最初は、そんなに悪い日ではないと思っていた。任務に出る時間が早くていつも見ているニュース番組が見れなかったり、皆が寝ているか、ベッドでゴロゴロしている時間帯には着替えて一人で門を出るのは少し寂しかったけど、いつも送ってくれる学生担当の補助監督さんから労いの言葉を受けて頑張ろうと思えた。私の為にこんな時間から待っていてくれたんだなぁと思うと申し訳ない気持ちも大きかったけれど、少しでもそれに報いようと心に決める。窓から見えた空には六月にしては珍しく晴れ間が見えていて、天気も私を応援してくれている!なんて自ら気合を入れた。のに、これはどういうことだろうか。
任務自体はすぐに終わった。二級呪霊の捜索と排除はそんなに重くもなかったし、朝が早かった分、終わる時間も結果的に早くなった。送ってくれた補助監督さんに迎えに行きますよ、と言われたけれど今朝の感情が抜けきらなくて、買い物してから帰るので大丈夫です、と丁寧に断った。最後まで彼女は心配してくれていたけれど、そんなに遠い現場でも無いし、と、鷹を括っていたのだ。
特に目的もなく彷徨ったショッピングセンターを出た時、ポツリ、と頬に何かが触れた。まさか、と思って見上げた空には分厚い灰色の雲が掛かっていて嫌な予感がヒシヒシと伝わってくる。……早く帰ろう、と一人頷いてバスに乗り込み、高専に一番近いバス停まで席に座っていたが、窓を濡らし曇らせていく水滴にどんどん降りるのが憂鬱になってくる。周りの少ない乗客はカバンから色取り取りの折りたたみ傘を取り出していたけれど、生憎私の鞄にそれは入っていない。朝が忙しいと分かっていたのだから昨日のうちに干していた傘を入れ直しておくんだった……と少しのズボラに後悔ばかりが募った。深々とため息を吐きながらそっと降車ボタンを人差し指で押して、完全に止まるまでお待ち下さい、という形式的なアナウンスを聞き流す。必要な分のお金を入れて、蛇腹になったドアから一歩踏み出す私の手に傘がないことに運転手のおじさんが憐れみの目で見てきたような気がした。
一応は、まだ小雨に入ると思う。多分。そう言い聞かせながら高専への道のりに目を向けて拳を握った。これが本降りになる前に山道を抜けて階段を登り切るしか道はない。意を決して私は足を前に踏み出した。そばに流れる小川の音が普段より少し激しいような気がする。山道に自然とできる水溜りの出来るだけ浅いところを通りつつ、確実に登っていった。人が歩ける道とはいえ滑りやすい斜面だったので、足に力を込めながら踏み締めるように歩いていくが、その度に靴の中にまで雨水が染みて、靴下がぐっしょりと嫌な感覚に包まれていくのが分かる。それに加えて雨が降ってもじっとりと暑いこの季節、あぁ、早く帰ってシャワーでも浴びたい気分だ。
そうしている間になんとか歩き切った私の前に立ちはだかるのは、一段一段が低く、物凄い段数のある反り立つような階段。こうして見上げるだけでも気が遠くなる。中々足が進まず止まっている私を嘲笑うように雨足の強さは増していき、そろそろ気にせず歩くのが辛いぐらいになり始めた。このままここに居ても仕方ない、と、急な傾斜のそれに挑み始めた私に試練を与えるような本降りは前髪の膨らみを奪い、顔に張り付かせていく。その不快感から逃れるように必死に足を動かし、羽織っていた上着を頭上に掲げて傘代わりにしながらなんとか登り、やっと頂上にたどり着いた。既に水を吸ってぐっしょりと重い高専特有の黒い上着は正直大して雨を凌げた気がしない。下に着ていたシャツもずしりと普段より冷たくて重く感じた。
入口が徐々に近づいてくる。やっとだ!と走り込む私の視界にぼんやりとした人影が見えた。玄関近くの廊下にこちらを見つめる誰かが立っている。暗いところでも目立つ白髪、ひょろりと高い身長、呆れた表情で此方を見つめる彼は紛れもない五条くんだ。絶対こんな姿バカにされるだろうな、と思い、つい苦笑したけれど仕方ない。それだけのミスだ。何やってんだよ、とでも言いたそうな彼だったが、何故か次第に元々大きな目をギョッと見開いて更に大きくさせていくのが見えた。あんぐり、と口を開けて彼が手に持っていたペットボトルが床を転がる。どうしたんだろう、と不思議に思ったがそれ以上にやっと高専に戻ってこれた安堵感が強くて玄関の敷居を跨いだ瞬間に思わずはぁ〜……と深い息を吐き出す。
「つ、かれたぁ……」
「おまッ……!」
