過去拍手B
はぁ、はぁ、と生暖かい息が首筋に触れる。その度にビリビリと言葉に出来ない感覚が駆け抜けるのを感じて体が震える。見下ろすように囲まれ、覆い被さり、逃げ場を無くす二つの青い瞳は静かに私を見ている。逃げようと捩った体を引き戻すように彼の腕がガッチリと腰を掴み拘束する。彼から感じる圧倒的なオーラに許しを請うように名前を呼んだが、それが届いているかは定かではない。
不意に彼の腕が腰から腹を伝い、鎖骨をなぞり、首を介して頬に触れる。ゆっくりと近付く整い過ぎて恐ろしいくらいの顔に息が詰まった。待って、と声を上げるには遅過ぎたと理解した時にはもう、柔らかな唇が私の唇を包み込んだ後だった。それに呼応するように動いた足でシーツが擦れるような音がして、やっとここがベッドの上だと知る。五条くんは私を食べてしまうかのように触れたままの口を動かし、ふと距離を取ったかと思えばまたそこへと噛み付く。キスされている、と情報がやっと脳に届いて反射的に彼の胸元に手を置き引き剥がそうとしたけれどお世辞にも力が入らずにするり、と滑り落ちそうになる。
「捺……」
だめだ、このままじゃ、ダメだ。危険信号が鳴り始めたのを感じながら塞がれた口から抵抗の声を漏らしたけれど、彼はすっ、と目を細めただけで私を解放する気配はまるでない。なんでこんな、と訴えようと軽く胸板を叩いたが、五条くんはさらに深く貪るように咥え込んでしまう。意識せずとも鼻から抜けるような甘い声が落ちて頭が混乱し始めた。とろり、とろり、少しずつ確実に彼という熱に溶かされている。ちろ、と一瞬、ぬるりとした感覚が唇に走り、びくん、と体が跳ね上がる。それに気を良くしたように食んだ五条くんは私の吐息すらも飲み込んでしまうのだ。私の両手首を片手だけで押さえてしまう彼の物理的な私との差異にクラクラする。逃げようにも逃げられず、逃すつもりもない五条くんの口付けのたびに聞こえる獣らしい声に腹部の奥底が握られている気がする。ぐ、ぐ、と空気入れを押すみたいに性が刺激され、彼という存在に呑まれていく。息が荒い、心臓が煩い、熱い、きもち、いい、きもちいい……彼の胸元で小さく震えていた指先がきゅ、とシャツを掴んだ。まるで甘えるみたいに、それを受け入れてしまうみたいに縋り付く。そして、彼は捺、ともう一度私の名前を……
ピピピ、ピピピ、と鳴り響いたのは無機質なアラーム。目を開けたそこに見えたのは青ではなく、ただの白い天井。若干呆然としてしまったけれど、もう既に外は明るくなっていた。もしかして、夢?と、思い当たった答えにどっと疲れが込み上げた。朝からなんて夢だ……深いため息を溢してしばらく寝転がりつつ、ふと、唇に触れる。朝特有の少しカサついたそれには当たり前だけど、あの感覚は残されていない。
「……五条くん……」
無意識に落ちた名前にはっ、と慌てて口を塞いだ。今私はなんてことを、と込み上げてきた恥ずかしさを振り払うように立ち上がり洗面台へと向かう。あれはただの夢だ。そう言い聞かせながら真面目な顔をして出勤したけれど、爽やかに笑っておはよう!と声を掛けてくる目隠しの彼に物凄く動揺してしまいその日一日まともに話すどころか顔を合わせることすらも出来なかった私に「……僕、捺に嫌われたかもしんない」「今更だろ」と話している五条くんと硝子がいたのは、また別のお話だ。
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足元に寄せる波が靴先に触れないように退いた。細かい砂を坂から転がした時のような音を立てて海が動き、光に照らされた水面がキラキラと輝いて見えた。冷たい潮風に防寒具を着込んでいても微かに震える体を押さえつつ、沈んで行く夕陽が私達をオレンジ色に包み、飲み込んでいく。冬の海は乾燥した空気のせいか、いつにも増して美しい気がする。任務の終わりにたまたま五条くんが見つけた場所だけど、見れて良かった、と不思議な満足感が胸の中を支配した。
私の数歩先には、私と同じように目を細めて水平線のその奥を見つめる夏油くんが立っている。なんとなく、彼の隣にまで近付いて、綺麗だねと声を掛けると、彼は海から目を離さずに私の声だけを聞いて「……そうだね」と静かに肯定した。高い位置にある夏油くんの顔を見上げて彼の穏やかな表情に私も何だか釣られるように口元を緩めてしまう。そんな視線に気付いたらしい彼はそこでやっと随分下に位置している私の顔と目を合わせて、ん?と口角を緩めてどうしたのか、と尋ねるような顔を浮かべる。何でもないよ、と笑い返した私に夏油くんもまたなんだよ、と可笑しそうに喉を鳴らした。
「はい撮影完了〜」
突然聞こえた声に揃って振り向くと、硝子が携帯を構えて何やらニヤニヤと楽しそうに笑っていた。撮られていたことに気づいた私達は思わず顔を見合わせて、交差した瞳にぷっ、と吹き出して笑う。そして各々で携帯を取り出してトライアングルを描くように其々を写し始めた。カシャカシャと響くチープな音さえもこの場を盛り上げているみたいで何だかくすぐったい。そんな異様な光景に、何言ってんだよ、と呆れたように五条くんが問いかけたけど、その瞬間に今度は私達3人で一斉に彼を被写体にして携帯のムービーや写真を撮影し続けた。明らかに嫌そうな顔をして逃げていく足の速い彼を追いかけて、笑い合って、砂を散らしたいつかの冬は私にとって凄くいい思い出だ。
「……閑夜さん、先程から何を見ているんですか?」
「あ……ごめんね、ちょっと懐かしくて……」
「随分……古い映像ですね。学生時代のものですか」
「そう、七海くんが映った写真とかもあるよ?」
「見せなくていいです、やめて下さい」
待機中の車内で時間を潰せないかとカメラロールを遡り、ふと見つけた映像を食い入るように見つめていた私に声をかけてきた七海くんは首を横に振って拒否を示す。それは残念だなぁと笑いながらゆっくりスクロールして、数えきれないくらい残されている過去の形跡にほんの少しだけ切ない気分にさせられた。このデータをスマホに移すの大変だったなぁ、と必死に手順を検索していた当時を思い出して、余裕のなかったあの頃が随分昔に思えた。……七海くんのような術師を安全に送り届け、サポートするのを生き甲斐に私は頑張っている。今も私は、ここでちゃんと生きている。今日も頑張ろう、と気合を入れ直し、運転席の隣にスマホを立てかけた。アクセルをゆっくりと踏んで車を発進させる私のミラーに映った顔は何処か晴れやかだった。