パソコン作業の途中でいつも以上に重たい腰を持ち上げてフラフラと廊下を歩く。自然と溢れるため息の理由は分かっているけれど、女である以上どうしようもない問題なので気持ちのやりどころが無かった。トイレから帰ってきても尚気乗りしない体調には嫌気が差してくる。ふ、と見た窓の外は私の感情とリンクしているかのような曇り空で癒しも何もあった物ではなかった。
何となく予感はしていた。今回はしんどいんじゃないかなぁという漠然としたその感覚は、案外当たることが多いと思う。少し前から夜になる度考え事をしてしまったり、理由もなく涙が溢れて苦しくなったり、兎に角始まる前から憂鬱だった。こういうのを「月経前症候群」と呼ぶのは知識としては知っている。……もっとも、自分に適用するのではなく、生徒との関わりの上で学んだ知識だけど。ホルモンバランスの関係で神経伝達に異常を来すとかなんとか。今まであまりこんなことはなかったのに、今回はまぁ、すこし、いや大分、疲れてしまっている。
精神的な不調は生理が始まってからはずいぶん治まって、腫れを誤魔化すために目元の化粧に時間を割くことも無いけれど、前は大変だった。涙の跡を隠すためにいつもより少し早く起きて化粧をするその作業がまた虚しく感じて、私は何をやってるんだろう、と漠然とした孤独感を抱いたり、それがきっかけでまた少し泣きそうになるのを堪えたり、大変だった。でも今は今で純粋な体調不良感に苦しめられているのだから女性というものは何とも度し難い。これをいつも経験している人も多いんだろうなと思えば、身につまされるばかりだ。
不意に一瞬、くらりとして足が止まった。仕事場まではもう少しなのに真っ直ぐ立っているのも辛くなり、壁に肩を当て体重を預けながら浅い呼吸を繰り返す。先ほど変えたばかりなのにナプキンに血液が付着していく特有の感覚に嫌気が差し、それを感じるごとに頭から血がどんどんと下っていくような気がしてならない。ずきずきと広がる頭痛と明らかな貧血症状に気力とやる気が削がれていく。戻らないと、そうやって焦る気持ちと裏腹にお腹の奥の方がぐ、ぐ、と痛んでいる。これは流石に本格的に辛いかもしれない……部屋に薬はまだ残っていただろうか。朧げな記憶を辿り、一度戻ろうとゆっくりと振り返ると、ぽす、と何かにぶつかった。
「あれ、捺?」
「……五条、くん」
ゆっくりと見上げたところにある顔にゆっくりと瞬きをする。見知った顔に何だかひどく安心して力が抜けて、ぼんやりと視界が潤んだ。五条くんは驚いたように口を開くとアイマスクを引き下げて「捺、」ともう一度私の名前を呼んだ。青い目が真剣そうにこちらを見つめて眉がキュッと顰められている。私の頬にそっと手を当てた彼は、顔色悪いよ、と呟いた。それに自然と唇が大丈夫、と応えようとしたけれど、深く、どこまでも続くような瞳が"何か"を訴えかけているように見えて途中でそれを止めた。ぎゅ、とほぼ無意識に彼の黒い服を掴んで、一言、ほんの少し戸惑いに震えた声で私は彼に、
「……分かった。よく頑張ったね」
優しい言葉だった。ぽすり、と頭の上に置かれた大きな手が落ち着かせるように動いて、それから少し蹲み込んだ彼は私の膝のあたりと背中に腕を通すとそのままひょい、と軽々抱き上げる。導かれるように彼の首に腕を回してぎゅ、と縋り付き、それを確認した五条くんはゆっくりと歩き始める。不思議とほとんど揺れは感じなくて体勢の辛さはあまり無い。……こんな時に思うのはどうかという気はするけれど、この距離で見る彼の顔は本当に綺麗に整っていて王子様みたいだなぁ、なんて考えた。色素の薄い体はキラキラしていて、彼はお姫様ですら見劣りしてしまうような罪作りな容姿をしている。ずっと見ていられる美術品のような美しさは私は勿論、どんな人にも勿体無い気がしてならない。
「……ん、どうかした?この体勢、しんどい?」
