鈍ったなぁ。



この日、私が一番に感じた事は、この一言に集約されている。





ツンと刺すような寒い日だと聞いていた。事前に夜蛾先生から特例の指示を受け、クリスマスイブのこの日に備えるようにとの通達が来たのは、ほんの数日前の話になる。仕事で東京から京都へと移っていた私が母校である東京高専に呪詛師夏油傑が現れたと聞いたのは少しだけ後になってからだった。初めは信じられなかったし、正直今でも信じられない。この数年、雲隠れしたように水面下へと潜んでいた彼が何故?そんな気持ちが拭えなかった。何処か現実離れしたような心地で二十四日までを過ごしていた私は、部屋の隅に置いていた本当に数少ない“私たち"の集合写真を手に取る。




「……夏油くん」




そう、夏油くん。私にとってはやっぱり、彼は夏油くんでしかない。彼の世紀の大犯罪は事実として、現実として理解している。した上で、私の中の彼はやはり当時のまま時が止まっていた。五条くんは直接彼にあったらしい。……五条くん。貴方は今、何を考えているんだろう。私には想像も付かなかった。BGMの代わりに流していたニュース番組から今週の天気予報が読み上げられる。爽やかな笑みを浮かべるお天気アナウンサーが言うには、今年のクリスマスは随分と冷え込むそうだ。……ああ、嫌だなぁ。こんなこと思ってはいけない筈なのに、どうにも思考が止まらない。どうにか逃げてきた、考えないようにしてきた。そんな現実に今、私は直面している。




「大丈夫ですか」




持ち場に着いて、空を飛ぶ呪霊の群れを見上げる私は後輩にはどう映っていたのだろう。淡々とした口調の中に確かな心配を感じて少しだけ苦笑する。……七海くん、と久しぶりに会った彼の名前を呼んだ。本人はあまり表情を変えていないつもりなのかもしれないが、案外彼は分かりやすい人だと思う。彼の掛けてくれた「大丈夫ですか」に込められた意味を察せないほど私は鈍くなかった。




「大丈夫だよ」
「……強がりですか?」
「ううん、本当に。今はしなきゃいけないことがあるから」




考える時間が無いんだ、と答えた私に彼は少し黙り込んでから、そうですか。と呟いた。あまり納得し切った声色では無かったけれど、敢えてそれに触れず、七海くんも気をつけてね、と先輩として当たり前の気遣いの言葉を投げ掛ければ「はい」とあくまでも端的にドライな声が返ってくる、彼にとっては当たり前なのかもしれない、というか、そう思っているんだろうけど、七海くんはこう見えて情に厚い人だ。何かよく無いことが起これば間違いなく無理をする。私と彼はもうとっくに学生という立場から卒業しているし、すでに大人になった彼に私が一応の先輩として教授することなんて烏滸がましい。そう理解しつつも、気を付けて、と心配の言葉を付け加えるのはやめられなかった。



「……それは、私の台詞です」
「そ、そうだよね……」



自分でもそう思った、なんて。少し気の抜けた笑いが無意識に溢れて、それに安堵する。あまり肩に力が入っても上手くいった試しがない。七海くんは多分そこまで考えていない、というか純粋に私を心配して声を掛けてくれたんだろうけど、それが良い方向に作用してくれたらしい。もう一度改めて感謝の言葉を伝えて、出来るだけ怪我しないようにねとさらにお節介を重ねると、七海くんは少しだけ目を細めてから素直に頷いてくれた。






『グギ、ギギギ、ギギ』
『シャーッ!シャーッ!』
『フフ、フフフ』





多種多様な呻き声と共に影に飲み込まれる呪霊を見てきた。今日はこれで何体目だろう。以前よりも重い体にもう少しトレーニングするべきだった、と反省しながら私は京の夜を泳ぐ。影から影へと渡り、呪力を感じれば、ただ、祓う。夏油くんの呪霊操術による物量作戦は元々層が薄い呪術師には厄介極まりない妨害行為だ。

分かってはいたが、京都に彼はいない。その時点でこの戦場は"ただの持久戦"だった。東京に居る筈の五条くんが彼と対峙するその瞬間まで、私達は必死にコイツらを祓うしかない。祓って、祓って、被害を少なくするしか無い。……歯痒い。私に何かできるわけではないだろうけど、歯痒くて仕方がない。本当は今すぐにでも東京に向かいたい。でも、私の理性と護るべきものがそれを許さなかった。……空色の長髪が揺れるのが見える。その後ろにまで迫った蛾の群れのような呪霊に弓を引き絞るように影の塊を投げつけた。私の意思を汲み取ったように直前で弾けた影は風呂敷のように呪霊を包み、一まとめにしてしまう。そして、彼女の"領域"に足を踏み入れた呪いの塊は見事、美しいまでに「一閃」された。



「っ、捺さん!」
「流石三輪ちゃん、いい太刀筋だね」
「いえ、その、今のは捺さんが……!」



何か言いたげな彼女に人差し指を立て、しーっ、と態とらしくジェスチャーをする。私は本当に大したことはしていない。あそこまで正確な迎撃を刀で行うのは中々至難の技だ。私は当時呪具の扱いが特別上手い訳ではなかったので彼女の凛々しい立ち姿には少し尊敬すら覚えている。初めこそ苦戦していた三輪ちゃんの苦しみは補助監督として幾度となく相談されたが、彼女は奇しくもこの舞台でそれを克服しているように見えた。もう立派な剣士だよと笑えば、三輪ちゃんの顔に浮かんでいた緊張が少しだけ解けた気がした。




「……三輪!と、閑夜さん……!」




いつもより少し張られた男性らしい声。和装のまま走り寄ってきた加茂くんは少し息を上げていたが、呪霊の気配を感じないことに安心したように息を吐く。それから無線に向かって「大丈夫だ」と伝えているのを見る限り、今の状況は上空の桃ちゃんが確認してくれていたみたいだ。彼女が見ていてくれたなら私が格好付けなくても良かったかな、と少しだけ彼らの成長を妨げてしまったことを後悔したが、少なくとも誰かが怪我をするよりはマシだった、と自分を無理に納得させた。




「加茂くん、今の状況は?」
「向こうで東堂が呪霊を相手しています。恐らくあの気配は一級相当かと……」
「一級……!」
「……もしくは、それ以上です」




彼の口から語られた一級、という響きに少し体に力が入った。東堂くんは強い。京都高専において彼の力と頭脳、そして術式は正にエース級と言っても過言では無いが、学生が一級、もしくはそれ以上に当たる呪霊と戦う機会なんてそう多く無い。……いかないと、すぐにそう思った。でもその考えは加茂くんに見透かされていたみたいで「応援を呼びましょう」と現実的かつ、建設的な提案がなされる。

彼の考えは正しい。そもそも、私よりも彼の方が強いことなんて十分に有り得る話だし、私に出来ることがあるのかも少々疑問だった。だけど少なくとも一人よりは二人の方がマシな筈だ。確かに祓う力は彼の方が上かもしれない。でも、純粋な拘束や呪霊の動きを鈍らせるという点では恐らく私に軍配が上がる。……私は、後悔したく無かった。





「加茂くん、ありがとう。君達はそのまま応援を呼んでほしい。できれば一級以上の術師を寄せてもらえると助かるかな……」
「……!閑夜さん、ですが、」
「君は冷静に戦況を見れる人だから心配してないよ。……私も死にたい訳じゃない。出来るだけ被害を抑えられるようフォローする」





お願いね。そう頼む私はずるい大人なのかもしれない。加茂くんは歯痒そうに口元を噛んでから、……分かりました。と絞り出すように頷いた。ごめんね、という言葉を飲み込んで代わりに「ありがとう」を伝えた私は近くの影の中に飛び込む。そして、直ぐに感じた呪力が高まった箇所へと水を掻き分けるようにして進んでいった。あそこがきっと、東堂くんの戦っている場所だ。