あんまり人前でこんなことを言うのはどうかと思ったけど、抑えられなくて零れた愚痴に被さるように五条くんが声を挙げた。た、ただいま……と取り敢えず曖昧に笑いかけたが、彼は何も返すことなく私をただ呆然と凝視している。そんなに滑稽だろうかと悲しくなったけれど、一先ずびしょ濡れの靴と靴下を脱いで廊下へと上がり込む。靴も今度干さないと、と思いつつ、ずっと続いている雨を思うといつ乾かせるのか不安だ。今度はちゃんと天気予報見ておかないとなぁ。
「っオイ、な、んでそんなことに……」
「あ、傘忘れちゃって……今日の任務天気予報もまだやってない時間に高専出ないと間に合わないから、」
「そうじゃねぇよ馬鹿!!」
怒鳴るように私に凄い剣幕を見せる彼にびくりと肩が震える。また私が何かしてしまった!?でも全く身に覚えがないどころか任務で居なかったのに……間接的に彼に危害を与えてしまったのだろうか?困惑する私に盛大な舌打ちをした五条くんは突然自身の上着を荒々しい手付きで脱ぎ始める。流石に驚いた私が代わりに声を上げたけれど、それに構うことなくシャツ姿になった彼は半ば押し付けるように、私のものより随分大きなそれを渡してきた。何か言う間も無い出来事でぽかん、と開口する私に、さっさと着ろ!!と五条くんはまた大きな声で言う。でもこれを今着てしまったら絶対に濡らしてしまうのは分かり切っているのでふるふると首を横に振ると「ッ〜〜!!」なんて、声にならない怒りを見せながら今度は一度渡した上着を私の手から奪い取り、ほぼ強制的に背中から覆い被せられてしまった。慌てる私なんて構いもせずにぐいっと前を引っ張りながらすっぽりと五条くんは自分の上着で私を包み込んでしまう。「五条くん、」と彼の名前を呼んでこのまま羽織ると濡れてしまうことを伝えようとしたけれど、突然廊下の奥から掛けられた声にそれは遮られた。
「悟?こんな所で何を……って、捺もいるじゃないか。今帰ってきたのか?」
「夏油くん……!う、うん、そう、なんだけど、」
「傘をいつもの所に掛けたままだったから心配…………」
「……」
夏油くんの声を必死に耳に入れながら背伸びを試みたり、頭を横に出してみるけれど中々会話に集中ができない。……そう、私の前には五条くんの大きな大きな背中が立ちはだかっていた。初めは隣にでも出ようかと思ったけれど、五条くんはそれを察知するように体を動かして一向に私を夏油くんの前に出そうとしなかった。よく分からない嫌がらせ……のような物に更に困惑する私が彼にも伝わったのだろう。夏油くんは話の途中で黙り込んでしまった。
「……悟、お前がそこにいると物凄く捺と話し辛いんだけど……」
「分かっててやってんだよ。どっか行けお前、今すぐ」
「え?何、告白でもするつもり?」
「な訳あるか!!いいからサッサと、」
二人が言い合っている間にひょこり、と半身だけ五条くんの背中から体を出すことに成功した。夏油くんはすぐにそれに気付いたけれど、一瞬さっきの彼みたいにキョトン、と目を丸くする。それから五条くんに目を向けると合点がいった、と言わんばかりに口角を引き上げてなるほど?とニヤニヤと笑い始めた。五条くんはその反応で私が見えていることに気付いたのか私の頭を掴み、ぐいっとほぼ無理矢理さっきの定位置へと押し込んだので、また私の視界は彼の白シャツでいっぱいになってしまう。
「"そういうこと'"ね。すぐに硝子とバスタオルを持って来るよ」
「……寄り道すんなよ」
「しても面白そうだけど……捺が風邪を引くといけないしね」
「うるせぇ死ね」
ハイハイ、と何処か楽しそうに夏油くんは五条くんの前から去って行ったけれど、私は変わらず彼の背中に拘束されたまま彼らが帰ってくるのを待つことになった。何度か脱出を試みたけれどすぐに五条くんに止められ、動くなと怒られてしまう。一体彼は何がしたいのか全く分からなくて頭に散々クエスチョンマークが浮かんだ。たまに廊下を通る後輩や先生にはマジマジと変な目で見られていたけれど、それでも五条くんはその場から動かなかった。暫くしてから夏油くんは言葉通りに硝子とバスタオルを持って現れて、硝子は五条くんの後ろに回り込んで私の頭にバスタオルを掛ける。先程まで散々邪魔するように動いていた五条くんは、硝子の行為には何もせずにそのまま立っているだけだった。更に疑問を感じたが、シャワー行くよ、とそのまま彼女に手を取られて引っ張られてしまい、結局最後まで彼の行動の意図は分からなかった。しかしその後、脱衣所で硝子に五条くんの上着を剥ぎ取られた時に鏡に映った自分の姿に思わず、愕然とすることになる。
「わぁーお、これは予想以上」
「な、何これ!?」
ピッタリ、という言葉が最適なほどに張り付いた白シャツは私の思っていた以上に体のラインをハッキリと映し出していた。所々に肌色が透けて、極め付けには水色のブラが完全に見えてしまっている。すぐさまフラッシュバックするのは五条くんのギョッとした反応で、すぐに顔が真っ赤に染まった。さ、最悪だ……!五条くんになんてものを見せているんだ私は……!!あまりのダメージにへなへなと壁にもたれかかってしまった私にサービス旺盛じゃん、とケラケラ他人事のように笑う硝子がひどく憎らしかった。これから五条くんとどんな顔して会えばいいのか全く分からない。やっぱり今日は最悪の日だ。
捺が硝子に連れられていくのを見送ってからハァ……とその場にしゃがみ込む。玄関の段差に腰掛けて頭を抱える俺の背を軽く叩いてから「おつかれ」と傑が笑った。笑い事じゃねぇんだよこっちは、と睨んだが大して堪えていないらしく、そのまま傑は俺の隣に腰掛けた。
「優しいじゃないか"五条クン"」
「……っせぇな」
「怒るなよ。これでも褒めてるよ」
明らかな揶揄いの声を跳ね除けるように吐き捨てる。俺だってまさかアイツがあんな格好で帰ってくるなんて思いもしなかった。雨の中やけに走ってくるヤツを見かけて、とんだ馬鹿も居るもんだなと思っていただけなのに、近づくにつれてそれが彼女だと分かった。一瞬、それこそ揶揄ってやろうかとも思ったけれど、徐々に鮮明になっていくその姿に愕然としてしまったのだ。普通なら清潔感を与えるであろう白シャツが今ばかりはとんでもないモノに見えて仕方がない。彼女の体に艶かしく張り付いて肌を透かせ、挙げ句の果てには明らかな……下着、を、まるで主張させるように浮き立たせているのだ。目の前にまで飛び込んできた捺は呑気に疲れた、なんて呟いているがこっちはそれどころじゃない。思わず、ぽたぽたと毛先から落ちる水滴が首を伝って、ただでさえ濡れているシャツの中に滑り込んでいくのを見つめた。目が離せない。最悪だって自覚は散々あるのに、性と言うモノは恐ろしい。それを追いかけるように鎖骨、胸元、と視線を下ろして、水色か青か寒色らしきソレをマジマジと見つめた。普段からこんな色のを着てるのか、とか、シャツが白いレース部分にも張り付いて細かい花の模様まで綺麗に見えてしまっていることとか、マジで頭がパンクしそうだった。
明らかに見てはいけないモノなのにごくりと喉を鳴らして唾を飲み込む。……下着もそうだが、その膨らみを示すように山なりになり、中間で谷を作る胸元自体もヤバい。思ったよりでけぇ。なのにそれを支える腰は俺が両手で掴めそうな程くびれていて信じられないくらい、こう、そそられる。よくこういう写真は雑誌で見るけどそこの女優なんかと比べ物にならないくらいに興奮する。靴を脱ぐ時なんか余計に上乳がめちゃくちゃ見えてどうにかなりそうだった。
あまりのエロさにしばし呆然としていたが、捺自身は自分の状態に少しも気付いていないのか何の恥じらいもなく俺に話しかけてくる。このままではその格好のまま廊下を歩いて行きかねないと慌てて自分の上着を押し付けたが、ものすごい困り顔で首を横に振ったのでほぼ強制的に羽織らせた。こんな状態のコイツを他の奴に見せてたまるか。俺が見た男をぶん殴りかねないぞとか考えていたら向こうから傑が歩いてくるのが見えて慌てて捺を俺の後ろに押し込める。よりによってコイツかよ!早く向こう行け!と警戒しつつ一番と言っても過言でないくらいに見せたくない人種から視線を切ろうと必死の努力をするも虚しくこうしてバレてしまった訳だ。まあバレなきゃそれはそれで俺が捺を風呂まで送るハメになったし結果悪くはなかったものの……さっきのシャツだけのだけは絶対に見せたくなかった。アイツが俺以外にそういう目で見られてオカズにされるのは気に食わない。
「……お前にだけはぜってぇ見せたくねェ」
「別に見たくない……とは言わないけど、そんなに心配しなくていいのに」
「そこは見たくないって言えよ変態」
「男ならこんなもんだろド変態」
そうこう話しているうちに捺を送り届けた硝子が来て「可愛いの付けてたじゃん、あの子」だとか爆弾落として去って行ったもんだから、傑にはまた散々弄られてクソめんどくさかった。こうして割と酷い一日になったが夜はめちゃくちゃ、それこそ過去一ぐらい気持ちよく出せたからそれは最高だった。…………とはいえ、当たり前だが、これ以降暫くお互いに顔合わせるのがとんでもなく気まずかったし、二日後くらいに丁寧に返された俺の上着は甘ったるい柔軟剤の香りに包まれてて全然落ち着かねぇし着るに着れなくなったのを踏まえるとやっぱ最悪の日だったのかもしれない。