「はぁ……」






深々とした息を吐き出しながら肩を回す。ここ最近は久しぶりに物凄く忙しかった。この仕事をしていると、たまにとんでもなくやるべき事が重なったり、居なくなった人の分を肩代わりしなくてはいけない時がやってくる。今年はこの時期だったか……と嘆きながら昨日の夜遅くまで色々な書類と向き合っては修正を重ね、やっとのことで終わったのが朝の4時。最早家に帰る気力もなく、そのまま休憩室で倒れるように眠ってしまった。


目が覚めた時にはすでに外は完全に明るくなっていて、慌てて体を起こすと、いつの間にか掛けられていた触り心地の良いブランケットが床に滑り落ちた。スマホの電源を入れて表示された日付が2月14日、ときちんと休暇を示していたことに胸を撫で下ろし、遅刻や無断欠勤にならずに済んだ自分のシフトに感謝する。……とはいえ、ずっとここに留まるわけにもいかず、バッグから取り出したポーチを漁り、鏡である程度の身なりを整えてからジャケット羽織って皺がないかを確かめた。……うん、これくらいなら特に気になりはしないだろう。





「……閑夜」
「日下部さん……おはようございます」
「これ、お前宛」





職員室に出るなり渡された封筒に思わず瞬きをしてから日下部さんを見つめる。彼は私にそれを差し出しながらも物凄く面倒そうな表情を浮かべていて、これが日下部さんからの物ではないと直ぐに察した。戸惑いつつもそっと受け取り、糊を剥がすと、やけにハートマークが散りばめられた便箋が畳まれて入っていて、開いたそこにはたった一言"まずは2年の教室へ"とだけデカデカと書かれていた。教室へ、って…………思わずもう一度日下部さんを見てしまったけれど彼は、俺は関係ないぞ、と言わんばかりに眉を顰めているだけだった。





「ええと……これって誰から?」
「言うなって口止めされてる」
「そう、なんですか……すみません、ありがとうございます」





口止め?と内心首を傾げつつ、取り敢えず感謝を込め頭を下げてから封筒に手紙を仕舞い直し、ゆっくりと廊下を歩き始めた。このまま帰ろうと思っていたのに何なんだろうこれは……と拭えぬ疑問を感じつつも言われるがままに2年生の教室へと足を進める。何かの暗号だろうか?でもそういえば昔こんなことも……と、考えていると、不意に目の前に誰かの気配を感じて視線を持ち上げた。そこには、ひょこり、と顔だけ出した狗巻くんが居て、軽く手を振ったけれど慌てて身を隠すように中に引っ込んでしまった。

まるで逃げるようなその動作に何だか少し寂しく感じつつも2年生の教室のドアに手を掛ける。誰もいない……と言いたいところだけど、明らかに木製の掃除用具入れがガタガタと揺れているし、明らかにそこに誰かが居るのは明白だ。というか静かな教室だからこそ、そこから発せられる物音や小さな声が気になって仕方がない。開けていいものか、と葛藤しつつ、ふ、と視界に入った教卓の上に置かれた物に目が止まる。ゆっくりと近付いて、それが何分かった私はやっぱり、パチパチ、瞬かせる。




……黒字の布に銀色の金具が付いたヘアゴムと板チョコ、パンダ型のクッキーとぬいぐるみ、私愛用シリーズのボールペンと"いつもありがとう"と書かれた手紙……これって、と私が呟くより先に「いい加減暑苦しいんだよ!!!」と盛大な怒鳴り声と共に真希ちゃんがロッカーから飛び出した。続いて転がり出てきたパンダくんと狗巻くんの姿。分かってはいたけれどあそこに3人も居たなんて……ある種感動しつつ皆に、おはよう、と挨拶すると、狗巻くんが一度私を見てから不満そうにおかか、と呟き、パンダくんもそれに同調するように頷いた。





