「お疲れ様でした!」








爽やかで優しい青年の声。軽くなった髪に指を通して少しの引っ掛かりも感じないことに思わず笑顔が溢れた。それに彼もまた釣られたように笑って閑夜さんの髪は徹底してケアすると映えますね、と鏡を片手に目を細めている。そう、私は今、行きつけの美容室を訪れていた。






東京に来てから以前より通っていた京都の店舗を卒業し、自分に合った店が無いかと暫く探し歩いて見つけた木目調の優しいお店。カウンセリングが丁寧で、私の担当についてくれたスタイリストの彼はカットが上手く、会話の波長が合い、私が新たに此処を"行きつけ"に決めてもう三回目になるだろうか?居心地が良く必要以上の無理なコミュニケーションに至らない空気感がとても気に入っていた。補助監督として忙しない日々を生きている以上、生活習慣の狂いや自分へのケアを怠る事もしばしば有るけれど、それを踏まえて彼は私に合った髪型を提案してくれる。特に朝の纏まりやすさやベタつきの軽減には本当に本当に助けられている。彼には感謝の気持ちしかない。……勿論、この仕事の概要については話していない。だけど苦労は汲んでくれているらしい。いつもお疲れ様です、とヘッドスパや軽いマッサージまでサービスしてくれて、最早文句の一つも見つからないぐらいだ。






「閑夜さん今日もこれから仕事ですか?」
「そうなんです、一旦職場に戻ろうかと」
「……なら、少しでも気持ちが上がるように軽く"巻いときます"ね!」
「え?でも仕事に行くだけなんでそこまでしなくても……」






思わず振り向いた私に相変わらずの眩しい笑顔で前を向くよう促した彼は既に温まったコテを片手に、高専の事務室に置いてあるのとそう変わらない滑車付きの丸椅子に腰掛ける。そのまま慣れた手つきで毛束を持ち上げてはくるり、と巻き付けては流し、巻きつけては流し、を繰り返す動作を鏡越しにぼんやりと眺めた。正直私はもう態々髪を巻いて出勤するような甲斐性がある年齢でも無いのだけれども、こうやって楽しそうに仕事をする年下のプロの姿を見ると、つい、止められなくなる。私より若い駆け出しの美容師である彼を見ていると、ある種生徒達と似たような気持ちを抱いてしまうのだ。「閑夜さん綺麗なんで絶対似合います!」なんて都合の良い太鼓判を押しつつ真剣な顔で整えていく彼には妥協の文字は見えない。……まぁ、たまには良いかな。そんな気持ちで受け入れてしまう辺りに自分らしさを感じてほんのりと苦笑する。嫌というわけでは無いけれど、何となく、こう、気恥ずかしかった。








「ありがとうございました〜!!」







……そして、全てが終わった私は一人の車内でため息を零す。ミラーに映るのは普段とはガラリと雰囲気が変わった自分の姿。たとえ巻いたとしても軽く内巻きにして纏まりやすいシルエットを作っていただけの私とは違い、細かく、自然にパーマが掛かった遊び心のある毛先に若々しさを感じてなんだか「身の丈に合っていない」気がしてならないのだ。彼が悪い訳ではない、寧ろ物珍しい自分を見るのは楽しいし、髪型自体はふわふわしていてとても可愛らしいと思う。でも、やはりどうしても知り合いからの目が気になって中々車のドアを開ける気になれずにいた。これが野薔薇ちゃんや真希ちゃんなら手放しに可愛いと私は彼女らを持て囃しただろうけど、それが自分となると話は変わってくる。とっくに高専には到着していた。後はここから出て行って補助監督用のデスクに戻るだけなんだけれど……その一歩が中々踏み出せない。



刻一刻と時間は迫る。いっそなんでも無い顔をして廊下を闊歩すれば案外気付かれないのでは無いか?いや、そうに違いない。そんな馬鹿らしい自己暗示に頼りつつ、深呼吸をする。分かっていた、このままこうしていても埒が開かない。この時間なら皆、送迎に出回っている可能性もある。意外と誰にも会わずに目的地まで到達出来るかもしれない。そんな淡い希望を抱きつつ、仕事用の鞄を助手席から持ち上げて、意を決した私は外に飛び出した。大丈夫、きっと誰にも会わない、大丈夫……







「あれ、捺……だよね?」






大丈夫、じゃない!!



