「お疲れ様、伊地知くん」
ことん。夜に似つかわしくない爽やかな声と、この時間にぴったりなブラックの缶コーヒー。顔を上げずとも相手が誰なのかは分かったが、そうするようにプログラムされたかのように私は首を持ち上げていた。ありがとうございます、と返した私に閑夜さんは慣れたような顔で「いいえ?」と笑い返した。
滑車付きの椅子を引っ張ってきて、私に渡した物よりマイルドな色合いのパッケージのプルタブを持ち上げた彼女は軽く缶を傾けて、私の目の前に差し出した。その仕草が意図を理解するのに数秒ほど時間が掛かったが、分かったら分かったで乾杯するには待たせ過ぎていたことに対し、慌てて私の手の中にある円柱を彼女の円柱とぶつけた。鈍い音が響いて、空き口が閑夜さんの口に移動していくのを確認してから私も彼女に倣って喉の奥にカフェインを流し込む。ツンと鼻に刺さる苦味に深く息を吐き出して、それを見ていた彼女が小さく笑った。
「気、使わなくていいのに」
「あ、すみません……つい癖で」
伊地知くんらしいけどね。とフォローするように付け加えた彼女はグッと大きく伸びをする。唇を震わせて噛み殺してはいるものの、欠伸が少しだけ零れていた。それもその筈、時刻はもう午前0時を回り、もう直ぐ1時に到達しようとしていた。残業……ではなく、これは私たち補助監督にとっての当直のようなものだ。通常はそれなりに経験を積んだ一人が毎晩泊まり込みで緊急時の対応や、場合によってはそれ以外の任務の応答も行なっている。というか、案外後者の仕事も多いのが現状だ。呪術師はその特性上、夜に行動することが少なくない。呪いが活発だったり、人目に付きづらかったり、色々な理由が存在するが、どちらにせよ必要な業務なのだ。
私も彼女も、実はお互いに一人で当直が出来るくらいの経験がある。だから滅多にこうして夜を明かすことはないのだが、今日はいかんせん任務に出ている術師が多かった。複数の依頼をこなすのは中々大変だし、緊急時手薄になるのも困る。当直経験の薄いまだ若い補助監督を付けるのもきっと相手に負担が掛かるし単純なマンパワーとしても少しだけ心許ない。どうしたものか、と悩んでいた時に帰り支度をしていた閑夜さんが声を掛けてくれたのだ。浮かない顔しているね、と眉を持ち上げた彼女はかつて同じ学舎に居た時の"先輩“らしい顔つきをしていた。
正直な話、展開は読めていた。私がそんな話をしたら彼女はきっと、自分が残る、と言い出すのは目に見えていた。ただでさえ閑夜さんは日々主に学生関連の任務に真面目に当たってくれている。そんな彼女にもっと頼ってしまうのは如何なものか、と葛藤した。あまりに彼女を酷使してしまうと五条さんに何か言われ兼ねないし……なんて。そんな事を考えていたのはお見通しだったらしい。たまには頼ってよ、そう言って目を細めた彼女はいたずらっぽく「私の後輩なんだから」と笑う。そんな茶目っ気に負けてしまい、……宜しくお願いします、と頭を下げたのは私に閑夜さんは安心したように息を吐き出した。その反応をするのは普通私な気がするけれど、きっとこういうところが彼女が好かれる理由の一つなのだろう。
「ほら、補助監督としては伊地知くんの方が先輩だしね」
「け、経験年数の差ですよ……!特別何か教えられることもありませんし……」
「そんなことないよ、伊地知くんからはいつも学ばせてもらってるもの」
たん、とエンターキーを押した彼女が伊地知さんと呼んだ方がいいかも、と戯けたように肩を竦める。少し気恥ずかしさやくすぐったさを感じたけれど、褒められるのは嫌な気がしない。ありがとうございます、と伝えた素直な言葉に閑夜さんは本心だからねと念押しするように呟いていた。綺麗なバランスで整った彼女の横顔をぼんやりと見つめる度、少しだけ五条さんを羨ましく感じる時がある。綺麗で愛嬌もあり優しい女性、そんな人と良い関係を築けるのはきっと幸運な出来事だろう。私なんかが偉そうに言うべきことでは無いかもしれないが、彼はとても見る目がある。五条さんほどのスペックなら絶世の美女を射止めるのもわけないかもしれないが、それでも閑夜さんを選び……多少やり方が過激だとしても、彼女を振り向かせようと努力する姿には、個人的には少しだけ理解出来た。これを新田さんあたりに伝えるときっと痛烈に批判されるのだろうけど、どんな手段を使ってでも閑夜さんと特別な関係になろうとする貪欲さはそれなりに評価したい。