「……っ!!」





グッと思い切り腕を動かし、勢いよく飛び出したそこは既に沢山の液体で埋もれていた。どうやら祓われた呪霊が重なって生まれた影から出てきてしまったらしい。四体分の大きく気味の悪い身体からはもう呪力は感じられない。決して軽い相手ではない筈なのに、東堂くんは既に一級に近しい呪霊をほぼ同時に相手し、倒したというのだろうか。やっぱり彼も相当な規格外だ。…………と、そんなことを思った瞬間。私の直ぐ隣に立っていた母家の壁を貫くように、鬼のような形の呪霊が物凄い勢いで"押し込まれ"てしまったのだ。足掻くように暫く四肢をバタつかせていた鬼だったが、既に呪霊よりも鬼神となった彼が現れ、そして、ダメ押しの最後のひと殴りで"ゴロン"と呪霊の首が落ちた。じわじわと鬼の体が崩れ落ち、夜に消えていく姿にふ、と息を吐き出してすぐ。確かな違和感が私の語感を支配した。


首を斬って消えゆく呪霊であれば、呪力の根幹が頭部の可能性は高い。その場合は一番に頭部から崩れ落ちることが経験上、多かった。少なくとも殆ど同じタイミングで全てが祓われることが殆どな筈だ。……だけど、今私たちの前には正気を失った目はそのままに、"消えない"頭部だけが残されている。嫌な予感、というものは大抵よく当たるものだ、と、私はこの時改めてそう思った。





『グ、ググ、グ』
「……これは、」
「ッ東堂くん、離れて!」
『ァ、アア、イタイ、ナァ、イタイ、イタイ……!!』




意味のある単語。殻を破るかのように這い出した悍ましい、腕。頭に過るのは「変態」の二文字。彼も馬鹿じゃない。直ぐに飛び退いて鬼の頭と距離を取る。ずぷり、と気味の悪い音を立てながら千切れた首根っこから産み落とされたのは先ほどまでの呪霊とは比べ物にならないほど小柄で、そして、比べ物にならないほどの呪力を纏った新たな姿。





『コロシテ、ヤル、オマエラ、コロシテヤル……!!」





溢れんばかりの憎しみが辺りに充満し、私と東堂くんは臨戦体制に入る。ゆらり、と立ち上がった細長い体付き。爛れた人間のような、マネキンのような、無機質さ。背中につぅ、と汗が流れた。これはきっと、一級以上。特級相当かもしれない。特級のなかで言えばそこまで上位ではないだろうが、少なくとも一筋縄ではいかないらしい。……一瞬の邂逅。そして、けたたましい音を立て、呪霊の両腕が思い切り伸ばされた。咄嗟に地面に転がるように回避したが、まともに腕が当たった建物はそこだけが美しくひしゃげてしまっている。食らうもんじゃないな、と隣に立つ彼がつぶやいた。全く、その通りだと思う。そんな私たちのやりとりを理解しているかのようにケタケタと笑った呪霊は容赦なく突きを繰り返す。……埒があかない。このままではジリ貧だ。私は呪霊からの攻撃を必死に避けながら思案顔の東堂くんに半ば叫ぶように声を掛けた。




「っ、私の、術式は!」
「……!」
「触れた影に呪力を流し、使役するもの!影にはある程度の知性があって……っ、多少なら判断してくれる!」
「っ、使役、か、」
「どちらかと言えば他の術師の、フォローに回ることが、多いかな!」




なるほどな!と東堂くんが声を上げる。そして、ふ、と彼と目が合った。合わせろ、とでも言いたげな強い視線に頷くと、東堂くんは勢いよく、"パンッ"と手を叩いた。一瞬の出来事。ぐるり、と世界が歪み、気付けば私は呪霊から少し離れた位置に立っていた。元の位置には私が使役してきた影の一つが浮かんでいる。私と影を入れ替えたのか、と直ぐに悟ったが……しかし、必死に私の体を追い掛けていた呪霊の腕は本来なら曲がらない角度でグキグキと体を歪め、直ぐに今の私を追尾する。彼が私を飛ばしてくれた位置はあの呪霊からは死角になっていた筈だ。ならば、この呪霊が探知しているのは視覚からの情報ではない。




