「ごじょう、くん……」






ひゅ、ひゅ、と息が抜ける音がする。周りが眩んで、歪んで、助け起こした彼女から溢れる鮮明な赤に俺の息も荒くなっていくのが分かる。口角の端から流れた血液が首を伝い、地面にまでぽた、ぽた、と水滴を落としていた。触れている肌から熱が引いていくのに感じたことが無い恐怖に襲われる。力無く垂れ下がる腕を掴んで握り、必死に彼女の名前を呼ぶが、それが音になることはない。どうして、なんで、募る疑問と比例するように確かにその瞬間が近づいていくのがあまりにも恐ろしい。いつもなら色づいて咥えたくなるようなその唇が青いインクが垂れたように少しずつ、確実に死んでいく。最早痛覚も感じないのか、ぼんやりと焦点の合わない目は何処か穏やかにも感じられた。……行かないでくれ、俺を置いて、いかないでくれ。叫びは届かない。彼女は最後にほんのりと笑顔を浮かべると、そのまま星の輝きがが消えるように、息を引き取った。







「ッ……捺!!!」






跳ね上がった体と同時に掛かっていた布団が床へずるりと落ちていく。溺れかけた後みたいにむせ返るほど呼吸して、早く動き過ぎて鈍い痛みが広がる左胸を押さえた。厚いカーテンの隙間から零れた薄い月光は服の上に細い線を描いて、細かく揺らいでいる。部屋に掛けた時計を見て、9を指す短針を視認した瞬間、不快域を吐き出しながら浮いた背中をベッドに預け直した。…………夢、か。状況を理解した瞬間に吹き出すように汗が湧いて、Tシャツを濡らしていくのが分かる。それでも中々体に力が入らなくてぐったりとマットレスに倒れたまま動くことが出来なかった。



なんて、夢を見せるんだ。誰にというわけでもなく悪態をついて腹立たしい気持ちを昇華させるように舌打ちをする。触れた感覚なんて分かる筈が無いのに、赤く染まった自分の掌と失われていく体温を覚えている自分がいる。何度彼女を呼んでも届かない声と少しずつ消える瞳の輝きが焼きついて離れない。ギリギリと音が鳴るくらいに拳を握って、小刻みに震える手に自嘲した笑みを零す。格好付かないなんてもんじゃ無いな、そう自覚しつつもサイドに置いたスマホに手を伸ばすのを止められなかった。電話帳を開いてすぐに出てくる彼女の名前を一瞬の迷いの後にぐ、と押し込むみたいに触れた。






「……五条くん?どうしたの?」
「……捺、」
「ん?」





少しノイズ混じりの声が耳元で響いて、彼女が俺の呼び掛けに反応したことで、やっと悪夢から解放されたような気がした。不思議そうな女性らしい調子のそれは、俺が夢の中で聞いた、苦しくて、掠れた今にも消えそうなものとは随分違っている。それ以上考えるより早く「今からそっち行く」と端的に要件を伝えて、へ?と間の抜けた呟きだけを耳に入れてから通話を終えた。適当に羽織るものをラックから引っ張り出し、勢いのままに玄関を飛び出してエレベーターのボタンを意味もなく何度も押した。よく使うタクシー会社に迎えを要請してはやる気持ちをなんとか抑えながら薄暗い車内へと乗り込んだ。










「あ、の……」
「…………」
「五条くん……?」







動揺に震える彼女の声がすぐ側でじん、と俺の頭を揺さぶる。とく、とく、と触れている体から伝わってくる彼女が生きている証を感じながら深い吐息を漏らす。びく、と白い肩口が反応して擽ったそうに身を捩る捺をもっと自らに引き寄せるように抱きしめる。……あたたかくて、やわらかい。風呂上がりなのかいつもと比べてしっとりと濡れた髪と鼻腔に広がるフローラルな香りに俺の思考回路が一つずつ、丁寧に落とされていくのを感じる。小さくて、細くて、甘そうな捺。俺の腕の中にすっぽりと収まるサイズ感が堪らなく愛おしくてどうしようもない衝動に駆られそうになる。本当は全てを暴いて隅から隅までお前が生きている証拠を得たいと願っているのをギリギリの道徳心で繋ぎ止めた。今はただ、そこに彼女が居ることを実感したかった。俺の中に捺がいる事を全身で理解したかった。



彼女も初めはもちろん戸惑っていた。どうして良いかわからず固まって、オロオロと手を動かすことしか出来ていなかったが、次第に、まるで俺を受け入れるように、その腕は俺の背中へと伸ばされた。自分のものと比べて控えめな抱擁ではあったが、それでも俺の心の奥底に穏やかで仄かな光が灯ったように感じられたのだ。嬉しさと言えば俗っぽすぎる、表現し難い感情を抱えながらもっと強く捺を抱き込んで、何物からも遠ざけようとした。いっそ俺以外の他のモノから目が届かない、手が届かない場所で居てくれればどれ程気が楽になるのか、そんな非現実的なことを少しだけ考えて、自らで否定するために首を横に振る。俺は彼女を縛りたい訳ではない。






