「うう、ぉええ…………」





"酒は飲んでも飲まれるな"古から伝わる言い回しが頭を過った。ひんやりと寒い冬のトイレの中でなりふり構わず身を屈めている彼の姿に「あぁ……」と息が漏れていく。大丈夫?と隣に並びながら背中を撫でることしか出来ない私は誰と言うわけでもなく苦笑いを零した。まさかこんなことになるなんて……と、つい先程までの彼の姿を脳裏に浮かべ、尚更なんだか切ない気持ちになった。きっと誰もが思わなかったはずだ。私だって疑いもしなかった。何処を取っても、何を取っても、基本的に全てにおいてソツなくこなす完璧な五条くんがまさか……下戸だったなんて。









「あー、疲れた」
「まさか初詣帰りに仕事することになるとはね」



ガサガサと各々が手に持っていたスーパーの袋を下ろし、適当に座り込む。部屋の主の夏油くんは暖房のスイッチを入れ、炬燵のコードをコンセントに繋いだ。呪術師に休みはない。……というか、呪いが生まれるのに休みなんてない為、こういうことが起こる可能性も勿論理解しているが、かと言ってそれを素直に受け入れられるかは別の話になってくる。四人での初詣が終わり、のんびりと帰り道を歩いていた時に私と夏油くんの携帯が殆ど同時に震えた時点で嫌な予感はしていた。結局、文句を言う五条くんと硝子を引き摺るようにして現場に向かったが、全てが終わった頃には既に夕方になっていた。

行きこそは寒い寒いと言いながらも軽い足取りで歩を進めていた筈が、存分に体を動かした私達は最早誰も「寒い」とは言わなかった。この何とも言えぬ疲労感と損したような気持ちを消化する為、美味しいものを食べようと言い出したのは誰だったか。誰にせよその案はすぐに可決され、私達は元日から開いている行きずりのスーパーへと押し入った。




「カセットコンロここに置くよ」
「五条、肉の袋開けといて」
「傑、箸は?」
「あ、お鍋に出汁入れとくね」




出会った頃に比べるとご飯の準備も手慣れた物だ。特価だったお肉を取り出してゆず風味の出汁を注ぎ、火をかける。すぐに食べられる美味しくモノを考えて全員一致で浮かんだ料理がそう、しゃぶしゃぶだった。沸騰し始めた湯の中に野菜を押し込んでお肉たちを放り込む。全員が炬燵を囲み、赤い身が無くなるまでのわずかな時間に硝子は自分の持っていたビニールから幾つかの缶を取り出して其々の前に並べる。側面に描かれているのは麒麟の絵と"アルコール"の文字。……って、アルコール?




「これ、お酒……?」
「正月だし一缶ぐらいノーカンでしょ、ほら」
「驚いた、いつの間にこんな物を?」
「廃れた自販機でフツーに買えた」




お酒はハタチになってから。色々な場所に貼られたポスターや広告は硝子の前では何の効力も無いらしい。まぁ、煙草まで吸っているのだから今更かもしれないけれど私にとっては自分の前にアルコール表記のある飲み物が並ぶのは新鮮な光景だ。

当たり前だけど、私は飲んだことなんてない。親もそれを許す人では無かったし、良くないことだとも自覚している。……けれど、友達とこういった背徳感を得るのは何だかドキドキした。やってはいけないことを、人には言えない秘密を共有するのは特別な気がする。



「アンタら飲んだことあんの?」
「わ、私はない、けど……」
「……まあ、私は何度か」
「家のシキタリの一環ぐらい」



ふぅん、と言いながらプルタブを持ち上げて空気が抜ける気持ちの良い音を鳴らした硝子は「アレルギーとかあるから一気に飲むなよ」と主に私を見ながら忠告する。こくこくと必死に頷いて見様見真似で私も缶の飲み口を開いた。隣に座る五条くんも同様に夏油くんや硝子を見てから、カシュ、と音を鳴らした。



「じゃ、新年初仕事お疲れ様……って事で、」



乾杯!と珍しく声を少し張った硝子が音頭を取った。私と同じ年齢の筈なのに彼女はよっぽどこの飲み物と楽しみ方を知っているらしい。大人だなぁと思いながらおっかなびっくり口をつけ、初めて感じた”にがさ"に思わず少し眉を顰める。その間にも喉を鳴らしながら勢いよく飲み干していく硝子と夏油くんは流石と言うべきだろうか。そっと五条くんを見上げた。彼は彼で私よりも更に露骨な表情を浮かべている。彼は甘いものが好きだし、尚更この苦さが苦手なのかもしれない。そうしている間にも肉が出来上がり始め、慌てて菜箸に一番近かった私が全員に分配していく。小気味よいありがとうの声を聞きながら、ポン酢と胡麻を混ぜた贅沢なタレで頂いて、ほろり、と笑顔が溢れた。


しゃぶしゃぶは案外集中してしまうものだな、と思う。直ぐに出来上がる肉に野菜を継ぎ足してひたすらに口の中へ放り込む。ちょっとした作業のようなものだ。目の前に座る硝子もかぷかぷと喉をビールで潤しながら真剣な目をしているし、夏油くんはさっさと新しいパックを開いていた。そして五条くんは、




