「いや、だって私今日は仕事で……」
「聞いたよ。僕の代わりに生徒の引率を頼まれたんだって?」






あっけらかん、とした調子で答えた彼に戸惑いつつも首を縦に振る。どうやら夜蛾先生から大抵の概要は聞いていたらしい。なら理由は分かるだろう、とそんな気持ちを込めた目を向けたけれど、五条くんは全く納得していないらしい。明らかに不満たっぷりな様子で私を見下ろすアイマスク越しの瞳が容易に想像出来た。こうしている間にも私……というより彼に向けられる視線は増し、ちくちくと肌に刺さっていく。五条くんはもう慣れてしまっているのかもしれないけれど、私にはこんな経験殆どないのでどうしても萎縮してしまった。今も相変わらず彼は自分の主張を引く気はないしぶつぶつと何かを呟いている。






「……大体なんで恵と回ってんの?しかも何あの指輪……絶対アイツわざとでしょ」
「ええと、五条くん……ここ、道の真ん中で目立つから……」
「……捺か浴衣着るって約束してくれるなら端に行く」
「なんで!?」





さりげなく通路から避けるように促してみたけれど、五条くんは引く気が無いらしい。私が今すぐ叶えるのが難しいであろうお願いを了承しなければずっとこのままだ。お金に持ち合わせがないだとか、今から開いている店を見つけるのは大変だとか、それらしい理由を並べてみても五条くんは全く納得してくれない。それどころか「金なら僕が出す」「祭りだから来る途中に開いてる店があったよ」など適当な躱し方に徹底して対応してくるのだから、私はもはや関心の念さえ覚えていた。しかし、こういった問答の終わりは突然やってくるもので、





「でも、五条くんも着てないのに私だけなんて……」
「……じゃあ僕が着たら着てくれるんだ?」
「……え!?」





口が滑ったと気付いたときにはもう遅い。ニヤリと口角を持ち上げた彼にがっちりと手を掴まれてしまった私はそのまま引き摺られるように鳥居を潜り、祭りが行われていた神社を後にする。ツンと逆立った髪を揺らしながら私の前を歩く五条くんの背中は何処か楽しそうにも見えた。きっと今からなら花火には間に合うよ、と弾んだ声に"花火のこと知ってたんだ"と、私はぼんやりと思った。






五条くんが御三家の人間だと、たまに忘れてしまうときがある。それは私が彼とたまたま同い年で、たまたま同学年だったからが一番の理由なのだけれども、それを差し置いても彼のフランクさにはいつも驚かされる。昔多少キツイところも多かったけれど、最近はめっきり鳴りを潜めている。生徒達にも態度を変えることなく、フラットに接する彼の姿は正に今時の教師、と言えるけれど、実際の五条悟という人間はそこに居るだけで全ての価値を逆転させてしまうような爆発力を秘めている。……小難しいことを並べてみたけれど、私はただ、彼が浴衣を着ている姿を見ただけなんだけど。


五条くん本人が持つ清廉さや美しさを引き立てる真っ黒な浴衣。白金色の帯。それを慣れた手付きで自分の身体に巻いていく彼は昔から和服を嗜む家庭に生まれたことをありありと示していた。対する私は父の事もあり和装とは縁遠い生活をしてきた。何かの催しで身に纏うときは当然のように店へ着付けをお願いしてきた人生だ。自分で着るなんてそんな高度な事出来るはずが無い。それが一般的に当たり前だと思ってはいるけれど、こうして五条くんを見ると情けない人間のような錯覚に陥ってしまうのだ。






「出来ました……よくお似合いですね」





何も知らない店主は鏡に映った私の姿を見て淡い微笑みを浮かべる。彼と並んで見劣りしないように出来るだけ品のある小紫の布地に白や金で花が描かれた物を選んでみたけれど、一応それなりに自分には似合っている、と信じたい。彼はきっとこの後も私と祭りを歩くつもりだろう。……これは自惚れではない。この日までの経験が私にそう告げていた。


