五条先生は捺さんの前ではいつもアイマスクを下げている。








それに俺が気付いたのはつい最近の事だ。菓子パンを食べていた釘崎にその気付きをなんとなく伝えるとあからさまに「ハァ?」と怪訝な顔で"今更?"と凄まれてしまったけれど、本当に"今更"なのだから仕方ない。パックのオレンジジュースを飲みながら、だってさ、と相変わらず不服そうな彼女に続ける。隣で静かにプロテインバーを食べていた伏黒がチラリ、と此方を向いたのが分かった。





「あんまりそういうの意識しなくない?」
「するわよ」
「するな」
「伏黒まで……」





喉の奥にバーを通した伏黒は軽く口元を拭ってから「五条先生は分かりやすいだろ」と呆れ混じりに呟き、天井に目を向ける。ぼんやりとした青い瞳はきっと、昨日の捺さんのことを思い出しているんだろうな、と思った。そろ、と釘崎と顔を見合わせる。……伏黒も大概だよなぁ、という言葉が舌の先まで降りてきたのをグッと堪えて胃の中に落とし込んだ。そんな事を言うと伏黒が怒るのは目に見えている。そういう時のコイツは割と……いや、結構めんどくさい。今だってそうだ。視線自体は上を向いているけれど、膝は不規則に揺れているし、靴の先端に教室の床は何度も何度も小突かれている。




……彼が何故こんなに落ち着かないのか。その理由は昨日の丁度今と同じぐらいの時間にまで遡る。俺達は三人での任務のために担当の補助監督……そう、閑夜捺さんが来るのを、正にこの教室で待っていた。捺さんは釘崎に「事務仕事の終わりに教室まで迎えに行く」と連絡していたらしく、それを伝えられた俺と伏黒も同じく彼女の到着を待ち侘びていた。近場の任務であればバスを使ったり歩いたりも出来るけれど、山奥にある高専から駅にまで出て行くのは流石に車の方が現実的だ。勿論それは捺さんも把握していて、俺たちが何か言うより先に車を用意してくれていたらしい。日頃丁寧な運転をしている彼女の送迎に反論してくる同級生は居なかった。まあそりゃ、捺さんと話すのも面白いし俺だって全く文句は無い。釘崎は画像投稿アプリをスライドさせつつ捺さんに伝える美味しいスイーツ屋を真剣な顔で探しているし、伏黒は窓の外を見ながら欠伸を噛み殺している。俺はというと、手持ち無沙汰で教室の扉をじっと見つめ、ただひたすらに捺さんの到着を待っていた。







「っ、ごめん、お待たせ……!」






ガラ、と勢いよく開いたドア。はぁ、はぁ、と弾んだ息。ネクタイを少し曲げながら必死に呼吸を整える彼女は目元を擦りつつ「遅くなったよね、」と申し訳なさそうに笑った。五条先生に慣れた俺たちからすれば数分程度の遅刻など誤差みたいなものだけど、彼女はタイムスケジュールを気にするオトナで少しだけ時計の長針が約束の時間より右にズレていることに大きく肩を落とす。何度も学生の俺たちにごめんね、と謝る姿が見ていられず、大した遅刻じゃ無いと伝えてみたけれど、彼女の態度が変わることはなかった。


今思えば、この日の彼女には不自然な事が多かった。普段の捺さんなら五分前には必ず集合場所に着いていたはずだ。それを些細な違いだと受け流してしまった俺とは違い、彼女の可笑しさにいち早く気付いたのは多分、伏黒がだった。窓際に腰掛けていた彼は俺や釘崎よりも早く立ち上がり彼女の元へ歩を進める。つられて椅子を引いた俺たちを尻目に「閑夜さん、」と何処か確信めいた声が響いた。






「伏黒くん?」
「体調、良くないんですか」
「……!」





捺さんからの返事は無かった。が、この反応が何よりの証だ。伏黒に倣うように慌てて彼女を見ると、確かにいつもより血の気が引き、蝋細工みたいな青白さを感じる。……と言っても、あくまで"感じる"程度だ。隣からよく見てるわねと感心したような釘崎の呟きが聞こえて、同意するように首を縦に振った。伏黒は一瞬眉を顰めて俺達に目をやったけれど、すぐに捺さんに向き直る。





「代わりの方は、」
「……今日は皆それぞれ出払ってるんだ。大丈夫だよ、ちゃんと送り届けるから」




不安にさせてごめんね、と情けなさそうに目を細めた姿に胸が痛くなる。捺さんの言葉を聞くに、彼女も彼女で自分の体調が万全でない事に気付いていたのだろう。だけど高専では呪術師は勿論、補助監督でさえも人手不足なのだ。俺も釘崎も伏黒も、彼女を責めたいわけじゃ無い。ただ働き詰めの捺さんが心配なだけなのだ。良い方法は無いのかと悩みつつ、兎に角何か言わないと、と口を開きかけた俺の視界にふ、と飛び込んできたのは黒と白だけで出来た大きな体。思わず目を見張り、何か思考するより先に俺は"その名前"を呼んでいた。





「五条先生!捺さんが!!」
「……捺?」





俺の声に捺さんが、びく、と肩を揺らしたのが分かった。用事があったのか足早に遠くの廊下を歩いていた五条先生は「捺さん」という単語に弾かれたように顔を上げるとあっという間に俺の前まで早足で近付いてくる。そして、教室を覗き込み今の彼女の様子を"見た"のだ。一瞬の沈黙、いつもみたいに弧を描かない口元。この場で一番居た堪れないのはきっと捺さんだ。慌てて腕と首を振り、平気だ、と先生にアピールしたかったのだろう。だけど、彼女が数度首を揺さぶってすぐ、がく、と捺さんの身体は膝の力が抜けたように傾いた。…………倒れる。咄嗟に踏み出そうと右足に力を込めた。バネのように筋肉を収縮させて、腕を伸ばそうとした。が、その手は届かない。反対側から酷く焦った顔で俺と同じように伏黒が腕を伸ばして固まっているのが見えた。






