「夏油さん、次の学生任務の資料持ってきました」
「あぁ、ありがとう……余所余所しいのは少し寂しいけどね」






パチパチ。思わずそんな効果音が聞こえて来そうな瞬きをした私に、目の前に立つ彼は少し眉を下げて微笑んだ。夏油さん……もとい、私の元同級生である夏油くんは学生時代よりも伸びた髪を揺らしながら「二人の時くらい良いだろう?」と何処か拗ねた口調で唇を尖らせる。柔らかな日差しが差し込む昼下がり。私と彼の影が穏やかな調子で廊下に投影された。






「……でも、一応仕事中でしょ?」
「仕事って言ってもこんな身内で固めた職場だよ」
「そ、それはそうだけど……」
「それに今夜は久しぶりにゆっくり話せそうだし、ね?」






ウォーミングアップだよ、と下瞼を持ち上げて笑う彼は昔から変わらず案外頑固な人だと思う。確かに夏油くんの言う通り、高専はただでさえ少ない過去の卒業生を寄せ集め、職員に据えるような場所だ。新しい風や変革なんてもっての外で、あくまでも旧体制を敷き続ける息苦しさがある。……とはいえ、古くからの友人達とこうして顔を合わせる機会が多いのは有難くもあった。この世界で生きていく上で今日会った人物が明日にはこの世を去ることなんて珍しくはない。だからこそ"会える"というのは大きなアドバンテージでもあった。


スーツ姿の私から資料の束を受け取って軽くそれぞれのページを確認した彼は、うん、と一つ頷いて、確かに受け取ったよと応える。一瞬惚けつつ、慌てて首を振った私に夏油くんは喉の奥をコロコロと鳴らして可笑しそうに口元へと手を当てた。……揶揄ってる?と、つい眉を持ち上げると、彼はいやいや、と右手を顔の前で揺らしたけれど、なんとも信じ難い。





「ごめんって。……あぁ、そうだ、今日は悟も来れそうだって」
「五条くんも?」
「そう。"たまたま"夜には時間が取れそうだからって連絡が来たよ」
「……でも、今日まで単独任務で福岡まで行ってなかったっけ?」
「みたいだね。……でも、絶対来るよアイツは」







確信めいた台詞に私はゆっくりと首を傾げる。昔から実力があった五条くんは大人になっても忙しさは変わらない。それどころかもっと過密なスケジュールを押し付けられているのは言うまでもなかった。補助監督として事務作業をこなす中で他の術師とは違い、彼にだけは特別に勤務表を制作する仕事が用意されているのだけれども……連なる日本各地への遠征の文字を見て頭がくらくらするのが常だ。予定を組み立てている私達ですらこうなのだから、それをこなしている彼はもっと辛いに違いない。一日休みどころか半休にすら満たない休憩を挟みながら動き続ける五条くんは他の術師とは一線を画していた。……それが良いことだとは到底思えないけれど。




だから勿論、そんな彼の予定を夏油くんが知らない筈は無い。にも関わらず彼はやっぱり自信たっぷりに笑うのだ。五条くんは今日の夜"必ず"来る、と。未だ明るい空に何となく視線を向けたけれど雲一つ浮かんでいない。……二ヶ月に一度開催される私達の世代の会合。それぞれが重要なポジションに落ち着いた今、集まりが悪い時も当たり前に存在するというのに、それでもやっぱり夏油くんは笑顔を崩さなかった。賭けてもいいよ、と窓枠に体を預けた彼を暫く見つめてからゆっくりと首を横に振る。……俄には信じ難いけれど、こういう時の親友の勘は当たるのがお約束だと、長い付き合いで流石に私も分かっていた。






「つれないなぁ」
「だって当たりそうだもん。……それに、私も久しぶりに五条くんに会いたい」






パチパチ。そうやって次に瞬いたのは夏油くんの方だった。顎に手を当てて、ふむ、と思案しながら「……それ、悟本人にも言ってあげてよ」と呟く姿は面倒くさそうで、それでいて何処か楽しげにも見えた。彼が何を言いたいのかはよく分からないけれど、別にそれくらいなら私にも出来る。一拍置いてから肯定した私に夏油くんは今夜が楽しみだね、と澄み渡った青空を背景に子供みたいな笑みを零した。


