仕事関係で久しぶりに東京に来た。京都も大抵人が多いけれど東京の都会っぷりには中々慣れず参ってしまう。取り敢えず一服でもしようとチェーンの珈琲店に入り、なんとなく、その日の気分で外の席に腰掛けた。天気もいいしたまにはこういうのも悪く無いだろうと往来を眺めて、会社に向かうであろうサラリーマンやOLが俺の前を横切って行った。……自分の服装も大して彼らと変わらないし、側から見たら会社員に見えるのだろうか。実際はこんなに非現実的なのに、と電話片手に歩くやつれた中年男性の肩に虫のような低級呪霊が乗っているのに溜息をついた。放っておいて害はないだろうけれど、視える立場としては複雑な気持ちだ。あのくらいなら俺にも祓える、そう思いつつも咄嗟に手が出ないのが悲しい。なんて、そう思いつつ目だけをその中年に向けていたが、蠅頭が背中にまで這い回ったその瞬間、パチン!と音がしそうな勢いで弾けて掻き消えてしまったのだ。突然の出来事に瞬きして、戸惑いつつもその呪力の主を辿ろうと視線を巡らせ辿り着いたのは……自分の丁度真隣にいつの間にか腰掛けていた"女性"だった。
「……あれ、片岡くん?」
「捺、さん……」
まさかそれが、別れた元カノだとは思いもしなかったけれど。
先ほど頼んだ珈琲が底をつきそうなのによく分からない焦りを感じながら彼女の隣に誘われるままに腰掛ける。久しぶりだね、と人懐こそうに笑うその顔は前と少しも変わらなくて懐かしいような擽ったいようなそんな気分にさせられた。閑夜捺さん。俺の二つ先輩で、元呪術師の女性。俺が初めて出会ったのは地方から京都に転勤になった時で、彼女には随分お世話になった。その当時は捺さんは京都で補助監督をしていて、そこでも悪い評判を聞かないような綺麗で可愛らしい人だった。元々術師として前線で活躍していたこともあってか、補助監督以外の術師からも評判が良く、気立ても良い、よく観察している、という噂は幾度と無く聞いてきたと思う。
直属の先輩として関わることが多かった俺は彼女の優しさや暖かさに、まるでそれが自然で当然な事だと言わんばかりに恋をしていた。学生時代みたいな甘酸っぱい気持ちで出勤して、隣のデスクだった捺さんの滑らかな横顔のラインを見るのが好きだった。目があった時に小首を傾げる仕草が好きだった。シビアな判断が求められる時に瞬時に決断できるその強さに、憧れた。男社会な面も強い呪術界で彼女は俺の理想でもあった。こんな人になりたいと願い、かといって何も感じない訳じゃない、人間らしく落ち込むこの人を支えたいと切に感じた。
「あ、それ今も好きなの?」
「は、い……よく、今でも飲んでます」
向こうでもよく飲んでたもんね、と目を細めたのにキュンと胸の奥が音を立てた気がする。こういうところが、ずるいのだ。もう一年近く経つのにちゃんと覚えていてくれる細やかさに男はきっと弱い。妙に緊張してしまうの仕方ない事だと思う。俺は別に彼女を諦めたわけでは無いのだから。……告白したのは俺からだった。去年の秋、玉砕覚悟で頭を下げて、シンプルに「付き合って下さい」と伝えた。捺さんは驚いていたけれど、数秒してからゆっくりと頷いて、よろしくお願いします、と受け入れてくれたのだ。当然同期の間でも噂になり、散々囃された。今思えば多分あれが俺の人生の幸せの絶頂というやつだった。俺も彼女も忙しくて沢山出掛けた思い出がある、とは言えないけれど、近場を 二人で散歩するだけでも嬉しかったし、俺たちの密会は大抵このチェーン店で行われていたのだ。俺は甘いのはそんなに得意じゃ無いけれど、彼女は結構好きみたいでよくフラペチーノを頼んでいたっけ。捺さんは少しずつ、真面目で品行方正な先輩以外の顔も見せてくれて、それもまた愛おしくて堪らなかった。そして順調にいけばこのまま綺麗な体も、なんて、淡い期待を抱いていたそんな年明けに突然終わりがやってきた。
「東京に転勤、決まったんだ」
「……え?」
突然、日常会話を続けるような流れで伝えられた言葉を聞いて情けなく固まる俺に彼女はそのまま「別れてほしい」と告げた。その顔は落ち着いていて、ただ事実を述べているだけの静かなものだったので俺は尚更動揺する。どうして、と縋るように聞いた姿を見て、申し訳なさそうに目を伏せた捺さんは、付き合っている人を置いて遠くに行くと仕事に集中出来なくなるかも知れない、と現実的な言葉を口にする。
「あくまで私たちの仕事は術師のサポート……他に気を取られる事があるときっと迷っちゃうから」
「……捺さん、」
「片岡くん……勝手で、ごめんね」
酷く悲しげに、そして辛そうに眉を下げる彼女に何も言えなくなった。捺さんは、俺が思っているよりもリアリストだった。遠距離恋愛を支えにするような女性ではなく、それによって生じる他人への"リスク"を考える人だった。俺は彼女が仕事している姿が好きだ。だからこそ……それを受け入れる以外の選択は、そこに残されていなかったのだ。春が芽吹くより前の季節に短い俺の恋は呆気なく終わりを迎えたが、送り出す時に差し出した花束を受け取った彼女は、逞しくて、美しかった。
「……捺さん」
「ん?」
昔よりも言葉にするのを戸惑うようになったその名前を、勇気を振り絞りながら声に出す。思い出したのは彼女に別れを切り出されたあの日。今の並びはまさにあの時と瓜二つだった。あれから一年近く経ったけれど、今も俺は彼女を諦めきれていない。重いと笑われるかもしれない、痛々しい行為かもしれない。でも、やっぱり俺は彼女のことが好きだった。彼女と居た時の彩りある世界が好きだった。それは変えられない事実なのだ。……こんな東京のど真ん中で信じられないくらい運命的な再会を果たしたのだ。俺も、男としてしなければいけないことがある。
「良かったら俺と、もう一度やりッ、」
「どーも」
ぽん、と低い声と共に肩に感じた緩やかな重みと、背後に感じる確かな威圧感に首根っこを掴まれたような威圧感を感じた。金縛りにあってしまったみたいに動くこともままならず、声も上手く出やしない。何が起きた?一体何が、と困惑する俺は、目の前の彼女の視線が俺の頭よりもよっぽど高い位置へと向けられていることに気づく。彼女の柔らかそうな唇が「五条くん」と少し驚いたように動いた。……五条、くん?
まさか、と思って振り返った先に立つ黒ずくめの巨人のような男。真っ白な髪を太陽に向けながら黒いアイマスクを巻いてにんまり、と俺に笑いかけてきたその男を、俺は知っている。呪術に関わる人間で、彼のことを知らない人物はまず居ない。所謂UMAと似たような扱いをされながら現実に確かに存在する現代最強の術師……"五条悟"の姿がそこにはあった。最早思考をやめてしまった脳みそで「捺休憩中?僕もなんだよね」「うん、少しだけ。この後は真希ちゃんの送迎があるけど」だとかめちゃくちゃ親しげに、というか慣れたように会話を続ける二人に益々頭が混乱した。初めて生で見た五条悟はそれが当たり前だとでも主張するように俺と彼女の間に椅子を引っ張ってくると、手に持っていたチョコレートとホイップクリームがふんだんに使われている飲み物を机の上に堂々と置いた。めちゃくちゃ甘いもの食べてるなこの人、と、どうでもいい事ばかりに気が向くのは俺の理解がそれだけ追いついていないことを表している。彼女とこの男になんの関係があるのかも、どんな仲なのかも分からないが、少なくとも親しいであろうことは伺える。
「で、コイツは?」
「私の後輩で片岡くんっていうの。今日は京都から来てて……」
「……片岡、です」
「ふぅん……捺の後輩、ねぇ」
突如、俺を見定めるような眼差しで布越しに俺を見つめてくるその佇まいに言い知れぬ緊張が辺りを支配した。筋肉全てが彼の支配下になってしまったように動かない、いや、動けないのだ。圧倒的に実力差もポテンシャルも俺より高い位置にあるこの人が何故こんなにも俺に敵意を向けてくるのか、何故こんなにも機嫌悪そうにしているのか何も分からない。ただ、不意に外された黒から覗いた青い目に宿った感情は、想像しているよりもずっと俗っぽいもの、なのかもしれない。
「僕は五条悟……知ってるかもしれないけど一応自己紹介しておくよ」
「は、はい。よろしくお願いします」
「因みに捺は僕の"コレ"だから」
「……もう、またそんなこと言って」
ぐい、っと少し荒っぽい動作で肩を引き寄せられた彼女が男の腕の中でモゾモゾと動き、顔を上げて口を少し尖らせながら抗議してみせる。それに対してダメだった?と笑いかける動きは俺に向けているものとは全くベクトルが違って見える。柔らかくて暖かな海を思わせる瞳は捺さんを包み込むみたいに優しく瞬いている。他の誰にも向けるつもりはない、暗にそう伝える空気感が俺の目の前で横たわっていた。言いたいことは色々あった。離れろだとか目に毒だとか、言い訳も数え切れないくらい用意していた。だが、今はその全てが土台から消し去られてしまったような無力感だけが俺の胸の中には残されている。
