……疲れた。






自然と零れるため息と言いようもない苛立ちに舌を打ちながら高専の廊下をスタスタと早足で歩いて行く。あのクソジジイ共は任務終わりに呼び出しておいて散々悠仁について釘を刺すだけなんて暇人かよ、と悪態吐きながら自然と少し荒く、重い足音が辺りに響いた。別に任務自体は面倒じゃなかったし、簡単に祓って終わったけれど任務地が遠かったのが地味なストレスだ。補助監督が送迎するには些か遠すぎる場合はこうして、支給される通勤手当を利用し単身で向かい、そこから高専までこれまた一人で帰ってくる必要がある。それだけでも十分ダルいのに、帰ってくるなり上に呼ばれてグチグチグチグチ……それしか能がねぇのかよ。こんな事なら向こうで一泊して予定でも狂わせてやれば良かった、なんて考えていると、五条くん?と耳馴染みのいい声が背後から俺を呼び止めた。瞬間その主を悟り、一度深呼吸をしてから笑顔を浮かべてくるり、と大袈裟に振り返る。





「捺!なぁに、僕になんか用事?」
「え?あ、いやそういう訳じゃないけど……」





出来る限り機嫌の悪さを薄めてにこやかに捺に声を掛けた。彼女は少しキョトンとしてから「任務お疲れって言いたかっただけで……」と口にする。その為だけに声を掛けてくれた事実と相変わらずいつ見ても可愛いその姿に一気にストレス係数が降下して行くのを感じた気がした。珍しくパンツスーツでは無く、タイツを履いたスカート姿の捺はいつも以上に女性らしさが増し、何となく昔の制服姿を思い出させるので個人的には結果アリだなと思っている。何と言っても可愛いし、綺麗だし、色っぽい。

こうして僕が感心して頷くのを捺は不思議そうに首を傾げながら眺めている。そんな彼女の何か言いたげな様子を感じ取り、体を屈めて目を合わせながら、どうしたの?と尋ねれば少し答え辛そうにしながらゆっくりと、控えめに口を開いた。





「……五条くん、何かあった?」





漠然とした問いかけ。だけど思い当たる節しか無い、そんな言葉に思わずマスクの下で大きく目を見開いた。上手く隠していたつもりだったのに何処から溢れてしまったのだろうか?声色?表情?考えても答えは見つからない。数秒黙り込んでしまった事がもはや無言の肯定を意味しており、捺は酷く心配そうに眉を下げている。彼女にそんな顔をして欲しかった訳ではないのだけれど、今更隠し通せる気もしなくて小さく肩を落としながら「……どうしてそう思ったの?」と静かに尋ねると、恐る恐る、といった様子で僕のアイマスクに細い指先が掛けられて、するり、と繊細な動作で首元まで下されていく。窓から入ってくる光に少し目が眩みながらも彼女の顔を正面で捉えて、柔らかな唇が、今日はこれ、外してないから、と動くのに自嘲混じりに薄く口元を緩めた。……確かに、そうだ。





「昔、隠してないと疲れるって言ってたよね?最近は下ろしてる時も多いから大丈夫になったのかなって思ってたけど……」
「……前よりは疲れなくなってるよ」
「……それでも、疲れるんだよね?」





威圧感は感じないが、少しずつ、確実に詰めてくる彼女の質問にどんどん先の言葉が失われていく。……今僕が彼女に言ったことに嘘はない。実際昔よりは慣れたし、疲れるというよりは少し疲れやすくなる程度に収まってはいる。それでもリソースを無駄に割かない為にこのマスクを付けているが、どうしても彼女もいると外したくなってしまうのだ。この目で、何も隔てる事無く捺の顔が見たい、僕の顔を見て欲しい、そんな気分にさせられてしまう。彼女としても馴染みがあるのはサングラスだけだった僕の姿だろうし、捺とは出来るだけ昔と変わらないまま、そのままの姿で話したかった。正直、彼女に心配されるのが申し訳なくなるくらい僕の我儘を通しているだけに過ぎないのだ。だからあまり説明した事も無かったし、彼女も深く聞かず受け入れてくれていたけれど……流石に突然"見せない"でいると不自然だったらしい。捺は暫く何か思案するように俯いてから、突然、ふっと顔を上げる。決意にも似た強い想いが籠った瞳が真っ直ぐに此方を見据えていて、視線が逸らせなかった。