思わずそんな声をあげてしまいそうになったのをグッと堪えた。けれどそれが意味を成さない事はこの声の主の正体を知っていれば明白だ。どうしよう、どうすれば、ワタワタと辺りを見渡したけれど逃げられそうな場所はない。そもそも彼から逃げられるとも思っていないけれど少しでも距離を置きたいと考えるのは自然だと思う。そうこうしている間にも細長い体を乗り出すように私の顔を覗き込んだ彼……五条くんは、ぽかん、と間が抜けたように口を大きく開いて静止した。







「……ご、ごじょう、くん、これには訳が、」
「…………ハ?」






たった一文字。それだけで私は気圧された。数年前の彼を思わせる数トーン低い音に肩が震えて、グイッと一思いに抜き取られたアイマスクの奥から美しい青が顔を覗かせる。信じられない、とでも言いたそうな表情でマジマジと私の顔を至近距離から見つめる彼に嫌な汗が流れるのを感じた。何を言われるのか、どんな反応をされるのか、漠然とした不安が背中にのし掛かり、少しだけ息がしづらい。……不意に彼の指先が私の毛先を掬い上げた。緩やかにカーブした束を爪に巻きつけて、するり、とあっけなく解けるのを無表情で眺めた彼の顔は整いすぎていて恐ろしくもある。普段が豊かであるからこそ、彼に何も言われないコトが不思議な緊張感に繋がった。唇が割れてしまうのではないか、そう錯覚するほどに渇いて仕方がない。





「……これ、パーマ?」
「い、いや、その、巻いてもらっただけ、で……」
「…………他にこの姿を見たヤツは?」






ブンブンと必死に首を横に振る。軽率に見せられる姿じゃないことなんて自覚していた。そこまで見届けた彼は途端に深く、それはもう深く息を吐き出して流れるような自然な動作で私の体を抱き締めたのだ。感じた圧迫感と清涼感のある香りが肺を膨らませてすぐに思考が停止する。ぁ、と口の端から零れた声が弱々しいのを知ってか知らずか「……可愛すぎるでしょ、それ」と吐き出された彼の声が一層響いて聞こえた。どくん、と大きく心臓が跳ね上がる。厚い胸元から抜け出すように顔を持ち上げた私を眉を顰めた五条くんが見下ろしていた。なんで、そんな顔を?……そんな私の疑問を感じ取ったのか、五条くんは続けた。






「ふわッふわでさ、何……?いつも綺麗なのに可愛いまでモノにするつもり?」
「っ、そ、そんなこと……!」
「あるよ。そのまま仕事行く気?生徒達まで射止めるの?」






めちゃくちゃ妬けるんだけど。矢継ぎ早に紡がれる彼の言葉に理解が追いつかない。パーマじゃなくてよかった、ずっとそんなに可愛くいられたら敵が増える、とか、今すぐ隠してやりたい、とか、ぽんぽんと湧き出す台詞にグルグルと脳みそが掻き回されていく。褒められている、やっと"そう"咀嚼した時にはもう、顔が熱くなるのを止められなかった。ぁ、あの、その、と、しどろもどろな私を見て大きな瞳を褒めた彼は「……その顔も、狡い」一言そう呟いてからもう一度強く私を抱き締めた。そのフワフワ取れるまでこうしてちゃダメ?なんて無茶な願いな筈なのに、それを否定しきれない私は曖昧な返事で誤魔化そうとしてみたけれど、勿論彼にはお見通しみたいだ。








「……離したくないし、離れたくない」
「でも、仕事、が、」
「ホントは後ろ姿も見せたくない僕にそれ言う?」








捺、と私を呼ぶ声が熱くて背筋が震える。ずるいと評した彼の方が随分ずるい人だと思うのが私だけではないと信じたい。持ち前の大きな体で覆うように私を捕らえ続けた彼の妨害により無事に私の髪のうねりは解け、見事に任務の送迎に遅刻したのはきっと、言うまでもないだろう。学生時代みたいにコッテリと夜蛾先生に絞られた彼は唇を尖らせながら「捺が可愛すぎるのが悪いんだって」と弁明したけれど、その瞬間、思い切り頭の上に拳骨を落とされて畳の上で悶えることになった。







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