既に私より先に浴衣を着終わっていた彼は入り口で私の着付けの終わりを待っている。少しの緊張の孕みつつ、慣れない下駄をカラコロと打ち鳴らす。ふ、と開けた視界の奥に、五条くんが立っていた。白い髪を自然と流しながら目元に深い闇色のサングラスを付けた彼は、ふ、と視線を持ち上げる。いつもは見えない筈のサングラスの奥の白い睫毛が小さく震えた、気がした。






「……捺、」
「……ど、どうかな……」






明らかに固い声色。これじゃ緊張が伝わってしまう、と溜まった唾を飲み込んだけれど、彼はそんなこと気にせずに一歩、また一歩と私の前に足を進める。じっと射抜くような瞳が居心地悪くて視線を逸らしてしまったけれど、それでも五条くんは私から目を逸らさない。背中に汗が流れた。何だろう、この空気感。


ふ、と小さく彼は息を吐き出す。それからもう一度捺、と私を呼ぶ。差し伸べられた手は大きくて、節がある。五条くんの意図を探るように首を持ち上げて見上げたけれど、何だか少しだけ彼の表情がいつもより固い気がした。珍しい顔だ、と思った時にはもう、私はごく当たり前のように彼の掌の上に自分の掌を重ねていた。指先が触れ合って、夏に照らされて熱い体温が伝わる。五条くんは少しだけ唇を結び直して、ぎゅ、と確かめるように私の手を握り込んだ。それからキチンと頭を下げて押しかけてしまった店主に礼を言うと、そのまま自動扉をくぐり抜ける。途端に風のない蒸し暑い夜に襲われて、はぁ、と吐息が漏れた。私の手を優しく握りながら腕を引く彼の足取りはここに来た時より随分ゆっくりで、花火の前に彼が屋台を巡る時間が無くなってしまいそうだ。






「……いいの?」
「……いい。もっと僕だけがその姿見てられる時間が欲しい」






少し苦くて、でも、甘い素直な言葉。素直な響きにドクン、と心臓が跳ね上がる。瞬間的に顔に熱が上ったのを隠すように少しだけ俯いて、それに反応するように五条くんの手から伝わってくる力が強まったのが分かった。似合い過ぎるのも問題だよな、と誰にという訳でなく呟いた声に嘘はない。……ずるい。何で彼はこんなにも、と、その先に当てはまる言葉を探したけれど上手く思いつかなくて閉口する。ただ私に出来るのは、ずるい、の三文字を頭の中でぐるぐると回すことだけだった。










……結局、私たちが神社に戻った時にはもう、花火はすでに初めの数発を打ち上げてしまったところだった。五条くんはキョロキョロと辺りを見渡してから比較的に人が少ない箇所にまで私を誘導する。ここにくるまで何度も躓きそうになった私を気遣うような穏やかな足取りには彼の優しさが滲み出ている。彼は一度もそんな事なかったのが何よりの証拠だ。



数分歩いた先に見えてきたのは屋台が少なく、複数のまばらなカップルが空を見上げている広場だった。ここでいいかな、と満足そうに頷いた彼の頭上に鈍い音を立てて大きな青白い花火が打ち上がる。まるでそれは五条くん自身を表しているみたいで何だか少し、息を飲み込んでしまった。五条くんは冬の空気にも、夏の花火でもなんでも似合ってしまう。むしろ世界が彼に合わせているような気さえもしてしまう。不思議な人なのだ。そんな人が今、私と過ごすためだけに時間を割いてここにいる、それが尚更不思議だった。



ドン、ドン、と不規則に打ち上がる花火と、その瞬間だけ夜が晴れ、光が灯る光景はなんだか懐かしさを感じさせる。こうやって打ち上げ花火を見たのなんて何年振りだろう。仕事をしていると花火を見るために休みを取るなんて事しなくなり、いつしかこの景色を、色を、匂いを、音を、忘れる。私の隣に立ちながらじっと真剣に空を見つめていた彼は煩わしそうにサングラスを外すと帯の端に引っ掛ける。現れた長いセパレートと吸い込まれそうな瞳に呼吸が少しだけ遅くなった。花火を背景に佇む彼は、美しい。