「……ううん、そうじゃなくて……寧ろ五条くん見てたら、なんだかあんまりしんどく無くなってきたなぁ、って」
「僕、セラピー犬みたいな扱いされてるの?」
くすくす、と冗談を言いながらも柔らかい視線を向けてくれる彼が心地良かった。伝わってくる体温につい目を閉じてしまいそうになるのを我慢していたけれど、大丈夫、大丈夫、と宥めるみたいに掛けられる声の低さに意識が段々遠くなっていく。ごじょう、くん、と最後に呼んだ彼の名前と「おやすみ」の声に抗う力は私にはもう残されていなかった。完全に暗くなった視界の中でも、確かにそこにいる彼の気配に体の力が抜け、そのまま私は全てを手放した。
「たす、けて」
シンプルな一言だった。でもこれは僕にとって結構衝撃的な出来事だ。廊下を歩いていると明らかに捺だと思わしき背中を見かけて近付いた。何なら少し驚かせてやろうかなんて考えていたけれど、突然彼女が振り返った時見えた真っ青になった顔色に全ての計画を破り捨てた。心配という感情に支配されながらアイマスクを下ろして直に彼女を見つめたけれど、うっすらと滲む汗や苦しそうな表情はいつになく辛そうで胸が痛い。頬に手を軽く添えて顔色が悪いことを本人に伝えてやると、少し驚いてから何か言おうと口を開いた……けれど、そこから中々言葉は出てこない。ただ黙って捺の声を待ち、やっと聞こえたそれは救いを求める声だった。
ぎゅ、と僕の服を掴んでほんのりと潤んだ目を向けながら言われた「助けて」にドク、と心臓が脈打つ。可愛かっただけではない。彼女が僕を頼ろうとした事が何よりも驚くべき事象だった。捺は昔から今まで何かと無理をするタイプで、怪我は愚か体調不良を自ら……特に僕に伝えるような人物では無い。変に我慢強いお陰でギリギリまで無理をして結果怒られる、そんな女性だった。学生時代は勿論、最近になっても彼女から「疲れた」「しんどい」なんて愚痴すら僕は聞いたことがなかった。それが、どうだ。
「……分かった。よく頑張ったね」
考えるより先に僕は彼女を労った。服を握る力が少しだけ強くなる、ゆらゆら揺れた捺の瞳を見つめ返してから、そっと、できるだけ負担のかからない様に抱き上げる。抵抗は無かった。首に腕を回す様に促してゆっくり、足音を殺す様に床を歩き出す。こんな事をされて何も言わないところを見ると余程苦しいんだろうな、と思いながら静かな高専の廊下を進み、ぼんやりと灯る暖かな感情に少しだけ口角が緩んだ。彼女が辛いのに喜ぶのは良くは無いんだろうけれど、正直物凄く、嬉しい。
人が誰かに素直に助けを求めるのは案外難しい事だと思う。僕だって特に捺の前だとカッコ付けたくなるし、弱い所なんて見せたく無い。……でも、前に彼女が僕の作ったパンケーキを受け入れてくれた時に少しだけ分かった。人に、自分の弱みを見せても良いんだと。捺がそう教えてくれたんだ。それを曝け出すのも信頼の証なんだと学ぶことが出来た。……今回のことも真意は彼女にしか分からないけれど、もし、少しでも捺にとって俺が、頼ってもいいと思える人になれているのなら、これ以上嬉しいことなんてそうそう無いな、とすら思えた。僕の腕の中で眠る捺は童話のお姫様みたいに綺麗だ。その服装は煌びやかなドレスでは無くて寧ろ正反対の黒スーツだけれども、頑張る人は美しい、とでも言おうか。僕にとって彼女以上に素敵な女の子は他にいやしないのだから。