「ほら真希が出たから捺にバレたぞ」
「ツナマヨ」
「ハァ!?第一あんなもん3人も入る場所じゃねぇだろ!!」





私を置いて争いを始めた3人に仲が良いなぁと思いつつしばらく成り行きを見守っていたが、途中でパンダくんがのっそりとこちらに近付いてくると、教卓の上からクッキーとぬいぐるみを手に取り「ほら、これは俺から」と私に手渡した。反射的に受け取った私に残りの2人も顔を見合わせてから、それぞれ真希ちゃんは軽く投げ渡すように、狗巻くんは両手で大切そうに私の腕に乗せてきた。正直何が何だか分からないけれど、……私に?と一応言葉で尋ねると、当たり前だろ、と真希ちゃんは呆れたように息を吐き出した。





「あの馬鹿が言ってたぞ。最近疲れてるんだって?」
「しゃけしゃけ」
「そう、だから日頃の感謝を込めてプレゼント……みたいな?人間はバレンタインって呼ぶんだろ?」





バレンタイン、と紡がれた単語にポカン、と口を開いて固まった。慌ててもう一度ポケットからスマホを取り出して「2月14日」という表示にあぁ!!と声を漏らし、私の反応に一番近くに立っていた狗巻くんが少しだけ肩を揺らした。そうだ、今日はバレンタインだ……!!あまりの忙しさに全ての曜日感覚を失っていた自分に驚きながらも東京高専に来て初めてのバレンタインを逃してしまったことに愕然とする。去年までは京都のみんなに甘いものを買ってきていたのに今年に限って忘れてしまうなんて……!!自分の薄情さに項垂れつつごめんね、と謝ると3人は一斉に顔を見合わせてから一つ頷くと、あのなぁ、と真希ちゃんが口を開く。





「んなこと言われたら感謝の意味ねぇじゃん。チョコは適当に買ったけどこっちはちゃんと選んだんだから気に入ったなら使えよ?」
「俺は自分じゃ買いに行けないから学長に頼んだらこうなった。……なんかちょっと可愛すぎるけど、まぁ女子は好きだろ」
「しゃけしゃけ!」





真希ちゃんとパンダくんの言葉に同調するように首を振りつつ狗巻くんは"いつもありがとう"を指差している。あまりに暖かな言葉に年甲斐なく全員を抱きしめてしまいそうになったけれど、真希ちゃんにこれ以上暑苦しいのはごめんだと止められてしまったので中途半端に両腕が浮遊した。なんて良い生徒達なんだろう……そうやってしみじみと感じ入る私に今度は1年とこな、と教えてくれた彼らに何度も頷いて、何度も感謝を伝えた。頑張れよ、と背中に声を掛けられるのを感じつつ、おずおずと教室を出た私の足取りは2年の教室への行き道よりも随分軽く感じる。真希ちゃんらしいシンプルで実用性が高いプレゼントも、可愛い食べ物ばっかりのパンダくんも、私が最近切らしていた物を選んでくれた狗巻くんも、個性が溢れていて見るたびに口元がにやけていく。……やっぱりなんとなく懐かしい気がして悶々としているけれど、ホワイトデーにはお返しを用意しないと、なんて切り替えて考えつつ、ほんのり期待を込めて1年生の教室のドアをそっと開いた。






「だーかーらー!もう俺はサプライズ恐怖症なんだって!!」
「何馬鹿なこと言ってんのよ!こういう時はロッカーに隠れてサプライズって相場が決まってんのよ!!!」
「……あ、閑夜さん」






伏黒くんが呼んでくれた名前に軽くお辞儀をして、え!?と同時に振り返った虎杖くんと野薔薇ちゃんに曖昧な笑みを浮かべた。お取り込み中かな?と伺いを立てた私にアンタのせいよ!と虎杖くんの脛のあたりを容赦なく膝で小突いた野薔薇ちゃんは鞄からゴソゴソと何かを取り出してから私に駆け寄ると「捺さんこれ!」と大人っぽいデザインの小袋を差し出してきた。彼女の後ろで悶え苦しんでいる虎杖くんの姿に少し気が散りつつも、ありがとう、と受け取ると、彼女は開けてよ!と楽しそうに私に促した。そんなに見て欲しい物なのかな?と微笑ましく思いながらテープを外すと、ネット広告やCMでも良く見る有名なブランドのリップが静かに横たわっていた。

