「いっくよー」
硝子の緩やかな声かけと共に、私も右腕を構えて勢いよく振り抜いた。五条くん目掛けて飛んでいく二本のボールペンは彼の数センチ手前で綺麗に静止して、その後こつり、と夏油くんが投げた消しゴムだけが額にぶつかる。五条くんはニンマリと満足そうに笑って、落ちる前に文房具を掴み取り、それを見た硝子が面白くなさそうな声を上げた。この1年ずっと試行錯誤していた彼は、ついに無下限呪術をほぼ完璧に支配し制御出来ていた。今までは意識的に張っていたバリアを"オートマ"つまり、自動的に外敵や自分に不利益なものを判別するようにしたのだ。……簡単に言っているけれど、それがどれだけ異様なのかは呪術師であっても、もしくはそうで無くてもすぐに分かる筈だ。つまり、彼は呪力さえ尽きなければ常に身が守られている状態なのである。その対象は呪力を有するものだけでなく、今の実験のように無機物にも適応されており、あらゆる事象に対応が出来るようになっていた。
特に不意打ちなんかには滅法強い……というか、どんなものからも刺激を受け付けないあたり、実質彼は無敵に近しい存在と言っても過言では無い筈だ。淡々と聞いても理解がなかなか追い付かないのに、五条くんはあまりに平然としていた。硝子の言う通り、並みの人間なら思考することの多さに処理が追いつかず脳がショートしてしまうだろう。そんなことを堂々と、楽しそうに探求する彼だからこそ到達できた場所。私はきっと出来ないコト。以前よりも輝いて見える五条くんに対して、私は深い尊敬の念を抱いていた。すごいなぁ、と別世界の出来事みたいに見つめていると不意に彼と目が合った。五条くんは珍しく私に対してフレンドリーな笑顔を浮かべると「捺、こっち」と手招きした。彼の行動に驚いているのは私だけでなく、残りの2人も同じらしい。何をする気なんだと言わんばかりの視線を私たちに向けていた。どうするべきかと迷いつつもおずおずと彼の前へと数歩近くと、五条くんはサングラス越しに青い目を向けて、両手を大きく広げると、
「おいで」
と信じられないくらいに柔らかな声で私を呼んだ。その行動の意味が分からなくて固まった私は少し後ろに立つ硝子に振り返ったけれど知らない、と彼女は首を横に振る。夏油くんも同様らしく、手を振って無知を私にアピールした。……改めて五条くんに向き直る。彼は相変わらず素晴らしい笑顔を私に向けている。彼と過ごしてもう3年程経つけれど、こんな風に向かい合ったのは初めてな気がする。まして、まるでハグを求めるみたいな手振りなんて見たことがない。どう考えても何かしらの意図があるんだろうけど……考えていても埒があかない気がしてきた。ごくりと唾を飲み込む。妙な緊張感の中、彼に合わせる形でそっと腕を広げた私はそのまま彼に抱き付こうと強く目蓋を閉じながら膝に力を込めて踏み出した。
「んぶ、っ」
「なーんて、」
ニヤリ、といやらしい笑みが目の前いっぱいに広がる。いたずらっ子みたいに口角を上げた彼は空中で静止し、本当に少しずつ彼の方へと沈み込む私を観察するように見つめた。彼の無下限は想像していたようなバリアというよりは空気の層のように感じた。惑星の周りを取り巻く大気圏のようなその膜は彼に近付くのを拒むように確かにそこに存在している。次第に彼はケラケラと声を上げて笑い出し、それを見ていた夏油くんが「悟、」と諫めるように彼の名前を呼んだ。だって間抜けじゃん、と悪びれる様子のない五条くんだったけれど、ぱっ、と不意に両掌を開いてみせる。同時に感じた重力で地面へと突然引っ張られていく私を硝子が酷く驚いたような表情で見て、咄嗟に手を伸ばした。けれど、
ぽすり、と体に感じたのは痛みではなく、がっちりと固い物に軽く触れた程度の衝撃。解かれた術式の先に立っていた五条くんは倒れてきた私を危なげなく受け止めると、得意そうに目を細める。ほぼ反射的に持ち上げた私の視線が彼の色素の薄い睫毛の奥にある瞳と絡み合って「どう?俺の術式」と問いかけられるのに私の口は、思考するより早く、動いた。
「っ、す、ごすぎるよ……!」
「え?」
