!存在しない記憶 平和にこの日が迎えられた設定
「虎杖くん、このあと時間ある?」
珍しい俺1人での任務を終えて迎えにきてくれた捺さんの言葉に思わずきょとん、と瞬きをする。もしかして他の生徒の迎えとか術師の送迎とかもやるのかな。捺さんは大変だなぁ、なんて考えながらハイ!と出来る限り明るく、気を遣わせないように答えるとミラーに映った彼女が嬉しそうに目を細めたのが分かった。良かった、と安心したように息を吐いた捺さんは続けて俺にこう問いかける。
「今、欲しいものとかあるかな?」
「え?」
他の店とは違う、独特のラバーの匂いが立ち込める店内で椅子に座りぐいっとつま先を押し込んだ。いつも履いているサイズだけどこれはちょっと力がいるような……それを見ていた捺さんは近くの棚の前で蹲み込み、こっちは?と先ほどより0.5センチほど大きめだと証明するシールが貼られた箱を手渡してくれた。あざっす、と軽く感謝を口にしながら蓋を開け、白い包みを丁寧に外し、中の厚紙をそっと取り出す。ピカピカで、汚れのない赤い靴。それを見た彼女はどこか嬉しそうに笑って「似合うね」と喉を鳴らした。
「そうかな?」
「うん、虎杖くんっぽい」
「へへ、なら嬉しいな」
……そう、俺たちは今、靴屋に来ている。大型のショッピングモールの中に入ったそこで捺さんはニコニコと微笑ましそうな顔をして何足もの靴を試す俺を見ていた。さっき車の中で突然彼女に欲しいものを聞かれてうーん、と頭を悩ませて出てきたのは"新しい靴"だったのだ。最近呪霊と戦うことが増えて、蹴りなんかを使ったり色々な場所を駆け抜けると靴底が擦り減ったり、そもそも靴自体が壊れてしまったりと散々な目に遭うことが多かった。釘崎や伏黒にいい加減に新しいものを買えと言われていたけれど、祓うだけだし、と自分に言い聞かせてどうにか我慢していた。別に金が無いってわけじゃないけど結構気に入ってたし、何より態々買いに行くのも億劫で先延ばしにしていたのだ。
なんとなく、軽い気持ちでそう伝えると靴かあ、と復唱した彼女は少し考えてからコンビニに入り、ぐるりと器用に方向転換してから逆の筋へと車を乗せて走り出す。頭上に無数のはてなを浮かべた俺に捺さんは楽しそうな顔であっちにしようか、と俺を誘う。あっちって、と窓から見たその先には有名なショッピングセンターが構えていて、思わず大きく目を開いた。こんな漠然とした願いに何だか申し訳ない気がして、別にいいよ!と断ったけれどそれを聞くつもりはないらしい。いいからいいから、と機嫌よさそうな姿は少しだけ五条先生に似ている気がした。
「……でも、何で急に?」
トントン、と床に先を打ち付けながら捺さんを見た俺に今度は彼女がぱちり、と瞬きする。大きな瞳がこちらを見てから可笑しそうに口元を押さえると、明日は何の日?と突拍子もない問いを投げかける。明日?今日は3月19日で明日は……と、そこまで思案してから、もしかして、に辿り着く。そのもしかして、を抱えて改めて顔を向けた俺に捺さんは言った。
「誕生日、でしょ?」
「そ、そうです……けど、何で知って……」
「野薔薇ちゃんに聞いたの。1年生みんなの誕生日」
「ってことはこれって」
誕生日プレゼント、とにっこり笑顔を見せた捺さんにやっぱり!?と飛び上がる。まさかとは思ったけど本当に俺へのプレゼントだったなんて……慌てて今履いている靴の値段を確認したけれど本当にそこそこいい値段が付けられていてヒュッと息を呑み込んだ。そんなこと知らずに俺は好き勝手選んでたんだけど!?遠慮しないやつみたいになってないこれ!?と慌てる肩にぽん、と小さな手が乗せられる。俺の動揺を見抜いている彼女はそんな遠慮しないの、と眉を持ち上げた。で、でも、と値札と捺さんの顔を交互に見る俺は側から見るとさぞ滑稽だったに違いない。それでも身を引かない圧に負けて、結局俺は今履いている赤いシューズを丁寧に箱へと戻し、ペコリと頭を下げながらお願いします……と手渡したのだった。
「……捺さんってそういうところ先生に似てるよね」
「五条くんに?」
