「……これどうすんの?」
「すぐ戻るらしいけど……悟に見つかると厄介だね」
「厄介どころの話じゃないだろ」











欠伸を一つ零しつつ歩いた廊下の先。俺達の教室へと入る為の扉に手を掛けようとすると、中から見知った声が聞こえてくる。それだけなら普段と別に大差ないが、その会話に含まれる自身の名前に思わず指先が静止した。……俺に見つかると厄介?


一体何の話だ、と思わず耳を澄ましたが、それ以上の内容は長文になりがちで詳しくは聞き取れない。いっそ開けてしまえばいい話ではあるのだが、こういう時は無駄に隠密行動を取りたいロマンのようなものがあり、それ以上進むのが躊躇われる。とはいえこのままでは埒が開かないのも事実。小さく息を吐き出して、平常心、平常心、と心の中で繰り返した。







「おーっ、す…………」
「あ、やべ」
「悟!?君一体何時から……」
「……さとりゅ?」







迷った末吐き出した言葉の勢いが途中で殺される。机に肘をついて座る硝子、ギョッと目を見開いた傑……の、腕に抱かれた、子ども。柔らかな髪質と膨らんだ少し赤い頬。そこに静かに鎮座する瞳の色も、髪の色も、というか顔立ちの雰囲気も、明らかに今ここにいない"アイツ"を連想させた。それに気付いた瞬間俺の思考は完全に止まり、様々な可能性を導き出す。……捺にそっくりのガキが、傑に抱かれている。結びついた答えは一つだった。






「ッ?!傑!!テメェ何捺に手出してんだ!!!?」
「お前、絶対そう言うと思ったよ!!!」






飛び掛かるように噛み付いた俺と慌ててガキを硝子に押し付けた傑。荒れ始める教室の隅で少女を抱き上げた硝子が「男ってバカだよねぇ」と持ち前のタバコを吸わずにあやしていたのを俺は知らない。














「子供に戻る術式ィ!?」
「……そうだよ、冷静になれば六眼を持つ君なら分かるだろうけどね」









嫌味っぽく零された傑は頬についた埃を拭いながら機嫌悪そうに呟いた。すっかり荒れた教室の真ん中で床にどっしりと胡座をかいて座る傑はすっかり自称優等生、って感じがする。俺はというと、最悪だよ、話を聞けよ、とブツブツ何かを唸る彼を尻目にちょこんと硝子の隣の席に腰掛ける"彼女"を見つめた。……確かに、他の何者かの呪力が体全体を覆ってる。


傑曰く、二人で向かった任務で捕らえた呪詛師の持つ術式で、捕縛直後に不意を突かれ掛けられてしまったらしい。その後すぐに気を失わせたのでそれ以上の被害は出なかったが、捺はこうしてあえなく3歳児程度の姿になってしまったようだ。……記憶や思考力も年相応に落ち込んでいるので、なった、というより"戻った"の方が適切かもしれないが。


言われてみれば彼女の娘にしては大きすぎる。……いや、そんなこと俺は断じて認めないし、想像したくはない。在学中に出会った傑とどうにかなる……という展開には無理があるし、それどころかこの子供には俺が出会った今の捺の面影が残り過ぎているのだ。子供らしく可愛らしい印象の方が強くなっているけれど、紛れもなくそれは捺だった。





「……あんま、変わんねぇな」
「……変な気を起こさないでくれよ」
「起こさねぇよ!」





傑の疑いが込められた視線に文句を言いながら硝子に撫でられ続けている捺を見つめる。普段は宝石みたいな瞳は今では色鮮やかなキャンディのように見えた。別に子供は好きでも嫌いでもないけれど、身近に自分より年下のガキなんて居なかったし、どう接していいかイマイチよくわからない。精神まで退行しているらしいから相応の対応をしなきゃいけないんだろうけど少しもイメージが湧かなかった。高校生用の椅子で足をぶらぶらと揺らす彼女は物珍しそうに教室の中を見回している。同じタイミングで彼女の姿を目に入れた傑は、ふ、と口角を緩めて床に座り込んだまま捺の元へと近付いた。





