
「ご、五条先生……!」
「五条くん、任務終わったの?」
「うん、バッチリね。でも憂太のカウンセリングには一足遅かった?」
真っ黒なアイマスク越しに笑う先生は残念残念、と言いつつも楽しそうに見える。そのままちょっと失礼、と僕の隣に腰掛けた彼は「捺のおかげかな?」と首を傾げる。僕越しに先生を見た閑夜さんは大したことはしてないよ、と竦めた。謙遜しちゃってぇ、と調子良さそうな彼は……と、僕を挟んで話し始める二人になんとも言えない居心地の悪さと気恥ずかしさを感じる。疑ってた訳ではないけれど、本当に同級生なんだなぁ……
「あ、そうそう伊地知が探してたよ」
「……え!?そ、そうなの!?ごめん乙骨くん!ちょっと行ってくるね……!」
「あ、は、はい!ありがとうございました!」
サラリと告げられた先生からの伝達に目を丸くした彼女は弾かれたように立ち上がるとバッグを抱えて走り出す。ヒールのある靴でバランス良く地面を蹴る姿は何だか綺麗で、閑夜さんもきっと動ける人なのだろうと予感させる。ヒラヒラと背中が見えなくなるまで手を振り、それを見送った五条先生は、ふぅ、と大袈裟くらいに息を吐く。
「いいでしょ、捺。でも憂太は惚れちゃダメだよ?」
「惚れっ、て、そんなこと……!」
「冗談だよ!でも、本当に良いコなんだよ」
ふわり、と温かな風に揺れた髪を靡かせる先生の横顔は晴れやかだ。……本当に、好きなんですね。と月並みな言葉で表現された僕の問いかけに堂々と彼は頷く。その姿は何だか見ていて気持ちが良かった。いつのまにか僕の中にあったつっかえは、綻びは、溶けて解けている。彼の気持ちはなんとなく、僕にもわかる気がした。指先に嵌められたリングを無意識に押さえる。太陽の光に反射して、それは無邪気なくらいに眩く煌めいていた。