「あ、七海くん!」
「……閑夜さん?」
きっと俺なんかが纏っても服に着られてしまうであろうスーツに、黄色のネクタイ。こんな奇抜で個性的な服装を何でもないような涼しい顔で着こなしてしまう七海さんはずるい。なんでもデンマークとのクォーターらしくて、持ち前の高身長や柔らかな印象を与えるクリームに近いライトゴールドの髪はこうして遠巻きに見ているだけでも綺麗に映った。そんな彼にパッと表情を明るくしてから駆けていく華奢な背中は補助監督として直属の先輩に当たる閑夜さんのものだ。小慣れた様子で俺達のトレードマークでもあるシンプルな黒いスーツと赤いネクタイを揺らして近付く姿は小さな子供の無邪気さに近いものがある。あぁ、可愛いなぁ。しみじみと首を縦に振って2人のやり取りを俺はこっそりと見守った。
「高専まで来るの久しぶりだよね、何か任務のこと?」
「ええ、少し確認したいことがあって……次の担当の方はいらっしゃいますか?」
「今は多分他の任務に当たってる、かな……?私で良かったら付き合うけど」
「いいんですか?」
「勿論!」
可愛い後輩の頼みだからね、と茶目っ気たっぷりに笑う彼女は空いていた車輪付きの椅子を近くから二つ引っ張ってくると、一つを七海さんに渡し、もう一つを自分の物として腰掛けた。さっきまでの穏やかな雰囲気を潜め、真剣な顔でモニターへと目を向けた彼女はすっかり仕事モードに入っているのが見て取れる。閑夜さんは優秀な補助監督だ。彼に確認を取りながら次々に必要であろう情報を引っ張り出し、資料として提示すると、七海さんに確認を取るより先に紙の媒体としてプリントアウトを始める。彼もまたその行為を享受して、ありがとうございます、と素直な感謝を述べていた。七海さんは切れ長の目で綴られた文や写真に目を通し、幾つか質問を投げ掛け、彼女はその都度的確な答えを返していく。七海さんはそれを頷きながら聞き入れ、胸ポケットから取り出した品のあるボールペンで複数の単語を印刷した資料に追記していた。そんな貴重な閑夜さんの仕事風景を如何にか覗き、スキルを盗もうとしている俺を含めた他の補助監督は中途半端に椅子から腰をあげたり、伸びをするフリをして視線を向けたりとなんとも滑稽な絵面だ。反対側に座る俺の同期がこっそりメモを取っているのが見えたが、気持ちは本当によくわかる。閑夜さんの自然体かつ、相手の術師に合わせた情報提供やコミュニケーションの技術は何度見ても惚れ惚れしてしまうのだ。
「他は大丈夫?」
「そうですね……ええ、恐らく問題は無いかと」
「良かった。ごめんね、私担当じゃないのにでしゃばっちゃって」
「いえ、早めに資料を請求したのは私なので。担当の方にも其方の不手際ではない事をお伝えして頂けますか?」
「分かった、ちゃんと伝えとくね」
先程まで一番奥で食い入るように画面に向かっていた伊地知さんが目元を押さえたのが見えた。わかる、わかるよ、伊地知さん。そんな気持ちで俺も、ほかの職員それぞれも自分の得た感情を昇華しようと胸元に触れたり、口を押さえたり……はたまた天を仰いだりしながら深く息を吐き出した。ああ、なんなんだこの二人は。なんて気持ちのいい人達なんだろう。皆も考える事は同じらしく、数人が感嘆の声を漏らしていた。七海さんは気も使ってくれる理想的な仕事相手だし、閑夜さんは人当たりが良く非常に仕事が丁寧だ。最近入学してきた一年生の釘崎さんが「最近あの俳優が推しなのよねぇ」と話していたけれど、もしかするとこれが"推し"という感情なのだろうか?七海さんも、閑夜さんも、もちろん二人の雰囲気も、どれもこれもが"推せ"てしまう。熟年夫婦のように穏やかで分かり合っているのに、実際は閑夜さんの方が年上なのがまた何とも表現し難い魅力を孕んでいた。
「…………五条さんは居ないんですね」
「三日前から遠くの任務に出てるね、もし話したいことがあれば私が……」
「いえ、結構です」
バッサリ、と切り捨てるような容赦のない口振りに閑夜さんが不思議そうに首を傾けた。それを聞き、隣に座って事務作業を行っていた先輩の肩が小さく揺れ、伊地知さんは背筋を伸ばし、俺もまた同じようにマウスを握っていた指が小さく震えたのを自覚した。補助監督である俺たちが"五条悟"を示す言葉に過敏になってしまうのは最早刷り込みに近い気がする。別に、彼自身が悪い人だと言いたい訳ではない、が、何せ対応が難しいのだ。飄々としていて、掴みどころのない、それでいて実力がずば抜けている彼。情報共有どころか普通の会話ですら無茶振りの嵐で新人にはまず任せられない呪術師。少し前までは伊地知さんが専属になるぐらいの勢いで関わってくれていたけれど、今では俺たちには彼女がいる。……そう、閑夜さんだ。