 








「じゃあ、久しぶりの再会を祝して……乾杯!」






普段聞かないような明るい声色。一瞬隣の夏油くんとアイコンタクトしつつも自然とグラスを持ち上げた腕がカラン、と氷を揺らした。三つ分の乾いた音が店内に響いて、一口だけアルコールを含んだ私達と対照的に数秒の間形の良い唇をグラスの淵に当て続けた硝子のジョッキがドン、と机に勢いよく置かれる。一瞬で無くなった並々入っていた筈の液体にもはや感心する私と、至極当然のように手をあげてバイトの男の子におかわりを注文する彼女の姿。……あぁ、何だか居心地が良い。






「で?結局アイツ、来てないじゃないか」
「そうだね、少し読みが外れたかも」






怪訝そうな硝子の視線に軽く腕を上げて降参のポーズを取った夏油くんは曖昧な笑顔を張り付ける。それが本気で思っていない時の反応だと分かりきっている彼女はふぅん、とつれない返事をしつつ筆ペンで書かれた解読が難しいメニューから少しも目を離さなかった。私も流石に長年の経験から夏油くんがこうする時は大抵"とりあえず場を収めたい時"だと知っている。ならば、今この場にいない真っ白な彼は本当に来る、という事だろうか。……頭の中にギッチリと詰まった予定表が浮かんでは消え、小さく息を吐き出す。やっぱり、無茶があった。






「五条くんは……」
「……俺になんか用?」






不意に掛けられた低い声に肩が震える。導かれるように顔を上げ、見上げたその場所にある整った顔立ちに反射的に息が詰まった。白に愛された男の子、宇宙に溶けた男の子。私が初めて彼に出会った時も今も、その印象は変わらない。少しだけ大人びた表情に「五条、くん」と落ちた声は、彼に届いていたのだろうか。サングラス越しの青が一瞬夏油くんの方を見て、彼の隣が硝子で埋められていると分かると、五条くんは静かに私の隣に腰掛ける。同じ高さの椅子に座っても尚、自然と首を伸ばしてしまう程の身長差には今でも驚かされる。彼は、大きな人だ。






「遅かったじゃないか悟」
「俺が時間通りに来ないのは知ってるだろ」
「それを堂々と言うあたりアンタも変わんないよね」






耳に馴染む会話のテンポと幾度と無く聞いてきた声色。仕切られた少し狭いくらいの居酒屋のスペースには私達の十年が詰められている気がした。以前先輩に言われてタバコをやめた筈なのに殆ど無意識に自分の前に灰皿を置いた硝子も、近くにあったおしぼりを全員に手渡す夏油くんも、一番にポテトフライを頼む五条くんも、全部が全部懐かしかった。そうして物思いに耽り、漂っている柔らかな空気を肌で感じて思わず目を細めていた私の前に、突然、ずい、と視界を遮る何かが押し出される。それがラミネートされたメニューだと気付くのに時間は掛からなかったが「捺は、どうすんの」と控えめに呼ばれた名前にキュ、と心臓の奥が苦しくなったのが分かった。





「えっ、と、」
「……ポテトサラダ?チーズ乗ったつくね?」
「あ、うん……どっちも好きだけど、」
「……ならついでに」






別に、五条くんと会うのが久しいという訳ではない。一般的に二週間程度を久しぶりだと表現しないのであれば尚更そうだ。補助監督に転向したことで術師との関わりは増えたし、五条くんとの仕事だって学生時代の最後の方よりは多いと思う。同級生だからなのか、大抵予定表を作って渡すのは補助監督の中でも私の役目として割り振られているし、その時に言葉を交わすのも珍しい事ではない。……なのに、どうしてこうも不思議な緊張感が肌をくすぐるのだろうか。