「ここは私達の学校なんだ。何か面白いものでもあったかな?」
「木で、できてるの?」
「あぁ、少し古い建物だからね。ふしぎ?」
「ふしぎ……」





拙い口調で傑の言葉を繰り返す彼女は艶のある唇をほわほわと動かして、目に写る全てのものに興味を示しているように見えた。自分も同じくらいの時はこうだったのだろうか、と少し思い返してみたけれど答えは出ない。ただきっと、今の彼女のように純粋では無かったはずだ。それでもなんだか好奇の目が俺以外の何かに向くのが気に食わなくて、傑を軽く押し退けながらその場に蹲み込んだ。椅子に座る少女に見下ろされる経験は初めてで落ち着かないところもあるが背に腹は変えられない。下手に怖がられるのも面倒だった。





「……おい」
「さとりゅ、だ、」
「……んだよ、その呼び方」




思わず吐き捨てた言葉に小さな肩がびくん、と跳ね上がる。あぁクソ、調子狂うな。ガシガシと適当に流した髪をかき上げてもう一度彼女を見つめた。少し縮こまっていた筈の体はふ、と視線が交わったことでゆっくりとその硬さを無くしていく。何が起きたのかは分からなかったが、俺がその意味に気付くより先にビスケットみたいな大きさの掌が俺の髪のてっぺんに、そっと、触れた。





「……あ?」
「まっしろで、ゆきみたい……」
「雪ィ?んなもんじゃ……」
「すっごくきれい……!」





ぐっ、と胸の奥を掴まれる感覚。眩い瞳が俺を見て、離れない。辿々しい声で名前を呼ぶ少女は俺の目を、俺の髪を見て無邪気に笑った。それがなんだか擽ったくて、目を逸らせないほど美しいものに思えて、思わず言葉を失う。捺、とぼやいた彼女の名前が教室の空気に溶け込んだ。本来のアイツも似たようなことを言ってたっけ、なんて。するりと下げられた髪に腕を伸ばした。さっき彼女がしたことをそのまま返すみたいに伸ばした手はそのまま捺の頭に……は、伸びず、虚しく空を切った。


ひょい、と届かない位置にまで持ち上げられた彼女は頭を上げ、自分を脇から抱えた硝子の姿を見つめる。硝子はというと一度捺を見て軽く微笑んだ後、その下にいる俺に何とも言えない冷たい視線を送った。……これは、絶対、明らかに、誤解されている。慌てて弁明しようにも俺の言葉に取り付く島を与えない硝子は「さとりゅには近付かないようにしようねー」なんて言い出す始末。おい!と立ち上がった俺から遠ざけるように小さな捺を持っていく彼女を追いかけようとしたが、それを阻んだのはもう一人の刺客……傑だ。





「ッ何すんだテメェ!」
「そんな乱暴な言葉を使うやつを子供に合わせられないね」
「乱暴って……!こんくらいフツーだろ!」
「これが普通な訳ないだろ。……何よりあの姿の彼女に向けるにしては君の想いは少し"熱っぽ過ぎる"と思うよ」





熱っぽ過ぎる、と評価された自身に若干面食らいつつ、反射的にそんなことないと言い返してはみたものの、全く自覚が無いと言えない自分がそこに居た。別に変な意味ではないし、コイツらの想像とは違う感情の筈だ。それでも、確かにガキ一人に向けるにしては余計なものが篭っている自覚がある。……そりゃそうだ。どんな見た目になっても捺は捺で、俺の惹かれた女なのだからそれが覆る事はない。ガキの姿だから好きなのではない、ガキの姿でも好きなのだ。どんな姿でも彼女の面影を感じられれば、何より護り通したい物になる、それだけだった。






「そりゃあ君が捺の事が大好きなのは知っているけれど、あんな姿の子にそれはどうかと思うよ。捺と自分の間に子供が出来たことを想像するならまだしも……」
「……捺と俺に、子供…………!?」






そして、親友の何気ない呟きに雷に打たれたような衝撃を受けた俺に対して露骨に「失敗した」と言いたげな顔を浮かべた傑がいたのも、とっくに教室を出て彼女をあやしながら一人勝ちしている硝子がいたのも、それはまた別の話。







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