「もう、いい」






ぱしゃり、と冷水を浴びせられたような感覚。……まあ、浴びせられたのは正確には私ではなく、彼なんだけれども。青い目をこれでもかと言うほどに丸くした悟は「……は?」と何秒かしてからやっと声を発した。思わず私は隣に座る硝子に目を向けたが、彼女も私と似たような表情をしていた。そう、"やっちまったな、アイツ"……そんな顔。そうしている間にもグッと噛み締めた唇と、それに伴って力の入った掌を握り込みながら教室を出ていった捺を見送った私達三人は、中途半端に開いたままの扉をただ見つめることしか出来なかった。




「私、追いかける?」




はじめに声を発したのは硝子だった。それに噛みつくみたいに「俺が!」と声を上げた悟の腕を思い切り掴んで、お願いするよ、と彼女に頼むと一つ頷いてからこっちはヨロシク、と珍しい小走りで硝子は捺を追いかけるために教室から出ていった。それを歯痒そうに見つめた悟はすぐに私を見下ろすと「離せよ」と人でも殺しそうな顔で睨み付けたが、うん、やっぱり今の彼に彼女を追わせなくて良かった。どうせまともな話なんて出来やしないだろう。まぁ、落ち着けよ、とほぼ無理やり彼を座らせてから開いていたドアを隙間なく閉めて、私も彼の前に座る。この隙に窓からでも逃げ出さないところを見ると、少しは悟も自覚があるらしい。



「で、どうするの?」
「…………何が」
「捺を追いかけて、追いついて、どうするつもりだったんだって聞いてるんだけど」



お前が傷付けたのに、と敢えてはぐらかさずにはっきりと言葉にしてやれば、悟は罰悪そうに眉を潜めて視線を床に落とした。小さな声で、……さぁ、と少し拗ねたように呟く姿は非常に弱々しい。悟は頭の回転が遅い訳じゃない、むしろ優秀な男だ。そんな彼はだからこそと言うべきなのか非常にプライドも高かった。大半の人間は人を怒らせたときにする行動は謝る一択だと思うけれど、コイツの場合更に怒らせる、もしくは更に傷付けかねない未来が目に見えている。平たく言えば素直じゃないのだ。悟は特に捺に対して小学生男子のようなマインドで接することが多かった。要するに馬鹿、という話だけど、それを本人に言うとキレられかねないからやめておく。おかしな話だ、彼が捺を好いていることなんて分かりきってるのに、悟は彼女に対してあまりに不器用過ぎた。


「なんでさっき捺にあんなこと言ったんだ?」
「……アイツ、いつも自信ねぇから」


むかつく、と平仮名みたいな発音で告げられたその言葉はきっと少しだけ曲がっているんだろう。悟はこう見えて彼女の強さを私達の中で一番認めている、と、私は思っている。きっと彼はそれを中々認めないだろうけど、彼女が自分を卑下するような発言をする度に複雑そうに顔を歪めるのを見たのは一回や二回では無かった。とはいえ「どうすれば五条くんみたいになれるのか」と珍しく聞いてきた彼女に「お前じゃ無理だ」とつらつら言葉を重ねて、挙げ句の果てに「変わる気が無いなら聞いても無駄」とまで吐き捨てるのはまぁ、普通に最低な人間だと思う。私の素直な感想を悟に伝えれば悟は、ぐい、と視線を逸らしたが、それを見て私は言い過ぎている自覚も、上手く言えていない自覚も、両方持ち得ているようで少し安心した。そこまで考え無しというわけではなさそうだ。



「でも好きなんだろ、捺のこと」
「…………」
「ほら、付き合ったら何したい?」
「……キス、」



彼は好きだ、とは答えなかった。でも、付き合いたいという願望は少なからずあるらしく、気恥ずかしそうな口調で紡がれた回答にこちらがむず痒くなった。男の私から見ても悟は顔は言わずもがな身長も高くて声も悪くない。所謂「モテそう」な外見だし、実際任務に出ても何かと女性に言い寄られている事も多い。それを高校生らしからぬ慣れっぷりで躱したり、好みのタイプなら多少色を付けたりと器用にやっているのにどうしてそれを同級生の女子には発揮できないのか本当に不思議だ。捺は硝子みたいに淡白なタイプではないし、少し褒めるだけでも嬉しそうに笑う愛嬌もある。きっと、悟が素直に彼女を認めたり良く言うだけでも喜ぶだろうに、彼はそうしなかった。できなかった、の方が正しいかもしれないが。

そう考えると尚のこと不思議に思い、捺のこと、可愛いと思うだろ?と問いかけると、彼は不意に青い目を私に向けて「お前は?」と質問してきた。思ってもみない返しに一度瞬きをしてから素直に「可愛いと思うよ」と返すと少し目尻が上がって、ふうん、と興味なさげに呟いていたが、全くもって悟は私からその瞳を逸らそうとはしなかった。刺すように伝わってくる敵意。それはどこまでも嫉妬に似た色をしていて……嗚呼、なんて面倒なんだ、この男。




「告白すれば良いのに」




思わず深いため息混じりに何の気無しにボヤいてしまった私から悟はやっと目を逸らした。ぐっと背中を伸ばすように後ろに反って空を見上げる。今日は、この空気にそぐわないほどの晴天だった。





「フられるだろ、絶対」





落ち着いた声だった。まるで未来が見えているかのような妙に静かなトーンは予想外のもので、一瞬、なんて答えれば良いか分からなかった。こんなボロクソに言ってくる男、嫌だろ。と続けられた言葉は最もだと思うが、そこまで分析出来ているなら嘘でも優しくしてやれよと我ながら酷い事を考える。これをそのまま伝えるのは流石に気が引けて「もう少し優しくしてやれよ」と若干込められた意味合いを丸めると、悟は透き通った瞳に青空と少しの雲を映しながらゆっくりと口を開いた。





「そしたら、アイツ、ずっとあのままじゃん」





駄目だろ、それは。と、独り言とも思えるような口調で落とされたそれは、胸の奥に溜められた最後の空気を吐き出すような呟きだった。2人だけの教室を揺らしたその言葉には、確かな愛が感じられた。……そうか、と目を伏せた私は、もうこれ以上気の利いたことが浮かぶ気がしなくなっていた。悟のそれは、確かに彼女に向けられた愛だと深く気付かれされてしまって、それに返す物を自分は持ち合わせていない。不器用なヤツ、と頭の中で嫌味を込めた称号で呼びながら、頑張れよ、と応援してやれば「……おう」と彼は小さく頷いた。





×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -