傑に抱き抱えられながら運ばれてきた彼女の血の気の引いた顔と、垂れ下がる腕が頭から離れなかった。







すっかり日が落ちて月が顔を出す空を窓越しに眺めながら深い溜息を吐く。白に近い光が差し込んでちょうど照らされた時計の針はもうすぐ天井を指そうとしていたが、一向に眠気は襲ってこない。……捺の今日の任務は傑との呪霊退治だった。いつも通り適当に2人を送り出しては硝子に機嫌悪いなぁ、と笑われたり、揶揄い混じりの声に舌打ちして目を逸らしたり、特段変わったことは無かったのだ。……彼女の携帯にひとつの連絡が入るまでは。


そこに映し出された"夏油傑"の名前に硝子は首を傾げながら受話器ボタンを押す。初めこそ軽いテンションで「もしもーし」なんて返しながら出ていたが、次第その顔が歪み、静かな声で分かった、と言いながらも荒々しく携帯を閉じた姿に嫌な予感が肌を走った気がした。電話を終えるなり直ぐに走り出した彼女の後ろについて行きながら何があったんだと声を張れば「捺が怪我した」「出血が多い」「今から玄関に帰ってくる」と矢継ぎ早に硝子が紡いだ淡々とした報告に一瞬、その足を止めそうになった。捺が怪我?電話を掛けてきたのは傑だったろ、そんなに酷いのか?色々な想像が頭を回って、嘘であってほしいという願いだけで必死食らいつく。




玄関には既に夜蛾先生が立っていた。硝子は先生に連れられて直ぐに奥の部屋で準備をする事になり、俺はその場に置いて行かれた。焦る想いが拭えずにひたすらその場を歩き回っては玄関の淵を足先で蹴って音を立てた。落ち着け、落ち着け、そう自分に言い聞かせる気持ちが急いて仕方がない。途中で音に気付いた先生が顔を出そうとしていたけれど、丁度止まった黒い車とそこから出てきた血塗れの傑に俺は思考するより早く外に飛び出していた。傑は俺を見て「硝子は!?」と叫ぶように声を上げた。そこからは並々ならぬ緊迫感が伝わってきて、医務室だと答えた俺を振り切るみたいに傑は走っていく。一瞬、ほんの一瞬見えた傑の腕に抱えられた捺は青白く、だらり、と腕を垂らしたままで動かなかった。バクバクと信じられないくらいに心臓が音立てて動き出した。最悪の文字を脳裏に浮かべて、それを否定するように俺もアイツを追いかけるように続き、処置台の上に寝かされた捺に硝子が触れられるのを最後に目の前で扉が閉め切られた。


廊下に残されたのは俺とここまで運んだ傑だけで、俺たちの間には沈黙が流れた。べっとりと付着した赤は傑の腹のあたりにのみ広がっていて、それが彼由来のものではないことが直ぐに分かった。恐らくこれは、彼女の血だ。





「……何で、アイツに怪我させてんだよ」
「……っ悟、」
「なんで……ッ護ってねぇんだよ!!」
「…………本当に、すまない」





思わず掴みかかった俺を傑は止めなかった。彼はただ辛そうに一言「すまない」と謝るだけで、急速に頭に上った血が冷えていくのが分かった。直ぐに手を離して、絞り出すように…………悪い、と呟いた俺に傑はただ首を横に振るだけだった。



任務自体は成功だった。除霊対象の呪いは無事に祓い終え、高専に帰る途中の出来事だったらしい。元の任務よりも強い呪力の揺れを感知して向かった先にいたのは首を切られた老人と鋏のような腕をした呪霊で、既に人的被害が出ている以上、ここで祓い切ると決めたらしい。疲労した体では大分キツかったみたいだが、捺の術式で捕縛し、最終的に傑が押し切って祓った。……ここまでは良かった。その呪霊は置き土産として自らの腕を切り落とし、自らを捕まえている捺へと投げつけたのだ。本体を祓おうとしていた傑は咄嗟に彼女を助けようとしたがそれより先に「祓って!!!」と捺に叱責され、反射的に呪霊を珠に変えたのと同時に呪霊睨まきついていた彼女の影が溶け、どさり、と鈍い音と共に地面に伏した捺の腹部からは止めどなく血が流れ出ていたそうだ。