……否定、しないんだな。俺が真っ先に思ったことはそれだった。捺さんを真っ直ぐな人だと思っていた。曲がったことは好きでは無いし、自分にとって真実では無いことを真摯に否定する人だと思い込んでいた。だが、今俺の前に居る彼女は「閑夜捺」というただ一人の女性に過ぎなかったのだ。俺が知る補助監督の先輩としてではない。彼は彼女の根幹にある繊細な部分に惜しみもなく触れて、露出させ、魅力へと昇華させている。しっかり者の彼女が揶揄われて子供みたいな反応を返す、そんな場面、俺は見たことが無かった。
「これからも捺のことよろしくね片岡クン」
冷ややかで意地の悪い笑みが口元に浮かんだ。全てを見透かすような目の奥に俺の姿はきっともう、障壁としては映っていないのだろう。皮肉を込めた微笑は俺にマジマジと真っ正面から眼中に無いことを見せつけていく。やり切れない思いでカップを手に取り立ち上がった俺に捺さんは何かあったらいつでも連絡してね、と案じるように声を掛けてくれた。そこにある親切心はそれ以上でも以下でもなくて、曖昧に下手くそな笑顔を返して何も言わずに店の敷地から一歩外に踏み出す。あー、カッコ悪。道端の小石にも満たない砂利を蹴飛ばして、寄せ集めみたいな街へと繰り出していく俺はもうきっと、彼女みたいな光には出会えないのだろう。突きつけられた現実に悔しさの涙も怒りも湧かない俺は、もうきっとその時点で何から何まで負けてしまっていた。
「あれ、元カレ?」
二人だけになった席で五条は確信めいた口調で捺に問いかける。少しだけ目を見開いた彼女だったが、それが問いかけというよりは指摘に近いものだと察すると首を縦に振り、肯定を示した。いい子だよ、と説明する言葉に嘘は感じられず捺らしい答えだと五条はため息を吐く。京都にいた時に少しだけ恋人関係にあったと述べるのを聞きながらアイマスクを付け直し、片岡が消えていった街の奥を眺めた彼が長い付き合いだったのかと聞くと「去年ニヶ月だけ。前の人よりは全然短いよ」とカップを両手に捺は睫毛を伏せている。……意外だった。五条はてっきりあの男が初体験だと踏んでいたのに、話の口振りからするにそうでは無いらしい。女性にこんな事を聞くのはどうなのか、と思いつつもやはり自分が数年来好きな人間の恋愛遍歴が気になるのは不自然なことでは無い気もする。
「その前の人とは?」
「……二十三か四の時からで……半年くらいかなぁ」
水面を軽く揺らして円が広がるのを見つめた捺の語る半年の重さ。短命であることが多い呪術師にとってそこまで関係が続くのは御の字だと五条は思った。それと同時に恐らくその男が彼女の、もう自分が手に入れることが出来ない幾つかを得ているであろうことを悟り、複雑な感情に口を噤む。半年も付き合いがあれば、そういうコトをしない方が不自然だろう。じわりとにじり寄るような悔しさや羨望に似たモノが渦巻くのを感じて、歯向かうみたいに捺に体を寄せ、重くない程度に五条は体重を預ける。少し傾いた捺は文句も言わず五条の好きにさせており、そんな様子が彼は気に入らなかったが、そのままふと、独り言を言うような調子で、
「別れてすぐ、亡くなったけど」
と続いた言葉に、少しずつ身体の位置を元の場所へと戻した。そっか、と五条が落とした声は簡潔ではあったが、滲むような痛むような色が乗っている。思わずテーブルの上に投げ出されていた女性特有の小さく細い手を握り込んだ男は「僕ならそうはならないのに」と聞く人によっては不謹慎にも思えるような口振りでそう言うと捺の顔を覗き込む。じっと彼を見つめて彼女は思わず、という様子でくすりと笑うと、そうだね、とそれを否定しなかった。五条は知っている。いくら冷静で現実主義と言われても、彼女が人の生死に心を痛めないような人間では無いことを。だからこそ、五条は彼女がそんな悩みを抱えずに済むくらいに自身が強くあろうとすることを望んでいる。
「僕、最強だから」
「……うん、知ってる」
フラペチーノいる?と向けられたストローを無言で咥えた捺は「甘いね」と呟いた。僕が好きだからね、と不思議と堂々としている彼に彼女は苦いよりは甘い方が好きだと目を細める。そんな焦ったい言い回しを捺なりの甘えだと受け取った五条は嫌味なほどに晴れた空に映し出されて透き通るような髪に指を通して、とろりと溶けるように熱く、そして甘く頭を撫であげる。それを拒まない捺が動物みたいに嬉しそうにして見せるのを、ただ彼はこれからも護り通したいと、そう思っていた。人が徐々に増え始めるおやつ時。静かに触れ合う彼らは何も知らない通行人の目にはきっと"コレ"に見えた筈だ。