「……五条くん。今から時間ある?」




ぎゅ、と握られた右手に感じる彼女の持つ熱に脳へ考えが回るより早く、僕は首を縦に振っていた。捺もまたそれを見て頷いてからグイグイとそのまま歩いて行く。期待感と若干の情け無さを胸に僕はただ、その小さな背中に導かれるように連れられて行くのだった。











かり、かり、こそ、こそ…………





一定のリズムと、心地良い乱れ。無意識に全身の力が抜けて身を任せてしまうこの感覚と、確かに感じる緊張が入り混じって頭が追いつかない。まさか好きな人の太腿に顔を挟まれるなんてことが現実に起こるなんて考えもしていなかった。じんわりと温かい体温、擽ったさと心地よさが同居する耳の穴、優しく俺の髪に触れているその手付きに全く思考が付いてこない。……そう、俺は今、高専の中にある静かな畳の一室で捺の膝に頭を乗せながら、彼女の手によって"耳掃除"を受けていた。





時刻は数分前にまで遡る。廊下で俺の腕引いた彼女はまず、あれよあれよと周りに掛け合い、空いている部屋を借りることに成功した。補助監督は場合によっては夜勤をする事もあるらしく、その為の休憩室として余りに余った適当な部屋を使用することが多いようだ。そう話す声を聞きながら何も分からない門外漢の俺はただ流されるまま、彼女の手によって畳が敷かれた一室へと押し込まれた。ちょっとだけ待っててね!と言いながら走って行った彼女が次に帰ってきた時には手にはココアの入ったマグカップと小さなポーチが握られていて、未だ何が起こるのは分からない俺にチョコレート入りのとびきり甘いその液体を手渡したのだ。因みにこれは普通にめちゃくちゃ美味かった。俺がココアを味わっている間にも忙しなく襖を開けて中を確認していた捺だったが、途中で俺の前に正座すると、申し訳無さそうに「ごめんね」と謝罪を口にする。




「ここ、布団とか枕置いてない部屋だったみたい……五条くんが良いなら私の膝の上にでも頭を、」
「いや、それは全然構わないどころか寧ろ最高なんだけど今から何するの?」
「少しは疲れ取れるかなって"これ"持ってきたんだ」
「…………耳かき?」




そう、と嬉しそうに頬を緩めた捺はポーチから竹の耳かき棒や綿棒を取り出して扇のように広げて俺に見せてくれたのだが、全然意味は分からなかった。曖昧な反応をする俺に気付いているのかいないのか、私これ好きなんだ、とウキウキしながら道具を近くのテーブルに乗せて並べて行く姿にもっと高度なものを若干期待していた俺は拍子抜けしていたが「……くる?」と此方に声を掛けながら自らの足をポン、と叩いた仕草や座り直した彼女の太腿の上で少し捲れたスカート、膝下から伸びる黒タイツを捉えた瞬間に「お願いします」と素直の欲望のままに口が動いていたのだ。これは仕方ないだろう。膝枕で耳かきもまた男のロマンに違いない。





「ここ、痛くない?」
「うん……」
「良かった。こっちは?」
「きもちいいです……」





とろん。自分の口から溢れる返事が緩やかで甘い調子を秘めていることがすぐに分かる。そっか、とすぐ上から聞こえてくる愛しい声と吐息を聞きながら確かな快感が耳に与えられて行く。今日あった面倒な事も嫌な事も全て一緒に掻き出されていくような心地良さと、ある種淡白なそのリズムが脳も体も全てふわふわと夢の中に誘おうとしてくるのが分かった。一緒に撫でられる頭とじんわりとした熱に、うっかりすれば瞼が完全に落ちてしまいそうな眠気が断続的に襲い掛かってくるのだ。二、三分施術を受けただけで、あ、ヤバい寝るわこれ、と悟るほどの"つよさ"に恐れ慄いた俺はどうにか辛うじて意識を保っているが限界は近い気がする。もっと捺を堪能していたいのに、寝てもいいよ、と甘美な誘いを投げ掛けてくる彼女が憎い。いや、憎くない。視線だけ動かして見える穏やかな表情を浮かべた捺に天使の羽と輪っかすら見える気がした。


……幸せすぎないか?体も心も気持ちよくて、妄想とは違う少し寝心地の悪い膝枕までも全てが愛おしい。梵天するね、と説明してくれる声に首だけしか咄嗟に動かない辺り、俺は完全に安心しきってしまっているのだろう。ふわふわで独特の感覚が耳の奥に入り込んでくるのに少し体を揺らすのに、捺はくすり、と笑みを落とした。そんな小さな仕草すら今の俺をときめかせるのには十分過ぎる。あぁ、すきだ。どうしようもなく、すきなのだ。