「………はぁ、」
「……!?」
「うわっ、」




彼に視線を移そうとした瞬間の出来事だ。ぽふん、どころか、ドスン、とした衝撃が私の左肩に突然響いたかと思えば受け止めきれない体重が一気にのしかかってきた。視界が黒で染まった私には何が起こったか分からず、ただただ重いという事実だけが覆い被さる。客観的に見ていた硝子が驚きの声を上げ、それに続くように「悟、キミ酒飲めないの?」と夏油くんの疑問が耳に飛び込んできた。




「っ、あ、ちぃ……」
「ご、じょうくん……!さすがに、おもた……っ」
「五条、このままじゃ捺が潰れるぞ」
「潰れりゃ、いいだろ……」
「だから悟はあまり乗り気じゃ無かったのか……」




こういう時一番に喜びそうなのに。やれやれとでも言いたげな夏油くんの声を聴きつつも、私の体が悲鳴を上げ始める。必死に腕を伸ばして彼の背中であろう辺りをポンポン、と叩いた。そんな想いが伝わったのか、五条くんの大きな体が少しだけ私から離れていくのが分かった。ゆらり、と私を見下ろす彼の顔は影になっていても尚、赤く見える。元々白い肌が色付いたせいか、一目で五条くんが酔っ払っているのが伝わってきた。大丈夫だろうか、そんな気持ちを込めて見つめ返していると、彼の大きな目が少しだけ細くなり、何か言いたげに唇が揺れた。彼の大きな掌が私の頬に触れる。優しく、柔らかな手付きだった。




「……捺」
「な、なに?」
「…………捺…」
「五条くん……?」
「………………」




あ、と思わず声が出た。黙り込んだ彼の顔色が赤から青へグラデーションのようにみるみると移り変わっていく。視界の端で夏油くんがここ最近で一番慌てた顔をしたのが分かった。物凄い勢いで五条くんの体を引き剥がした夏油くんは「重!」と叫びながら不恰好に彼を抱えて走り出し、いつの間にか入り口近くに待機していた硝子が扉を開けた。少し廊下で足元を滑らせながらトイレの方へと一直線に向かっていく男の子二人の背中を唖然と見送った私の肩を硝子はタバコを吹かせながら「あとで見に行ってやって」そう言いながら、ポン、と叩いた。







たった一缶。350mlを摂取しただけとは思えない吐きっぷりに見ている此方が胸焼けしそうになってきた。流石に30分ほど便器に向かえばもう出すものは無くなってきたようだが、相変わらず彼の顔はあまり優れない。洗面所から持ってきた濡れタオルを手渡すと、五条くんは力なく受け取り、口元から喉にかけてをゆっくりと拭った。いつもより体は小さく見えるが、呼吸も整い、先程よりは随分落ち着いているようだ。


「ちょっとはマシになった?」
「……あぁ」
「良かった……大変だったね」


無理しないでね、と掛けた言葉に彼はゆっくりと頷いて、私を見つめた。けれどすぐにふい、と視線を逸らし、ダセェ……と自分の髪をぐしゃりと掻き上げる。そんなことないよと慌てて伝えてみたけれど、彼は納得しそうにない。スッキリしない顔色のまま蹲るばかりだ。



「ほら、私もお酒強くないし」
「……でも、俺よりは飲めるだろ」
「そうかもしれないけど……でもね、五条くん。私、」



五条くんはバツ悪そうに顔を上げる。それに少し笑いつつ、私は口を開いた。そう、あの時私は……








「懐かしいね、このビール」





目の前から聞こえた声に意識を向け、ふ、と我に帰る。目があったのはいつもの青い瞳ではなく黒い布切れだったが、彼の口元は非常に楽しそうに緩んでいた。メニューに写真で貼られたビールの銘柄はあの日硝子が買ってきたもの一致している。私も同じこと考えてた、と思わず小さく笑えば「運命だね」なんて悪戯っぽく五条くんも笑う。当時あんなにも落ち込んでいた彼だが、今は所詮笑い話、らしい。



「五条くん、あの時大変だったね」
「そりゃそうだよ。好きな女の子に介抱されるなんてカッコ悪いじゃん」
「……そうかな?」
「しかもビール一缶!あれ以来もう酒は滅多な事じゃないと飲まないって決めてんの」
「でも私……結構嬉しかったんだよ」



五条くんは、ハァ、と息を吐いてから「覚えてるよ」と肩をすくめる。そう、あの時の私も今と同じように「嬉しい」と伝えたのだ。私が彼に協力出来ることなんてないと思っていた当時、すこしでも五条くんのために出来ることがあり、私は確かに嬉しかったのだ。




「今なら分かるよその気持ち、でも当時は嫌だったな」
「そうなの?」
「そう。恥ずかしかったし……けどね、今は僕をそういう風に思ってくれるの嬉しいよ」




五条くんは喉を鳴らす。だからもっと甘やかして良いんだよと調子付く彼に、もう、と笑った。でも私もわかる。彼が私を理解してくれるのが嬉しいんだ。




「今もお酒は?」
「飲まないよ。……捺と二人の時だと考えても良いけどね」




なら今も飲めるよ、と冗談混じりに答えた私に彼はまたコロコロと笑った。お酒なんてなくても五条くんと過ごす時間は楽しい。私たちはどちらからという訳もなく、ノンアルコールカクテルの縁をぶつけて、爽やかに乾杯した。







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