※存在しない記憶?平和にこの日が迎えられた設定
「捺さんは先生になんか嘘つかないの?」
車内で楽しそうにしていた3人をミラー越しに眺めていた私は、不意に野薔薇ちゃんから提案された事柄にへ?と思わず高い声で聞き返してしまった。状況が分かっていない私に虎杖くんが「ほらエイプリルフールじゃん!」と分かりやすく説明してくれたことで、やっと私は今日がもう4月だったことに気付いた。勿論スケジュール把握の為に確認はしているけれど、その日がどんな日なのかを意識するのはつい抜けがちだ。そんな行事もあったねぇ、とのんびり返事したけれど興味を惹かれた彼と彼女は私を解放する気はないらしい。
「先生絶対びっくりするよな!」
「するわね、絶対する。賭けてもいい……!」
「……閑夜さん、あんまりまともに取り合わなくていいですよ」
気遣うような呆れたような声で真ん中の伏黒くんが呟く。そんな彼に非難が殺到し散々な目にあっているのに少し笑いつつフロントガラスの奥の赤信号にブレーキを踏んだ。それにしてもエイプリルフールかぁ……ぼんやりと彼の顔を思い浮かべたけれど、五条くんが嘘に振り回されるイメージが湧かなくて確かに少しだけ気になりはするかなあ、なんて。でも彼が引っ掛かりそうな嘘なんて浮かばないし、面白い案も出てこない。私は根本的にエイプリルフールに馴染めないだろうか、そう感じてしまった自分への確実な衰えに少しだけ虚しくなった。私もやっぱり若くない。
「……私、五条くんのこときらい、です」
突拍子もない私の言葉にアイマスクの奥で五条くんが瞬きをした気がする。結局、私が選んだ嘘はあまりにも幼稚なものだった。色々考えはしたけれど、難解なもので彼を混乱させるのも良くないし、かと言ってしょうもないものを出してもきっと向こうも反応に困るだろう。だから反対の言葉がわかりやすい"それ"にしたんだけれども……私が彼に嘘を吐いた経験が無く、ひどく不格好になってしまった。お茶を濁すかの如く、不必要に敬語まで付けてしまったし、正直最早見るに堪えない。ちらり、と無意識に下げていた視線を持ち上げると彼は口元を緩めて、ふぅん?と何処か楽しそうに笑った。
「それ、僕はありがと、って事でいいのかな?」
「……えっ、と、」
「にしても捺も中々やるねぇ……」
僕の想いを知ってるのに。そこに込められた嫌味な響きにぎくりと肩を揺らす。彼は勿論私のこれが嘘だということも、エイプリルフールの冗談だということも理解している。理解した上で、私に問いかけている。そう思えば私の吐いた嘘は彼の思いを酷く踏みにじってしまっているのではないか、と、気付いた時にはもう遅い。申し訳なさと情けなさに泣きそうになりながら謝ろうとした私に五条くんはしーっ、と唇の前に人差し指を立て「そうして欲しいわけじゃない」とその行為を制する。その顔は決して怒っているわけでも、辛く悲しそうなものでも無い。安心させるような穏やかさに包まれていて、そんな気にしないでいいから、と寧ろあっけらかんとしている程だ。
「だってさっきの嘘なんでしょ、なら寧ろ嬉しいんだけど」
「でも、あんな嘘選んだ私が……!」
「僕が良いって言ってるんだからいいの。過度な責任は負わない、分かった?」
はいここまで、と切り上げてしまう彼は私が思うよりずっと大人だった。そうまでされたらもう何も言えなくて、はい……とシュンと肩を落とした私は自分の軽率な行為を何度も反省する。やっぱりこの歳で気軽に行事に乗るのは無理があったのかもしれない。落ち込む私の顔を五条くんは体を屈めて覗きこみ、うーん、と考えるように顎に手を当てる。そして、何か思いついたようにポンと手を打ち、ねぇ捺、と私に呼び掛けた。