一瞬交差した視線はすぐに逸らされ、前に座る夏油くんへと向けられる。いつもみたいな軽口を叩きつつ、今日まで向かっていた任務の愚痴を零す彼は普段となんら変わらなく見えた。……女の子が手入れに命を注いでやっと手に入れるような肌を自然と持ち得る彼はずるい。無駄なく整った横顔のラインが、根本から毛先まで白く丸まった睫毛が、丸く大きな瞳が、どれも美しかった。


そうして私が盗み見ている間にもそれぞれが頼んだ料理が順にテーブルへと運ばれていく。居酒屋特有の少し小さめな座席に隙間なく埋められた出来立ての料理からは湯気が上り、一つを除いたアルコール飲料が泡を浮かばせていた。五条くんが頼んでくれた私の好きなポテトサラダとチーズつくねも目の前へとやってきて、グルグルと動いたお腹にそういえば、とお昼ご飯を食べ損ねていたことを思い出す。あの時は食べる時間すら惜しかったんだ。





「美味しそうだね……!今日お昼食べ損ねちゃったから余計にそう見える……」
「お前、昼食ってねぇの」
「あ、うん。今日の仕事ちょっと立て込んでて……」





ふぅん、と一言。それからすぐに自分が頼んだポテトフライを乗った皿を私の前に少しだけ押し出した彼は視線を逸らす。思わず目を丸くしてお皿と彼を交互に見つめたけれど、五条くんは変わらずこちらを向かなかった。私達の前に座る夏油くんと硝子はふーん?と楽しそうに笑っているし、なんだか私だけが疎外されているような気分になる。今の彼の行為は"私にポテトを分けてくれている“ということで良いのだろうか?ある種の優しさというか、気遣いというか、今ぐらいは食べろという促しに近いのかもしれない。


恐る恐る箸で摘んだ一本を口に入れ、弾けるような油の風味に、あ、と声を零す。揚げたてのポテトはジャンキーと呼ぶのに相応しい料理だけど、やっぱり美味しい。自然と二口、三口と進む指先と満たされ始める胃袋の感覚。じんわりと溢れる幸福感に笑顔が落ちた。硝子行きつけなだけあって文句のつけどころがないくらい美味しい。流れるようにつくねにも手を伸ばし、濃厚なチーズに舌鼓を打つ。たっぷりの肉汁が弾けて蕩ける味わいはダイエットには向かないけれど、疲れた体には染み渡るようだった。





「…………」
「……良い顔して食べるな、捺」
「悟も私達のことなんてお構い無しだもんね」
「まぁ実際、五条の目当ては飯じゃなくて"こっち"だろ」
「ご明察。今も露骨に捺の方見てるしね」






お皿に夢中になっていた私の耳に不意に飛び込んできた「私を見ている」という言葉に自分の右側へと目を向ける。白い茂みに囲まれた宝石みたいな宝石みたいな瞳は確かに此方を見つめている。そこにある感情は読み取れないけれど、あまりにも静かなそれは堂々と食べ出した私に引いてしまっているのだろうか?と錯覚してしまう。というか、五条くんは少しも料理にもメロンソーダにも口を付けていない。失礼なことをしてしまった?気分を害した?嫌な想像ばかりが掻き立てられた。





「ご、ごめんなさい五条くん、あの、」
「……あ?」
「え、と、」
「……!や、違、今のはッ……」





低くて響きの良い一文字に情けなく肩が揺れた次の瞬間、あー!と彼の声を掻き消すように硝子が五条くんを指さして、夏油くんも露骨に悲しそうな表情を浮かべると「捺にメンチ切ってるヤツがいるんだけど」「酷い男だよまったく」なんて口々に言い出し始める。ハァ!?と立ち上がった彼に追撃するような言葉の数々に寧ろ私の方が冷や汗をかいた気がする。その間にも運ばれてくる料理と店員さんが恐ろしそうに去っていく背中に申し訳なさを感じつつ、騒がしい夜は学生時代を色濃く遺しながら更けていった。







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