「……よく漫画でさ、」
「……ぁ、うん?」
「花火の瞬間に何か言って、結局何を言ったか聞こえない……って展開、あるよね」







不意に呟かれた彼の言葉を理解するのに少し時間がかかった。何となく想像のついた映像を脳裏に映し出し、それを肯定するように頷くと五条くんは悪戯っ子みたいに口角を持ち上げて「本当なのかな」と笑った。彼の笑顔の後ろで、ヒュー……と花火を打ち上げた時特有の"あの"音が聞こえ始める。光の尾が線を描き、空の高い位置で一瞬収束する。もしかして五条くんはタイミングが分かっていたのだろうか?そんなことを勘繰ってしまうくらいに、狙い済ませたような開花。弾けた火花が連鎖して、辺り一面を真っ赤に染め上げる。五条くんの綺麗な唇がハク、ハク、と動いた。同時に遅れて来た地響きが辺りを支配して、私の鼓膜を震わせる。聞こえ、ない。彼の声が、五回に分けて動かされた音が、聞こえない。





「……っ、いま、なんて、」
「……キスしたい、って言った」





一瞬、五条くんは何故か驚いた顔をした。でも直ぐに楽しそうに口と瞼を緩めながらニヤニヤとそんな事を告げた彼に私は思わず面食らう。かあっと外気温以外の要因で上った熱にくらりと頭が揺らいで、それを支えるように五条くんの腕が軽く腰に回された。綺麗な顔が少し傾いてからゆっくり私に近付いて、反射的にギュッと強く目を閉じた"その上"に柔らかいものが触れる。跳ね上がった心臓を押さえた私が微かに睫毛を震わせながら目を開くと、そんな反応をあまりに愛しそうな瞳で見下ろす彼と視線が交わった。未だ花火は続いていて、彼の頬の縁は青、赤、黄、と様々な色に染められる。今度はさっきよりも近い距離で五条くんは口を動かした。






「あ、───……」





さっきと同じ動き方をした薄い唇。その一文字目が"あ"から始まることが分かって、はた、と気付く。彼はさっき言った言葉は「キスしたい」だと主張していた。でも、先程も、今も、彼の口は少なくとも"あ"という母音を刻む所から始まっていた筈だ。記憶の中を必死に辿ってほんのりと大袈裟に動かされていた彼を真似るように私もそっと唇を開ける。多分あれは、






「……あ、い、い、え、う」
「……!!いま、」






五条くんの目が一際大きく開かれて、私の声は花火に掻き消される。青を閉じ込めた瞳がゆらりと左右に揺れて、それから直ぐに溜息が紡がれる。……僕を弄ぶのやめてよ、とほんのちょっとだけ弱々しい声と共に正面から掛けられた体重で視界が彼の浴衣だけに染まった。五条くんはきっと私が真似をしただけだ、ということに気付いたらしい。それと同時に私もまた彼が本当に伝えた言葉が何だったのかに気付いて頭の奥がジン、と熱く響い他のを感じた。衝動的に弄ぼうとしたのはどっちだ、と反論したい気持ちが湧き上がったけれど、これが紛れもない彼の本心だと知ってしまっている私は彼の浴衣の中でおとなしく収まり、それを受け入れる以外何もできない。



……あいいえう。それを告げた彼の気持ちと、悪戯っぽく誤魔化した、彼の気持ち。全ては汲み取れなくてどうにも歯痒い。それでも、私はこうして花火の中五条くんに抱きしめられる道を選んでいる。これだけ近い距離ならばきっと彼の声も、呼吸の一つも全てが伝わってしまうだろう、と、知りつつもこれ以上何も言わなかった五条くんは狡い人だし、こんな形でその言葉を引き出そうとする私もきっと大抵ずるい人間だ。






「……また、見たいなぁ」
「……今度は屋台を回る時から浴衣だからね?」






すっかり星だけを投影することに専念し始めた夜空には、私達の体温と、次への約束と、火薬の匂いだけが残される。来年の夏は花火の音に負けないくらいの感情を彼と共有できているような、そんな気がした。








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