これ、と、つい野薔薇ちゃんを見つめると「それ絶対捺さんに似合うから!!」と得意げな笑みを彼女は私に向けてくる。付けてくれ、と訴えかけて来ているキラキラと学生らしい瞳に口角を緩めて、"八面玲瓏"と刻印された箱を開けると、黒と金色でシンプルかつ可愛らしいパッケージの口紅が顔を出す。私が指先で摘んで引き出している間に甲斐甲斐しく鏡を構えた彼女に笑いながら品のあるローズレッドを唇の上に滑らせた。あまり自分では選んだことのないカラーだったけれど、肌や髪色に良く馴染み、滲むような色っぽさを感じさせるそれに、年甲斐なく嬉しくなってしまった。





「ッめちゃくちゃ、イイ!!捺さんそれすっごい似合ってる!!!」
「そうかな?ありがとう、野薔薇ちゃん」
「ほら伏黒もなんか言いなさいよ!」
「……いや、その、」





大きめの袋を持ちながらこちらをぼんやりと見つめていた伏黒くんは、ぐい、っと押し出すように背中を押され、その衝撃にはっ、と息を呑み込んで目を見開いた。そして直ぐに困ったように眉を下げて瞳をゆらゆらと動かしているのを見て、そんなに無理しなくても……とお世辞を言わせる訳にもいかず止めようとした私を制するように「似合って、ます」と彼は小さな声で呟いた。あぁ、気を遣わせた……と酷く申し訳ない気持ちになりつつ、ありがとうごめんね、と答えたが、伏黒くんは少しム、と唇を尖らせる。





「……信じてませんね、閑夜さん」
「え?えーっ、と……」
「閑夜さんは綺麗です。……いつもそうですけど、今は釘崎の渡したそれで、もっとそう見えます」
「……ふ、伏黒くんって、その……」
「いや重!?そこまでしろって言ってないでしょ!!」






私が言うより早く突っ込んだ野薔薇ちゃんは今度は伏黒くんに詰め寄り始める。伏黒くんは伏黒くんでハァ?と機嫌悪そうに目を細めて「事実だろ」「お前マジかどうか分かりづらいのよ!」とまた今度はこちらで言い合いを始めている。伏黒くんは何かと心臓に悪いな……と思っていると今度は反対側から捺さん!と元気そうな声が聞こえた。すっかり野薔薇ちゃんの攻撃から立ち直った彼は、俺からはこれ!と爽やかな笑顔で可愛らしいラッピングの袋を渡してくれた。キョトン、と目を丸くした私に彼は少し恥ずかしそうに自分の髪を触りながら「折角だからいい感じに包んで貰ったんだけど」と照れ笑いを浮かべている。そんな気遣いを聞いてしまっては今度はこっちは開けるのが勿体なく感じて「何をくれたの?」と素直に尋ねると、えーとね、と前置きしつつ虎杖くんが口を開く。





「それ入浴剤なんだ。泡がめっちゃ出てイイ匂いするんだって」
「へぇ、入浴剤……!虎杖くんこういうの好きなの?」
「俺はあんまり使ったことないんだけど、年上の女の人にって店員さんに相談したら勧められて……捺さん疲れてるって聞いたし、やっぱ風呂にゆっくり浸かるといいのかなって」





どう?と小首を傾げる仕草から溢れ出す可愛らしさにぶんぶん頷きながらすごく嬉しいと伝えるとマジ!?と子供みたいに喜んでくれる虎杖くんは凄く微笑ましい。2年生とはまた違った雰囲気のある彼らにホクホクと温かい気持ちが渦巻く中、虎杖くんの隣から伏黒くんが顔を出した。非常に疲れた様子の彼はコッテリと野薔薇ちゃんに絞られてしまったらしい。今度こそ本当に謝らないといけない気がしてゴメンね……と口にするとゆっくりと伏黒くんは首を振りながら、提げている袋から細長い箱を一つ取り出した。