「……一定以上の、呪力!」
「だろうな!」




力強い彼からの同意の声。それに続いて「出来るだけ影を集めて浮かせろ!」と飛ばされた指示に私は大きく頷いた。彼のしたいことが頭をリンクさせたかのように伝わってくる。東堂くんの術式で適度に影の多い位置にまで飛ばしてもらい、兎に角触れて、触れて、触れ続けた。瞬間的にいつもより多い呪力を与え、すぐに呪霊の側へと飛ばしていく。あまり大きな影ばかりを使役しては私の呪力なんて直ぐに枯れてしまうだろう。そう判断した私は小さな球体状に影を丸め、それをひたすら呪霊の周りに浮かべていく。球体が増すにつれ、少しずつ、少しずつ呪霊の動きが遅くなるのが分かった。


……その瞬間は、もうすぐ訪れる。少し高まる鼓動を抑えつつ、走り続けた。あと何度この行程を繰り返すことになるのかを予想して、そして、私がまた一つの呪力玉を浮かせた途端、私を追い回していた呪霊の腕がぐるり、と反転し、自らへと向かって行ったのだ。ギィ!?と驚きのような声が上がり、私と東堂くんは一斉に走り出した。無惨にも呪霊の体を呪霊本人の腕が鋭く貫いて、それに合わせるように東堂くんの拳と、私の影で作った長槍が深々と突き刺さる。それでもまだ動こうとする呪霊を見て、私は咄嗟に鋭い刃のような呪霊の腕を握り込み、掌に血を滲ませた。じわりと伝わった痛みに顔を顰めつつ、そのまま大きく振り上げる。飛び散った鮮血が私が浮かべた影の球に吸収された。……これは、血の捺印。





「"影響"!」





張り上げた声と共に球体が震える。そして、静かに私はそれらに指示を下した。…………"貫け"と。




鈍く響いた喘ぎと、消えていく邪悪な気配。私達が流した呪力に浄化されたかのように呪霊の体は崩れ落ちる。実際はただ、私たちも呪っただけなのだけれども。









……終わった。途端に力が抜けて、へたりとその場に座り込む。後になって緊張が追いかけてきて、バクバクと心臓が煩かった。ゆっくりと息を整える私に差し出された大きな手の主は言わずもがな東堂くんだ。





「見事だった。閑夜捺」
「……あ、ありがとう……東堂くんもさすがだね」
「葵でいい。俺も敬意と親愛を込めて捺と呼ぼう」
「あ、うん……?」





補助監督にしておくには勿体ない、と言いながら私を引き上げてくれた彼の表情は少し柔らかい。以前までは何処か尖った印象も強かった東堂くん……もとい、葵くんだが、何かしら認めてくれた、ということなのだろうか。彼の基準は難しいな、と思っていると遠くから「閑夜さん!」と私を呼ぶ声が聞こえた。自然と顔を動かして走ってくる人物が加茂くんたち学生と七海くんだったことに、ふ、と頬が緩んだ。良かった、みんな怪我をしている様子はない。




「一級以上の呪霊がいると聞きましたが……なんですか、これは」
「あー……大半は東堂……葵くんが。途中で変態したやつは二人でどうにかって感じかな……」
「……変態した呪霊を?」
「俺は今まで捺のことを過小評価していたらしい。良いチームワークだった」




私達の話を聞いた七海くんは露骨に顔を歪める。気を付けてと言いながら無茶しているのは誰ですか、と毒づかれたが全くもってその通りだと思う。よくまぁ、ここまで動けたものだ。自分で自分を褒めてやりたくなった。きっとここまでできるようにしてくれたのは当時の私の友人達、なんだろうけど。


冷たい空を見上げる。白い息が立ち上り、未だ近くには様々な呪霊の気配が立ち込めている。今も何処かで夏油くんは同じ空を見ているのだろうか。……まだ夜は、明けない。






あなたのともしび





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