「……無理しすぎだろ」
「五条、くん、」






側から見ればそれは、不恰好だったかもしれない。少なくとも俺を呪霊の領域から守りつつも先生自身の力を教えてくれたあの日みたいな分かりやすいカッコよさも、サラッとなんでもこなせる雰囲気もそこには無かった。ただ、俺たちの誰よりも先に捺さんに手を伸ばし、半ば強引ながらも五条先生は自分の胸元に収めてしまったのだ。加減なんてされていない少し痛みを感じそうな勢いで先生に激突した捺さんは降りかかってきた衝撃に一度震え、ゆっくりと顔を上げる。その間に自分の首元にまでアイマスクを引き下げた先生は真っ直ぐと彼女を見つめていた。久しぶりに見た先生の瞳は相変わらず眩しいくらいに輝いているけれど、それよりも先に俺は先生の確かな怒りを感じた。そう、捺さんへの、怒りだ。






「いつから?今朝?それとももっと前?」
「三日前くらい、かな……」
「…………自己管理不足。反省しろよ」
「……ごめん、ほんとに返す言葉もないよ」






……あの捺さんが五条先生に怒られている。それはあまりにも新鮮な光景だった。五条先生に何かを注意する捺さんの姿は何度か見てきたし、俺は先生と彼女の関係はてっきりそういうものなんだ、と思っていたけれど、実際は少し違うらしい。普段の先生は捺さんにスキンシップしたがるし、優しいし、なんていうかこう、恋人みたいな接し方をしている。先生との稽古の休憩中に「捺さんと付き合ってんの?」と聞いてみた事はあるが、先生は「未来ではね」と楽しそうに笑うばかりで真面目に取り合われた試しがない。冗談なのか本気なのか分からないなと俺はいつも首を捻っていたけれど、なんとなくその答えが今、分かった気がする。


五条先生は他にもいくつか捺さんに言葉を投げかけた。その度に先生の顔には明らかな揺らぎが見える。でも、不思議と怒られているはずの捺さんには先生の言葉が重なるたびにどこかホッとしたような雰囲気を感じるのだ。






「……後は僕が他に引き継ぐから今日は取り敢えず休みなよ、分かった?」
「うん、分かった。……ありがとう、五条くん」
「分かったならいい。……ハイ!切り替えて!ほら三人ともぼーっとしてないで僕と任務ツアー行くよ!」






パチンと手を叩いて俺たちを急かす先生の後ろで捺さんが困りつつも笑って頭を下げたのが分かった。先生に見つからないようにほんのりと会釈を返したつもりだったけど、まぁ当然の如くバレていて「捺に見惚れていいのは僕だけだよ悠仁」なんて調子良く宣言する先生はすっかり俺のよく知る先生の姿に戻っている。でも、俺達だけと居た時の謝りながらも無理をする捺さんよりも、先生の勢いに苦く、それでも笑う捺さんの方がずっと良いな、なんてことを思いながらゆっくりと並んで階段を下り始めた。







「おはよう、みんな」







ガラ、と今度はゆっくり落ち着いて開いたドア。その音に思考の海から引き戻され、一斉に向けた視線の先には思い出していた人物が穏やかに立っている。そしてやはり真っ先に立ち上がった伏黒は「大丈夫なんですか」と端的に彼女に問いかける。捺さんは頷いて、この通り元気だよ、と柔らかく笑いかける。確かに昨日よりずっと顔色も良く、声も弾んでいる。昨日の休みが上手く効いたみたいだった。そうですか、と安堵の息を零した伏黒はそっと退いている。どうやら納得したらしい。





「五条くんから聞いたよ、昨日もみんな頑張ったんだって?」
「そう!聞いてよ捺さん!!昨日の呪霊祓った瞬間ヘドロみたいなの撒き散らしてホント最悪だったんだから!」





釘崎の愚痴を頷きながら聞いている捺さんはすっかりいつもの捺さんだ。釘崎の足取りに着いていく彼女は俺と伏黒に「いこうか」とアイコンタクトを送り、ヒートアップする釘崎の隣を歩いていく。意図を察した俺たちは女性二人の後ろを一歩引いた位置から着いて歩いた。あの勢いの釘崎にも落ち着いて話を聞いて、共感出来る捺さんはやっぱり凄い人だと思う。





「……五条先生は昔、あんな不審者みたいなアイマスクは付けてなかった」
「へ?そうなん?」
「閑夜さんと出会った時も多分、そうだった筈だ」





だから何なのかは知らないが。と締め括られた伏黒の言葉に俺は昨日の先生と捺さんの様子を思い浮かべる。よく聞く軽い調子じゃなくて、真剣で、怒りと心配が入り混じった先生の声。何にも遮られていない真剣な視線。それを見て反省しつつも何処か安心したような捺さんの表情。……俺は、何となく先生の気持ちが分かる気がした。自分の感じたこととか、思ってること、言いたいこと、






「…………全部、伝わって欲しいもんな」
「は?」
「んー、何でもない!」





何だよそれ、と伏黒は怪訝な顔をしていたけれどすぐに興味を無くしたらしい。さっきよりも早足で捺さんの後ろを歩き出す。……俺も多分、先生の立場なら同じことをすると思う。それが大切な人なら尚更そうだ。俺の想いを全部知って欲しくて仕方ないと思う。先生頑張れ、の気持ちを込めて今はいない先生の代わりに俺は彼女のスーツ姿の小さな背中を見つめながら再び歩き出した。







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