「……五条くん、大丈夫だよ」






とん、とん、一定のリズムで子供にするみたいに俺の背中を叩き始めた捺に一瞬体を固くして、すぐに力を抜いた。大丈夫、大丈夫、と落ち着かせるように堕とされる声に自然と瞼が降りていく。失くし掛けていた睡眠欲がじわじわと顔を出して、筋肉に張っていた緊張が解け始めた。体重を掛けすぎないように気を付けながらも甘えるみたいに寄り添ってしまう俺は、これじゃ本当にガキみたいだ。何かあったの?とやっと尋ねた言葉は泣きたくなるくらいに優しかった。





「……お前が」
「……うん」
「死ぬ夢、見た」





これ以上無いくらいにシンプルな説明。それでも捺は息を呑むと、たっぷりの沈黙を設けてから「……そっか」と答えて少しだけ俺に回している腕の力を強くした。応えるような動作に心臓が締め付けられて、俺ももっと彼女を閉じ込める。ぐりぐりと頭を擦り付けて、動物みたいに愛を求める仕草に女性らしい掌が遠慮がちに背中からするりと這い上がり、俺の髪に触れた。引っ掛けないように、探るように、指先を潜らせて撫でる仕草が気持ちよくて、無意識に喉の奥をくるくると鳴らす。さっきの悪夢が嘘みたいに、固く冷え切っていた心が融解されて行くのを感じた。捺は、不思議だ。あんなにも澱んでいた感情がこうも落ち着いていく自分がなまじ信じられなくて、どんな魔法を使ったんだと突きたくなる。彼女が使ったのは俺特攻の術式なのかもしれない。そんな馬鹿みたいなことを考えながらちょっとした腹いせに、ちゅ、と肩口に唇を落とすと、ぴくんと反応して小さく声を漏らすのが狡いと思う。可愛すぎるし、もっと"腹いせ"したくなってしまう。俺は子犬とは程遠いような猛獣だって分からせてやりたいような、今は牙を抜かれたままでも良いような、曖昧な感覚の中で浮遊していた。







「落ち着いた?」
「……うん、ごめんね急に」







暫くしてから完全に元に戻った僕は出来るだけ素直に捺に謝った。良いんだよ、とすぐに許しをくれた事にひっそり息を吐き出しつつ、飲み物でも飲んで行くかと気を遣ってくれた彼女に首を横に振った。これ以上ここに居て自分が変な気を起こしでもしたら大変だ。それに今の彼女なら「五条くんは疲れていた」だとか言ってマトモに拒否をしない可能性だってあり得る。そんな形で彼女との関係を壊して、無理をさせる事だけは絶対にしたくなかった。



今度何かで埋め合わせするよ、と言いながら玄関を出た僕をギリギリまで見送ろうとする彼女の優しさに口元が緩んだのを感じる。ありがとう、と改めて感謝を伝えた僕に捺は首を横に振って一歩前に足を踏み出すと、背伸びをしながら俺の首に抱き着いて、おやすみ、と蕩けそうな声で囁くと直ぐに離れてドアをバタン!と勢いよく閉めてその場を華麗に去っていく。思わずその場に立ち尽くした俺は彼女の部屋に背を向けてから思わずグッと思い切り親指を立てて全身を身震いさせた。





……何だ今のサービスは。





最高過ぎるだろ、なんて、邪な感情を全力で抱きながらふらふらと階段を降りて行き、待たせていたタクシーで無事に帰宅した俺は軽くシャワーを浴びてからベッドに飛び込んだ。寝心地良い体勢を見つけ出してから、ついさっきまでの彼女の温もりを思い出すように毛布をぎゅっと抱きしめて、このくらいだったかな、いやもう少し厚みが……などと微調整を重ねる姿は中々変態的な気もする。でもそんなの関係ない。それもこれも質の良い睡眠のためだと意気込みながらしっかりと目を閉じた。そして、結果的にそりゃあもう、幸せにご奉仕"されて"尚且つ、ご奉仕"してあげる"ような甘ったるくドロドロな夢を見て目覚めた朝は、信じられないくらい爽やかなものになったのだ。寧ろ何度でも見たくなるような、起きてしまうのが惜しいくらいの夢であったが、キラキラと眩いくらいの太陽光に浄化されるように危ない回路が焼き切れたので俺が寧ろ安心した。……今日もきっと、高専に行けば彼女が朝の挨拶をしてくれるのだろう。そんな当たり前に感謝しつつ、簡単に支度をしてから“僕"はまた、少しでもそんな日常を守る為に今日も仕事へと向かうのであった。







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