そうかな、と不思議そうにしながらアイスクリームを頬張る姿は何だかウサギみたいで可愛い。あんまりこういうことを思うと五条先生に怒られ兼ねないから言わないけれど、捺さんのこういうちょっとした仕草や柔らかさはとても女の人っぽくて何ていうか、素敵だ、と思う。恋愛とかそういうのじゃなくて単純に魅力的な女性だと感じていた。前にカツ丼を作ってくれた時もそうだ。カツ丼自体も美味かったし、何より俺と一緒に同じカツ丼を食べてくれたのが何となく嬉しかった。上手く表現するのが難しいけれど、そういうちょっとした気遣いが温かいと思う。
捺さんは俺の言葉を咀嚼するように暫く天井を見つめていたけれど、確かにそうかもねと小さく微笑みを浮かべた。五条先生も結構俺たちに地方のお土産を買って来てくれるし、そういう気前の良さみたいなものは似通っている。……先生はたまに自分のだけ買ってくる時もあるからそこはちょっと違うけど。何となく興味があって他の皆の分も覚えているのかと尋ねると捺さんは素直に頷いて生徒の分は覚えるようにしている、と教えてくれた。
「それってめちゃくちゃ凄くね?」
「私が覚えたくて覚えてるだけだからなぁ……迷惑じゃなかった?」
「いや全然!寧ろすげー嬉しかったし!」
不安そうに伺いを立てる彼女に目の前で手をブンブンと振って否定すると、ほっと捺さんは息を吐き出す。良かったぁ、なんて笑う姿は健気で彼女の本質を表しているようにも感じた。来年も楽しみにしていてね、なんて気が早いのに笑いつつ、補助監督ってこんなことまでするんだなぁ、と感心したけれど、多分捺さんが好きでやってるんだろうな、と思う。きっと本人に尋ねても趣味みたいなものだと笑われる未来が容易に想像できて何だか俺まで口角が持ち上がった。こういう気遣いに俺を含めた他の生徒も、術師も癒されているのではないだろうか。年々特別感が薄れる自分が生まれた日を確かに覚えてくれている人がいて、こうして祝ってくれるのは普通のことではない。俺は恵まれている。……そして、そう感じさせてくれる彼女は凄い人だ。
五条先生は稽古をつけてくれているときによく捺さんの話をしていた。始まりは多分俺からだったけれど、次第に先生から自主的に話すようになっていたと思う。先生はいつも懐かしそうに目を細めて、とても幸せそうに捺さんの名前を呼んでいた。そこに含まれる感情は俺なんかが見ても明白で居心地が悪くて、ついには「先生って捺さんのこと好きなの?」と聞いてしまったけれど、彼は明るく笑って、そうだよ、と当たり前みたいに肯定していた。そこに恥とか照れみたいなものはなくて、ただ事実に頷いた先生がカッコよくも見えたっけ。似たようなことを先生本人に伝えると今度は珍しく、ちょっとだけ苦い顔をしてからすぐにコロリと笑顔になり「悠仁は好きな子が出来たらどうするの?」と聞いてきた。
思いもよらない質問にえ?と首を傾げたけれど、ちょっと悩んでからすぐに「助けてあげたいし優しくしたい」と答えると手を叩いて彼は素晴らしいね、と俺を褒め称えた。何だか態とらしくも思えるくらいの賞賛で気恥ずかしかったけれど、別にそれは先生も普段、こっちが見ていて恥ずかしくなるくらいに捺さんに甘いし、先生もそうでしょ?と言ったけれど唇を緩ませるだけで、アイマスク越しの表情はなかなか読めなかった。ただ先生は、悠仁はそのままでいてね、と俺の頭をくしゃくしゃに撫でたのだ。
「……捺さんは五条先生の事どう思ってるの?」
「へ?」
俺の質問は彼女を驚かせるには十分だったらしい。バニラのアイスを唇に付けた捺さんはキョトンとしていた。それから少し迷うように視線を彷徨わせて、そうだなぁ、と呟く。彼女の目は溶けかけたアイスと刺さったスプーンに注がれている。暫くの沈黙の後、下唇に厚みがある綺麗な形の口がほんのりとした血色で柔らかく動かされた。彼女が口にした言葉に俺はまつ毛を震わせて、そうなの?とつい、聞き返す。そうなの、と頬を丸くした捺さんの返事を聞けば先生は喜びそうなのになぁ、そう考えつつ俺もソーダ味のアイスを掬って舌に乗せた。弾けるような爽やかさに唸るのに彼女は美味しい?と分かっていて聞いてきた。そして俺も、それに分かりきった答えを告げる。良かった、と愛嬌のある微笑みを携える捺さんは綺麗で、尚更俺は伝えてみたらいいのに、と思ってしまったのだ。