……暫く校舎を歩いて、高専で落ち着いて休める場所なんてあそこしかないか、と踏み入れたのは硝子の控える医務室で、彼女は僕の姿を見るなりギョッと目を見開いていた。失礼な反応だなと思ったけれど抱える人物の顔を見て分かりやすく顔を顰め、ベッドに降ろせとジェスチャーしてきた。ハイハイ分かってますよ、と丁寧に、少しの苦しさも与えないようマットレスに彼女の体を降ろして服を軽く整える。直ぐに近くに来た硝子に場所を譲るように一歩退いて「理由は聞いた?」と矢継ぎ早に飛んできた質問に首を横に振った。あぁそう、と相変わらず淡白な返事をしつつ引いたカーテンの奥から聞こえる2人のやり取りに、申し訳ないと思いつつもそっと耳を澄ませて、捺の苦しみの原因を悟る。これは僕には計り知れないものだからなぁと少し悩みながらスマホを取り出して某先生に何度か検索を依頼する。ボックスに入れる文字は「生理 彼氏 して欲しいこと」あたりが妥当だろうか?複数出てきた、如何にも女性向け!って感じのサイトを巡って目星をつけながら、一応硝子に連絡を入れて僕はこっそりとその場を抜け出す。目指すべきは薬局とコンビニだ。
ふ、と浮上していくような感覚を覚えて瞼を持ち上げる。ぼやけた視界に少しずつピントを合わせて一番に見えたのは白いカーテンだった。そして直ぐ隣にはパイプ椅子に座りながらも私の眠るベッドに上半身を預けて眠る五条くんの姿がある。どうして、と思ってすぐに自分が彼に向けた言葉を思い出して息を吐き出した。きっと気を遣わせてしまっただろうな、と申し訳ない気持ちで一杯になる。……が、彼の手が私の右手をぎゅ、と包むように握っているのに気付いて少しだけ息を飲み込んだ。
「起きたか限界女」
「……硝子、わたし……」
「コイツが運んだ。ココアもあるから薬だけ水で飲んだ後はこっちにして、寝ときな」
「あ、ありがとう……でも私まだ仕事が、」
少し空いたカーテンから硝子が覗き込んできたのを見るに、ここは医務室らしい。やけに甲斐甲斐しい対応に戸惑いつつ、私が仕事置いたまま来てしまった事を伝えると「終わってるよ」と端的な答えが返ってくる。え?と思わず溢れた言葉に彼女は少し鼻で笑い、そこの大男に感謝しときな、なんで言いながら私のベッドの側を離れていく。大男、と呼ばれた彼に目を向けたけれど五条くんは未だ動く様子はない。……確かに、残っていたのはこの前彼と行った任務の報告書だったけれど、まさか、本当に?未だ信じられず、ついじっと穏やかな寝顔を見つめてしまったが、帰ってきた硝子に缶のココアを目の前に差し出されたので慌てて視線を逸らした。
「あの五条が文句言わずノートパソコン開いて作業してたよ。概要は伊地知に聞いてたし多分間違ってないと思うけど」
「……うそぉ、」
「ついでにこのココアも薬も……後まぁカイロとかも向こうに置いてて、全部コイツ持ち」
愛されてんねアンタ、とクツクツ楽しそうに喉を鳴らした硝子はそれだけ言うと、また直ぐに自分の定位置へと戻っていってしまう。私としてはまだまだ聞きたいことが山ほどあるのだけれども、それを許してはくれないらしい。それか本人に聞けってことかもしれないけれど……まさか、こんな事になるなんて思いもしなかった。
静かになったベッドサイドで改めて五条くんを見つめる。すやすやと寝息を立てている彼は少しも疲れた顔をしていない……寧ろ、どこか清々しいくらいの爽やかな寝顔だ。負担になっていないかだとか、迷惑をかけてしまったとか、そんな事ばかりが頭を回っていたけれど、そんな思考が少しずつ溶けていくのを感じる。
「……ありがとう」
今は多分、届かないであろう感謝を口にする。聞こえないと分かっていても、どうしても直ぐに伝えたくなってしまった。後でちゃんと謝って、もう一度ありがとうも言おう。そう心に決めつつぎゅっと彼の手を握り返した。多分これも不安に思わないようにだとかそういうことなんだろうな、なんて考えながらベッドに体を預け直した。私の、たった一言の"助けて"にここまで手を差し伸べてくれる彼を優しい人だと言わずして何と言おうか。ぽろり、と頬を伝った一粒の雫を手の甲で拭った。
生理中って何でこんなにも涙脆くなるんだろう。そんな事を考えながらそっと目を閉じた。次に起きた時にはきっと、彼の青い目に迎えられる。そう信じながら。