「……捺…………」
「ん?」
「マジで好き…………」
「うん、私も耳かき好きだよ」





ふわり、と華やいだ微笑みを見せた捺は多分何か勘違いをしている。一応、最近の彼女は俺の好意を恐らくきちんと理解しているし、夜景の中での口付けを拒まない事から考えても、少しずつ受け入れようともしてくれている。俺はそう思っているが、今回ばかりは上手く伝わらなかったらしい。でもそれを否定するのも今の俺には億劫で「好き……」と馬鹿みたいに唱えることしか出来なくなっていた。小さい掌で丁寧に俺の毛束をなぞる感覚、優しくてあたたかくてきれいな彼女。唇の端から音にならない息が漏れ出して、全部が抜け出していく。満たされる、というのはこういうことを言うのだろう。


終わったよ、と震えた空気に数回、惜しむように瞬きをしながら天井に体を向け、覗き込んでくる捺と視線を合わせる。日頃彼女が俺を見下ろす機会なんてそうそうないから、このアングルから見るのは中々レアだ。懐っこい瞳を見つめようとしたけれど、それはある程度の質量を持つ二つの山を越えた先に存在する。それには流石に男として邪な感情が先行してしまいそうになるのをグッと堪え、彼女の顔"だけ"を視界に収めようと努力した。捺、と不安定な語尾のままに名前を呼んだ俺の声に、少し体を前に倒しながら「なぁに」と彼女は目を細める。ゆるり、と光を持つ瞳が可愛くて、いつの間にか俺は自らの腕を持ち上げて、彼女の頬に充てがうように角張った男の手を這わせていた。捺はその行為に少し驚いてはいたが、すぐにすりすり、と擦り寄ってみせる。目の前で展開されるまるで小動物のような仕草に鼓動が早まり、ごくり、と唾を呑み込んだ。爪を隠した鷹が何も知らない無垢な獲物の首根っこに手を掛けているような高揚感と、単純な微笑ましさの間で揺れる自分がいる。





「ん、ごじょ、くん」
「……捺、」





疲労は思考を鈍らせるとはよく言ったものだ。少し力を入れて体を起こせば、あっという間に彼女の頭は俺より下に位置する事になる。笑いながら身を捩らせる仕草がいじらしくて、可愛くて、少しだけいやらしい。捺はふふ、と笑って楽しそうな息遣いを零していたが、きちんと俺の瞳を見た彼女は……ぁ、と頼りない声を吐き出す。俺の目に何を見たのか、自分では分からないが、多分それなりに熱っぽい物であった筈だ。慌てたように下げられた視線が惜しくて、少し力を入れて顔を持ち上げてやれば、捺の顔がじわじわと赤く染まり始める。






「……いい?」






本当は許可なんて取らずに奪い去るのが男らしさなのかもしれない。でも、恥ずかしそうに頷いて上目遣いに俺を見上げ、ほんのりと準備するその過程がまた愛しい。少し首を傾けながら押し当てた唇が蕩けるみたいに柔らかくて、そのまま夢中になってしまいたいのを我慢するように、一瞬の密着を感じ入るより先に自身引き剥がした。これ以上続けると止められる気がしないと思うのは、彼女への優しさなのか、それとも拒否されるのが怖い己の自信の無さなのか。答えは定かではないが、ただ勢いのままに捺の体を抱きしめる。


収まりが良い、小さな体。少し固まって見える彼女の頭を今度は俺が撫でてやり「もう少しだけ、」なんて、我が儘をぶつけた。彼女がそれを断るような女性でない事を知っている。ずるい手口かもしれない。でも、どうしても捺に触れたかった。どうしてもこうしたかった。細い肩口に埋めた顔と女性らしい香りに刺激されつつ、そっと伺うようにぽす、ぽす、と自分の背中に動かされた彼女の手に安堵する。……おつかれさま、と伝えられた声だけが俺の鼓膜を振動させた。廊下から定期的に聞こえてくる足音や人間の気配から一切隔離されたようなこの部屋で、癒しという名目のもとに自らの欲を満たした俺が、捺がこの日徹夜明けだった事を告白されたのはもう暫く経ってからで、そしてすぐさま今度は俺が君を寝かせると奮起するのもまた、別のお話、というやつだ。






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