「……女性が好きだって聞いたんですけど、閑夜さんはこれ、好きですか?」
「これってマカロン?しかも結構高いところのだよね……いいの?こんな美味しそうなの貰って……」
「その為に選んだんで。遠慮しないで下さい」
「……伏黒、アンタそれ一個だけ?」
「それにしちゃ袋デカすぎねぇ?」






確かに2人の指摘はもっともで、彼の持つビニールの袋は明らかにこのマカロンには過剰包装というか、大き過ぎるように見える。伏黒くんは2人の言葉に軽く息を吐き出すと「どうせ先輩達からも貰うなら荷物が増えるだろ」と呆れた口調で言いながら、私が抱えていた真希ちゃん達からのプレゼントや、今貰った2人からのプレゼントをその中に全て入れ込み、改めて手渡してくれた。その優しさに衝撃を受けたのは私だけではないらしく、何そのモテそうな気遣い!?と虎杖くんが叫んだのに思わず私も頷いた。す、すごい……そこまで考えて選べるなんて、高校生の男の子とは思えない心配りに何だか涙が出そうな気がした。私同じ歳くらいだったとしてもそこまで考えられる気がしない。ずるいぞ!と責められている彼に改めて深くお礼を言うと、一度此方に顔を向けてから「無理はしないで下さいね」と釘を刺されてしまった。




「肝に銘じます……」
「あ、そうだ!捺さんにこれも渡すようにって」




小さくなる私を見て、あっ!と気付いたように虎杖くんが懐から一つの封筒を取り出した。さっき日下部さんから渡されたのと同じ種類のそれ受け取り、気を付けながら封を開ければ、またさっきのギラギラのハートの便箋が入っていた。3人も中身は知らないらしく、いつの間にかいがみ合うのをやめて興味津々に覗き込んでいる。ひらり、と紙が擦れる音がして開かれたそこには、やっぱりどこか見慣れた文字でど真ん中に、一文にも満たないメッセージが書かれていた。






「"あの日のラスト問題"って、何コレ?」
「暗号かなぁ……」
「……そもそもあの日ってなんだよ」






伏黒くんの疑問に知らないわよ、と返す彼女の声を聞きながら、どくん、と跳ねた心臓の音と共に私の記憶はフラッシュバックする。どこか感じていた既視感はこれだったのか、と全てに納得がいった。揃って唸る3人に「プレゼントありがとう!今度またお礼するね!!」と叫びながら殆ど何も考えずに1年生の教室を飛び出した。後ろから声が聞こえるのに申し訳なく思いつつ駆け足で階段を駆け降りて、隣の少し古くなって物置に近い扱いの校舎の中に足を踏み入れる。ほんのり息を弾ませて、伏黒くんのくれた袋の持ち手を強く握り込む。階段を3階まで一気に上って、突き当たりの空き教室の扉を思い切り押し開けた。






「っ、五条くん!!!」






ぼんやり窓の外を見つめていた彼が振り向いた。私を見るなりぱっ、と花が咲いたみたいに笑って、到達おめでとう、と彼は讃えるように数回手を打つ。一瞬私には、彼が当時の学生服を着ているようにすら見えた。



「クソ面倒なたらい回しにされた結果此処って舐めてんだろ……」
「まぁ悟、先生のユーモアだよきっと。……面倒ではあったけど」
「途中までアンタら楽しんでたじゃん」
「うん……すごい元気だったよね2人とも……」



少し古くなった机に、端が削れた黒板。床の木目もいくつか剥がれていて、明らかに使用されなくなったその場所は、私達にとってはそれなりに思い出深い場所だった。五条くんが堂々と座る席の一つ後ろに腰掛けて、そこから見える綺麗な白髪に目を細める。彼はクツクツと喉を鳴らしてからゆっくりと振り返って「あん時は僕も尖ってたよねぇ」と楽しげに口角を持ち上げる。そうだね、と否定しない私を彼は暫く見つめてから、覚えてたんだ、と今度はただ嬉しそうに目を細める。