「あ、日付超えてるしパソコン再起動しとくね……保存は?」
「あぁ……すみません、ありがとうございます」
してますよ、と伝えた私に頷いてから改めてもう一度保存しなおした彼女はメニュー画面を開き、慣れた手つきで再起動をクリックする。青い画面で染まったディスプレイが一旦消灯し、また晴れた日みたいな青に戻る。ログイン画面に現れた日付と時間帯をぼんやりと眺めて、ある事に気づき、思わず、あ、と声が漏れた。私に顔を向けた閑夜さんが「ん?」と首を傾げる。言うべきか言わないべきか一瞬迷い、まぁ隠すことでもないか、と少し気恥ずかしく思いながら口を開く。
「その、誕生日だなぁ、と思って」
「……へ?誰の?」
「わ、私の……」
「えぇ!?」
驚愕の声を上げた彼女が目を丸くして椅子から立ち上がる。パソコンの画面と私を交互に見つめて、そうだったの!?と詰め寄る彼女に恥ずかしながら……と曖昧に笑った。閑夜さんは相当なショックを受けたのか、慌てて近くに置いていたバッグからスケジュール帳を取り出すと指で日付をなぞり、今日4月20日の枠内に"伊地知くん"という文字列と可愛らしいケーキのイラストを添えていた。マメですね、と思わず呟いた私に、そうかな?と翌月を確認してから手帳をしまった彼女だったが、すぐに申し訳なさそうな顔で両手を合わせた。
「ごめん伊地知くん!私全然知らなくて……今度何か渡すから今日はコーヒーだけでもいい……?」
「え!?い、いえ、そんな……お気遣いなく……!」
これだけで十分だと手を振って伝えたが、閑夜さんは聞くつもりが無いらしい。ダメだよちゃんと祝わないと!と意気込み、ジリジリ詰め寄ってきた。私もそれなりに閑夜さんとの付き合いはある。こういう時の彼女が中々止まらないことは分かっていた。何か欲しいものある?と尋ねてきた顔が信念な色を帯びている。欲しいもの、と繰り返すように呟いたが、これが結構難しい。子供の頃は欲しい物なんてありふれていた筈なのに、大人というのはどうしても浮かぶ願いが夢のないものばかりなのだろうか。休みが欲しいとか、せめて半休がいい、とか。夢がない答えばかりが並んでいく。なんとも言えぬ寂しさを感じつつ、そうですね、と顎に手を当てた。私が欲しいもの、一体何があるだろう。
「……その、」
「うん?」
「…………久しぶりに、寿司が、食べたい……とか?」
現実的かつ、豪華なライン。それをイメージして伝えた自分の願望に閑夜さんは瞼を見開いてから、にっこり、と嬉しそうな表情で「分かった、いいお店探しておくね」と快く了承した。蛍光灯の下で交わした、真夜中の約束。子供の時にも体験したことのない、なんだか少し甘美な響き。これはこれで、割といい思い出かもしれないなぁ、なんて。彼女につられるように私の頬が緩んだ。閑夜さんはまだ残ったカフェラテの缶を持ち上げて、もう一度を望むみたいに悪戯っぽく笑う。ふ、と口先に笑みを零してそれに倣うように私もコーヒーを持ち上げた。
「伊地知くんの誕生日に、乾杯!」
「……乾杯」
お互いに軽くなったせいか、さっきよりも小気味良い音が2人だけしかいない部屋の中に響く。ごくごくと喉仏を上下させ、流し込んだ深みに同時に感嘆の息が落ちた。顔を見合わせてニヤニヤと口角を持ち上げる。……いいリフレッシュになった。そんな気分で私達はまたパソコンへと向き合い直す。綺麗で気立のいい女性の隣で迎えるなんて、ここ数年で一番の誕生日かもしれない。そんなことを言ったら五条さんに何をされるか分からないので下手に口には出来ないが、これでも私は幸せだった。
……尚、彼女とのちょっとしたデート気分で迎えた高級寿司屋の予約日には当然だと言わんばかりの顔で閑夜さんの隣に真っ白な彼が座っていて、それを視界に入れた瞬間に胃痛が起こったのも、結局店を見つけてくれたのも奢ってくれたのも五条さんだったと知り、なんだか感動してしまうのも、もう少し先の話になる。