「五条くん、凄いよ!今のどうやって……!!私を対象としてたけどその場で自分の任意で弾くものを選べるの?こんなに自然に!?」
「ちょ、」
「手を開けたのは演出?それとも力を抜くのを意識する方がやりやすいのかな?どっちにしてもフェイクにもなるし凄くいいと思う……!!」
「は、ァ!?」
止められる気がしなかった。彼がテストに付き合ってほしいと言ってきたときから既にもう興味も期待も高まっていたけれど、本当にこんなに凄いものが見られるなんて考えも付かなかった。五条くんが現代においても素晴らしい才能を持っていることは勿論分かっていたけれど、彼の強さの形がこんなに理解が出来なくて、それでいてしっかりと理論的にそれでいて私では及ばない空想論が同時に存在している。解ろうとしたいけれど、解らない、そのロマンのバランスがとても心地良かった。赫と蒼ですら何度見ても分かりきらないのに本当に五条くんは底が知れない。ここに至るまでどれだけの苦労があったのか、私には計り知れないけれど、彼はどこまで強くなってしまうのだろう。それでも、きっとまだまだ五条悟は強くなる、そんな確信を持てるのが彼だった。彼を彩る絶対的な強さは私が一生かけても手に入らないもので、眩しくて、キラキラしていて、空高くに存在する恒星のように見ていることしかできない、見ているだけでも良いモノだった。
高まっていく興奮に体がほんのりと熱せられる。ただでさえ暑い気候がもっともっと日差しを増した。思わず力が入って彼のラフなTシャツを指先で掴むと、ただでさえ大きな眼が飛び出してしまうのではないかというくらいに大きく目蓋を開いていた彼は突然びくりと大きく肩を揺らし、その瞬間思い切り私を無下限の外側へと弾き飛ばした。突然の大きな衝撃にバランスを崩しかけた私を支えてくれた夏油くんが慌てたように私の名前を呼んだ気がしたけれど、今のはもしかして小規模ではあったが赫と同じ原理だろうか?それなら是非、直接彼に聞いてみたい、そんな思いですぐにまた私は五条くんの方へと駆け寄る。
「五条くん、今のって赫……!」
「…………」
「……五条くん?」
「……ッ、お前はァ……〜!!!」
「っひ!?」
ガッ、とものすごい勢いで私の肩を掴んだ五条くんは盛大に目元を吊り上げ、私を思いきり睨み付けた。急にテンション上げてんじゃねぇぞ馬鹿!とかなりの剣幕で怒鳴りつける。一瞬言葉を失った私だったが寧ろこんなものを見せられてテンションが上がらない方がおかしいと思う。無理だよ!と口をついてる出た言葉に彼はまた「あぁ!?」と柄悪く吠え、俺のオタクか何かか!?と声を荒げた。オタクのつもりはないけれどあんな力に魅力を感じない人の方がきっと少ないし、こんなの、特別私が変な訳じゃない筈だ。だって強くて、綺麗で、そして何より、
「かっこいい、から……!」
「か、ッ……!?!?」
あんぐりと口を開けた五条くんは、信じられない、といった顔を私に向け、今度こそ絶句する。ゆらゆらと小さく左右に瞳孔を揺らして、彼の透き通りそうな白い肌に首を伝うようにして顎、頬、鼻、目元、そして耳の先までを深い赤が差した。……あれ?と思った時には五条くんは私の横を大股で通り過ぎて硝子を引っ張って校舎の方へと戻って行ってしまう。追いかけようとしたけれど今度は夏油くんが私の手を取り「それぐらいで勘弁してやってくれ」と静かに首を横に振った。勘弁、というのはどういう意味かと聞き返したけど、夏油くんはただただ苦笑するだけで、それ以上は何も教えてはくれなかった。
「な、んなんだよアイツマジで!!!?」
「普段あんなにおどおどしてるのにねぇ」
「意味わかんねぇ、なに、あれ、マジで馬鹿」
「ウンウン……」
「あれで、か、っこいいとか、訳わかんねぇ」
「あーハイ」
「普段そんなん嘘でも言わねぇのに!」
「……で、気がすんだ?」
「済むわけないだろ!?」
「まぁ……そんな茹で蛸みたいな顔じゃ帰れないよなぁ」
「ぶっ飛ばすぞ」
「勝手に連れて来といて何。つーか早く帰せ」
「無理。俺1人じゃこんなん抱えられないっての!!」
「抱えろよ」