「僕に"好き"って言ってよ」
「……それは、……"嫌い"って言えってこと?」
「違う違う!今日はそれが嫌いって意味になるんなら"好き"って言っても問題ないってことでしょ?」
だからお願い、と、頼み込んでくる彼に動揺する私は口をモゴモゴと動かして彼の願いを聞くべきかどうか悩んだ。でも、いつの間にかアイマスクを下ろしていた彼の真っ直ぐな瞳に負けて、ぽつり、と独り言でも呟くように「……すき、」とその2文字を声に出して落としていた。五条くんはそれを噛み締めるようにキュッと唇をつぐんでから、もっと、と強請る。
「す、き、」
「……うん」
「すき、すき、」
「うん、うん……」
今日に限って、嫌い、という意味を孕んでいる筈なのに五条くんは私のすきを優しく、穏やかに受け入れる。私が口にする度に真剣に頷いて、次第に少しずつ笑顔になっていく表情に胸がとくとくと少しずつ忙しなく動き始めた。静かな高専の一角でそっと彼に手を握られてじんわりとした熱が伝わってくる。五条くん、と呼んだ自分の声はあまりに情けない響きで、どうにも恥ずかしくなってしまった。
「なに?」
「……すき」
「……俺も、好きだよ」
こつり、と額を合わせて彼は言う。それは、と何方の意味なのか尋ねようとしたけれど、間近にある彼の目を見ればそんな疑問は霧のように掻き消えていく。改めてそんなことを聞くのは不粋だと、素直な色を宿した瞳がそう言っていた。実際私は知っている、彼が私に向ける想いの名前を。繋がっていた手が一瞬解けて、すぐにするりと指を絡めるようにしてまた溶接される。五条くんの熱い吐息が肌に触れて、びく、と背中が震えた。少しだけ首を持ち上げて交わった視線を合図にするように彼はかぷり、と私の唇に容赦なく噛みついた。前置きはない、突然の行為に足が覚束なくなるのを近くの壁に背を押し付けるようにして支えた五条くんは、はっ、と息継ぎするように顔を離してからすぐに「ごめん、」と謝罪する。申し訳無さそうな、それでいてまだ何か燻るような物を秘めた顔に形容し難い感覚が押し上がってくるのを感じた。いつの間にか私の腰に回していた腕を解こうとする彼を衝動に追われるがままにぎゅっと抱き返すと、五条くんが小さく息を飲んだのが分かった。……暫くの沈黙、そして、深い溜息。その主は私ではなく、彼の方だった。
「……そういうこと、しちゃダメ」
「……だめ?」
「だーめ、僕に我慢して欲しいなら尚更ね」
「…………」
……我慢しなくていいよ、と、一瞬喉の奥から出そうになった言葉をそっと引っ込める。なんでこんなことを考えてしまったのかは分からない。でも、五条くんの寂しそうな顔を見ると私はどうしても放っておけなくなってしまうのだ。すきだよ、ともう一度、最後に告げた言葉に彼は「……それは、どっち?」と私がさっき聞きたかった言葉を口にする。好きな方で捉えて、と逃げの道を選んだ自分がずるい事は分かっている。きっと彼もそう思っているのだろう。五条くんはまた深い深い息を吐き出して、私の背中を引き寄せるように強く抱きしめた。
「…………そんなの、都合良く、考えるけど」
「……それでも、いいよ」
その返事に……お前それどこで覚えたの?と不満そうに口を尖らせた彼は少し硬い髪を容赦なく私の肌に押し当ててぐりぐりと甘えるみたいに擦り寄った。私も五条くんも、実はあんまり嘘は得意じゃないのかもしれない。でも、その方がお互い分かりやすくて良いのかもしれないなぁ、だとか。エイプリルフールに不向きな私たちは他の誰かが来るまでずっと、2人で熱を分け合い続けた。