なんでも彼女は五条さんや家入さんの元同級生らしい。五条さんは彼女によく懐いていて、何かと閑夜さんの近くに行きたがったり、彼女との任務なら快く了承してくれる事も多い。確かに彼が請け負う任務は単純なものではなく、捻りの効いた内容や単純に強い呪霊、もしくは遠方で長期滞在が必要なもの……など多岐に渡る。それに嫌気が刺す気持ちは重々承知しているのだが、それでも私たち補助監督の仕事は「呪術師が任務を遂行するのをサポートすること」なのだ。あくまで上からの命令を聞き、時には人員をこちらで割り当て、円滑に任務が終えられるように支えるのが一番の仕事とも言える。その為にも閑夜さんの存在はとにかく、大きい。
今回の任務もそうだ。閑夜さんは他の術師との兼ね合いで着いてはいけなかったみたいだけど、以前廊下で彼と「帰ってきたら流行りのカフェに行く」ことを約束していたのを見かけたし、それまではやる気なさげだった五条さんが水を得た魚のように機嫌良く大股で歩いていたのはまだ記憶に新しい。こういう所は分かりやすいのに……と思い出して小さく息を吐き出した俺の肩にポン、と何かが置かれた。一瞬であらゆる方向からの視線が俺の背中へと突き刺さる。急に室温が一度低下したような、そんな嫌な予感がした。
「……君さ。アレ、どう思う?」
ひゅ、と息を飲み込んだ。視界の端で揺れるのは七海さんのものとは正反対の、眩しいくらいの白髪。普段の調子とは違う、鍵盤の左の方を押した時の声。背中に冷や汗が伝った。まさかあの任務をこんなに早く?丁度彼を思い出していた時に?グルグルとあり得ない、という文字が頭を回ったけれど相手はあの、五条悟だ。あり得ないなんて言葉が通用する人間だとは思えない。彼の問いかけは「彼等をどう思うか」で、正直なんて答えても角が立ちそうな気がしてならない。どうする?俺はどうすればいい?気分は崖の端に追いやられた草食動物だ。同じ人間のはずなのに、俺とは圧倒的に違う存在、どうしても彼からはそんな空気を感じてしまう。
「……あれ?五条くん!?」
「…………ハァ」
ふと、驚いた声と同時に彼の名前が呼ばれた。目を丸くしている彼女と隣に立つ彼の至極呆れたような顔。その声につい数秒前まで下がりきっていた口角がぐいっと持ち上がるのを見た。アイマスクを勢いよくずり下げて、そこから現れた長い睫毛に象られた光を反射した宝石みたいな青に男の俺でもつい、見惚れてしまう。何色と表現するのが正しいのかすら分からない、この世の青という青を煮詰めたような瞳は眩しく輝いている。昔何処かで"青い目"は光に弱いと聞いた事がある。詳しくは覚えていないけれど、あの時俺は何故人間はそれでも青い目の遺伝子を残してしまうのか、と穿った見方をしていた。でも、今その理由の一端が、なんとなく分かったような気がした。青はただ、人の目を惹き、美しいのだ。
「捺〜!本当もう会いたかったよ!!あ、あと七海も一応ね」
「取ってつけたような言い方やめて貰えますか」
楽しげでテンポの良いやり取り。肩の力が抜けた俺に同僚達がよく頑張ったと言わんばかりの目を向けていた。いや、ほんとに、自分を褒めてやりたい。閑夜さんの腰に腕を回して笑う五条さんはいつになく楽しそうだ。きっと、冗談ではなく本当に彼女とずっと居たいんだと思う。それを引き剥がす俺達は彼の天敵、なのかもしれない。それでも彼は別に新人に厳しく当たることもなく、それどころかフレンドリーに接してはくれるあたり、恐ろしい人では無いのかもしれない。確かに距離の詰め方には驚かされることも多いが……きっと悪意はないんだと思う。ワイワイと騒ぎながら部屋を出て行った三人を見送り、補助監督は一斉に安堵に肩を落とす。良かった、と口々に言い合って励まし合ったが、直後「私五条さんと閑夜さんのやり取りも好きだなぁ」と言い始めた一人に新田が「閑夜さんはウチのアイドルっすよ!」と言い返したことで派閥争いが起こったあたり、まぁ、結局割と平和なのかもしれない、と、俺は一口コーヒーを啜った。
「先輩は誰派っすか!?」
「ん?俺は七海さんと閑夜さんかな…………」
「来ました第三勢力!!!」