傑の説明を聞きながら背中を壁に預け、俯く。ギリ、と奥歯を噛み締めた音が周りにも聞こえそうだった。追い詰められた呪霊は捺が自分の動きを封じていると理解していたのだろう。彼女もきっと狙いがそれだと分かって自分の術式が解けるより早く傑が祓えるようにした。そう頭では分かっていてもどうしても納得出来ない何かがそこにはある。呪霊を逃さず祓いきる策としては正しい選択だ、でも、俺にはどうしてもそれを許容する事は出来なかった。何故アイツはもっと自分の感じる恐怖に従わないのか、何故、そこまで無茶をしてしまうのだろうか。グルグル渦巻く感情の整理が付かない中、やっと開いた扉からは疲労困憊した様子で汗を流す硝子と夜蛾先生が出てきて、詰め寄った俺たちに「生きてる」と一言告げた。途端に力が抜けて、ずるずるとその場に座り込み手で顔を覆う俺の背中に傑が軽く触れた。生きている、それ以上にあの時俺が求めていた言葉は無かった。








ふらふらと部屋を出て高専の廊下を歩いた。妙に落ち着かない気分を沈めるために水でも飲もうとしたけれど、俺の足は彼女の部屋の前で自然と歩みを止める。ほんの少しだけ開いたままになっていた扉にそっと手を掛けて、建て付け悪く鳴いた木に眉を顰めた。慌ててベッドの方に目を向けたが、その膨らみは動かず、ただそこに横たわっている。パタン、と閉まった扉の音を背後で聞きながら妙な緊張が込み上げ始めた。今まで彼女の部屋の中に1人で入ることなんて早々無かったし、ましてはこんな夜中になんて……どうも尻込みしてしまう。


それでも、どうしても彼女の顔が一眼見たくて足音と気配を殺しながらベッドの側に近付いた。肩のあたりにまで掛けられた布団の中で捺は静かに、大人しく寝息を立てている。規則正しく上下する体に言いようの無い安心感が体の中を巡った。さっき言葉では聞いたけど、こうして呑気な寝顔を見ると彼女が生きて帰ってきたという実感がやっと湧いてきたような気がした。




部屋全体をほんのりと染める月明かりに照らされた彼女の輪郭が、ぼんやりと揺らいだ。月光というスポットライトの下で眠る捺は、自身が生死を彷徨っていたのにも関わらず、底光りするような美しさを放っている。光のせいで小さな埃すらも輝きの一つかのように捺の上に降り注いで、その光景は神秘的だった。……不思議なもので、普段あんなにも彼女のあられもない姿を想像しているのにも関わらず、こんな時には少しも俺の腕は動いてくれないのだ。それどころか指先が微かに震えて、どうしようもなく狼狽えている自覚がある。


でも、触れたい。彼女の生を自ら手で確かめたい。そんな想いが相反して顔を出している言葉にも気付いていた。変な意味ではなくて、純粋に彼女の存在を感じたいと願っていた。少しだけ拳を握ってから軽く袖を引き、余計なものに当たらないように細心の注意を払いながらそっと、捺の手首に触れた。なんつーバカな事をしてるんだと考えつつも動脈に触れて、強く抵抗感のある脈拍を感じては大きく息を吐き出す。……寝てる女の動脈に触れるとか可笑しいだろ、普通。そんな自分に呆れつつそのまま離そうとしたけれど、ふ、と目に入った白っぽく煌めく彼女の睫毛に、柔らかそうな頬に、ピタリ、と動きを止める。





「……捺」




ぽつり、と彼女の名前を呼んだ。勿論今日死にかけた人間が直ぐに目を覚ます訳もなく、捺は俺の声に何の反応も示さない。ゆっくりと手首からなぞるように小さな掌に俺の手を重ねる。簡単に覆い隠せてしまうそれにはぁ、と熱い吐息が落ちた。暫くそのまま静止して悩み、頭を抱えながらも思い切って彼女の指の間にそろり、と自身の指を滑り込ませた。変態かよ、こんなとこ見られたらどうするんだよ、そうやって心の中でツッコミを入れながらも磁石のように寄せられる気持ちに逆らう事が出来なくなっていた。