「……私、あの時夜蛾先生ってお茶目だなって気付いたから」
「まぁ良く言えばね。見た目はヤクザだもんあの人」





"あの日"の事はよく覚えている。……確か1年生の頃だったかな。まだ私達が完全に打ち解けるより前に授業時間になっても来ない夜蛾先生に代わるよう、教卓の上に手紙が置かれていた。そこに書かれた事に従うとまた違う手紙がどこかに隠されていて、またそこには場所の指定があったり、ちょっとした謎解きや呪霊退治なんかもしたんだっけ。最終的にもう一度はじめ座っていた教室に戻されてそこには先生が立っていて「案外早かったな」なんて言いながら大らかに笑われたんだ。

……日下部さんの態度から考えても、一通目の手紙の文字にも、思い当たる人間は実際彼しか居なかった。今回のバレンタインなのに皆から兎に角素敵なものばかりもらって労られてしまっているこの状態の元凶は間違いなく五条くんのせいなのだろう。これじゃバレンタインにならないよ、とぼやいた私に、好きな人に感謝を伝えるって意味なら間違ってないよと屁理屈を捏ねる彼は、何だか当時の様子と被って見えた。懐かしい、そんな思いが込み上げる中、久しぶりに顔を出したお日様が五条くんの全てを照らして、キラキラと身体中を輝かせている。……私は昔から、こうして変わらず彼の丸みを帯びた頭部を見るたびに、何とも不思議と満たされたような心地がしていたのだ。彼の隣は"彼"で、その後ろに座る私の隣が硝子だった。



ふとその机に視線を向けて彼女の定位置の上にも一枚の紙と付箋が置いてあるのに気付き、思わず手に取ると、タイトルに主張するように書かれた「健康診断」の文字と倒れるまでに来なさいよ、という直筆のメッセージに思わず苦笑する。これまた非常に硝子らしいプレゼントだ、ってことでいいのかな。五条くんは私の反応に面白そうにしながら「無理し過ぎだって怒ってたよ」と彼女の様子を私に伝えた。……今回の事は流石に否定は出来ない。仕事場に泊まり込むくらいの覚悟で臨むのは全くもって別に良いことでも誇れることでもないし、体に悪影響を与えるだけだ。




「一応聞いておくけど、今回の件は五条くんが?」
「そ。……と言っても最近捺が疲れてるからこの機会に愛を伝えよう!って提案しただけ」
「……私そんなに疲れて見える?」
「明らかにハードワークだね。この僕が捺からチョコを強請ろうと思わないくらいには」




彼の例えには説得力があった。日頃から甘いものが大好きな彼がこういう機会に私にチョコレートが欲しいと頼まないのは確かに少し妙というか……変だ。こう言うと私が自信過剰のように見えて気が引けるけれど、事実普段の彼を知る限りはこう思っても仕方ないと思う。そっか……と呟いた私にそうだよ、と五条くんは軽く私の額に指を当てて指先で軽く弾くと、それじゃ行こうか、と細長い体を伸ばして立ち上がる。彼は行くって何処へ?そんな気持ちが溢れて見上げた私の手を取って引き上げると、







「ランチ、良いとこ予約してるんだよね」






なんて、ニンマリと笑ってみせる。機嫌良さそうに鼻歌を歌いながら私の左手を導く彼の背中はこの廊下には似つかわしくないものだったけれど、こんなに嬉しそうなのを見ると何も言えなくなってしまう。バレンタインに当日に予約してランチなんて勘違いされて仕方が無いだろうに、当時じゃあり得なかった光景に絆されている私がいる。五条くんとなら、良いかな。そう思うまでいる私がいる。そしてこの時の私は、実際たどり着いたカフェはものすごくオシャレで素敵な場所だったことも、それ以上にランチを食べ終わった彼が「実はディナーも予約してるんだよね」と衝撃的な言葉を口にすることも、値段の想像すらつかない高級レストランで夜まで一緒のことも、キザなくらいの真っ赤な薔薇の花束を渡されることも、帰り際に今日だけでなく明日も彼の計らいで一日休みになっていることも、何もかも知らない無垢な少女に過ぎなかった。






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