更にベッドとの距離を縮めて、今度はマットレスに放射を描くように流れている髪に握っていない方の腕を伸ばした。一瞬、熱いものに触った時のように引っ込めようとしながらも、する、と毛先に通った指と突然感じる柔らかくて甘い匂いに鼻腔がくすぐられて頭の奥の方が溶けそうになった。艶めいて触り心地の良いそれを何度も撫で上げて、その行為に不思議な満足感を抱き始める。心なしか先程よりも、こうして触れてやる方が彼女の寝顔は力抜けた表情に見え、俺が口元を緩めてしまった。……可愛い。そう、どうしようもなく、可愛い。じわじわと駆け上り始める本心にグラグラと俺の中の天秤が揺れ始める。




……今なら、全て夢で片付けられるのではないか?悪意と下心を孕んだ俺が囁く。かと言って何をするんだよと普通の俺が言う。馬鹿やめろ全部終わらせる気かと善意の俺が忠告する。別に、変な事をしたい訳じゃない。ただ……もう暫く、このままで居たいと思った。頬と鼻の頭だけをぼんやりと色付けた陶器みたいに透き通る綺麗な肌。少し口を開いた、あどけなくて愛おしい寝顔。いつまでも見ていられそうな中毒性があった。




だが、髪を撫でる途中、不意に引っ掛かりを覚えた毛先に思わず俺は手を離していた。肩に近い部分に髪に赤黒く固まったそれが彼女自身の血液だと気付くのにそう時間は掛からなかった。そうだ、捺は怪我人なのだ。こんな所にまで付着した血液からほんの数時間前の彼女の状態を思い出して、つい押し黙ってしまった。そして、気付けば俺は彼女の側を離れていつの間に洗面所から温湯で温めたタオルを引っ張り出し、丁寧に拭い取っていたのだ。……別に、善人になりたい訳じゃないし、善意を押し売りするつもりはないけれど、誰であろうと自分の血だとしても、それが付いた状態で枕に寝るのは嫌だろうと思った、それだけだった。



必要以上に触れないように気を付けながら他にも付着していた固まったそれを少しずつ拭っていく。首筋にも点々としていた跡を拭いてやりつつ、ちらりと見えてしまった胸元から慌てて目を逸らした。俺は、そういうつもりじゃない、そういう事はしない、とブツブツ念じながら一体どのくらいの時間が経過したのだろうか。パッと見た限りの血の塊は取れた気がする。軽く疲労の息を吐いてからズレ落ちてきていた布団を肩まで覆わせ、膝に力を入れて立ち上がる。最後に見えた、ぷるりと震える唇に本能的に喉を上下させた自分の腕の内側を強く抓りあげて扉の方へと向かう。



……ドアを閉める直前。もう一度だけ振り向いて、月の位置が移動した事で顔の辺りを照らすように光の筋が入る彼女が、少し笑っているように見えてギュッと胸を鷲掴みにされながらも部屋を後にした。タオルの処理の為にもう一度洗面所に足を向けて、じわじわと自分の行為が恥ずかしくなってきた俺の歩く速度が増していく。何だよ今の、何だよ俺は!!気持ち悪ィ!!!ただ寝ているだけの女に乱されている自分が情けなくて、でもそれ以上に感じる充足感にぐしゃりと自分の髪を掴んだ。……あー、マジで本当……





「…………好き、なんだよなぁ」





自分の口から零れた声にハッとして口を覆っても遅くて、すでに音として響いたそれに今日一番のため息が出た。……救えねぇわ、なんて思いながら水で洗い始めたタオルのせいで赤くなる水が今の俺の感情を表してるみたいで無性に居心地が悪かった。このめちゃくちゃな気持ちも一緒に流してくれればどれだけ楽か、そう考えてしまう自分もまた面倒臭い自覚がある。








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