「好きだ」
たった三文字。空気を震わせたその言葉に目の前に立つ捺は少しずつ目を見開いていく。日が傾いて夕闇が覆うこの瞬間に差し込む光を受けて輝いた彼女の髪は俺の忖度を抜きにしても物凄く綺麗だと思う。静かな廊下に俺と彼女の呼吸の音だけが響いているみたいで、酷く居心地が悪くて落ち着かない。五条くん、と呟いた捺の声も緊張しているのがすぐに分かった。一歩、ほんの少しだけ彼女との距離を縮めた。反射的に逃げようと下がったのを格好悪く引き止めるように手首を捕まえて、揺れる瞳を見つめ返す。そりゃあ驚くよな、と内心一人で納得した。今までの俺は彼女にそんな振りを見せたことなんて殆ど無かった筈だ。しょうもない意地とプライドと……ある種の怯えがあって、少しも素直にしたことはないだろう。
捺は知らない。俺がお前を見る度に息が苦しくなることも、目が離せない癖に視線が合いそうになると逸らすことも、何があっても怪我をさせたくないことも、何もかも、知らない。……下世話な欲求の対象にされている事なんて特に理解していないだろう。それでも、どうしても今、伝えたくなってしまった。いつか消えてしまいそうな、どこかに行ってしまいそうな、そんな捺の横顔を見ているうちに伝えないといけない気がした。全てが手遅れになる前に、俺の気持ちを知って欲しかった。あまりの衝撃に暫く黙り込んでいた彼女は不意に「今の、ほんと?」と俺に尋ねた。バク、バク、と動く心臓をどうにか押さえつけながら、こく、と小さく、弱々しく頷くと、キラキラした目が俺にまっすぐ向けられる。可愛いだとかそんな言葉で片付けられないくらいのそれに口の中がカラカラに乾いて何度も唾を飲み込んだ。
「わたしも、好き」
「……!!」
「私も、悟くんが、すき」
今にも涙が零れそうなくらいに潤んだ目で告げられたそれに、思わず彼女を抱きしめた。早鐘みたいな拍動が伝わるのがダサい事なんて分かっているのに、止められなかった衝動で頭がいっぱいになる。暖かくて、柔らかい。捺、と口にした名前に自分の声か疑うくらいに柔らかく、甘い響きが篭っているのが分かった。俺よりもずいぶん小さな彼女を腕の中に収めるのは容易だ。俺を見上げるために持ち上げられた顔と艶のある唇にごく自然な動作で体を屈める。溢れんばかりの感情を込めて俺はそのまま捺に……
ピピピ、と無機質なアラーム音が広がる。柔らかいものに寄り付くように体を動かして熱を求めた。捺……と落ちた愛しい相手の名前を咀嚼して、ふ、と我に帰る。勢いよく体を起こして辺りを見渡したがそこは廊下ではない。よくよく見慣れた自室のカーテンの隙間から注がれる光はオレンジ色ではなく、白く澄んだもので朝の陽気を感じさせた。混乱する頭のまま時間を確認したが確かに普段通りの起床時間で、ルーティンの如く体を動かして制服を見に纏いながらも頭の中はさっき迄のぼんやりとした記憶が支配している。悶々としながら床を鳴らし、教室に行くまでの間に傑が立っていたので意を決して「俺と捺って付き合ってるっけ?」と尋ねたら物凄く憐れみの篭った顔で見られてしまったので恐らくあれは夢だろう。捺も別に俺を見てソウイウ反応はして無かったし……つーか夢にまで出てくるとかどうなってんの?俺アイツのこと好き過ぎないか?と自分のことながら中々気持ち悪くなってくる。夢の中の俺は今の俺より幾分か素直で勇気のある奴だったのもなんというか、こう、腹立たしい。俺だってその気になれば……だとか他人の前で御託を並べるのは簡単だけど、それを実行するのがとてつも無く難しいことは分かっている。現に今の俺は少しも彼女に告白しようなんて思えないし、無理だと分かっている。所詮夢は夢なのだ。俺の都合の良いように展開が進んで、都合が悪いところに移る前に終わる。皮肉だな、と高専の古い窓枠に腕を掛けて外を見た。任務もない授業だけの日は信じられないくらい退屈だった。
「……五条くん?」
不意に呼ばれた名前にびく、と体を揺らす。右を向いた少し先に立っていたのは捺だった。遠くで烏が鳴く声が聞こえて、沈んでいく日の前を横切るのが見えた。じわり、と汗が流れる。夏だからだろうか、それとも、この光景に酷く見覚えがあるからだろうか。何も言えず立ち尽くす俺に「空を見てたの?」と少し笑いながら問いかけた彼女もまた、真似るように体を乗り出して橙と藍が混ざる不思議なそれを見上げている。透明感のある瞳の中に夕陽が反射して息を呑み込んだ。夜に移り変わろうとするこの時間帯が、まるで捺のために存在しているかのような錯覚に囚われる。それほどまでに、彼女は美しかった。穴が開くほど見つめる、というのはこういう事を言うんだと理解した気がする。目を逸らせない、離せない、そんな魅力がそこにあった。テレビに出演する女優とかコンビニに置いてる水着の女が表紙の本よりももっと、俺を昂らせる何かがそこに存在する。
「凄い……!綺麗だね」
「……あぁ」
お前の方が綺麗だよ、なんて馬鹿げた台詞。俺には一生縁が無いと思っていた。クサくて、見てるこっちが恥ずかしくなるような恋愛漫画とかで出てくるアホみたいな描写。吐き気がするくらい苦手だった。それがどうだ?今俺は彼女にならそれを言っても良いとすら思っている。だって、そうなのだから。俺が見ていたいのはこの夕焼け空でも、見え始めた星でもなくて、捺なのだから。途端に今朝の夢で見た俺の姿がフラッシュバックする。込み上げるような緊張と動悸が指先にまで伝わった。まるで何かを予期していたかのような夢だった。同じようなシチュエーション、同じような空気、奇跡のような確率で目の前に広がっている。違っているのは、蒸し暑いジクジクと毒のように広がる熱と、夏特有の湿気た匂い、そして、彼女の首に伝う汗がリアルに俺を刺激してくる事だけだ。包み込むような、言語化するのが難しいひぐらしの声が高専の周りを取り囲んでジリジリとした焦燥感が掻き立てられる。言いたい事なら山ほどあるのにそれを伝える術を俺は知らない。いっそ、この想いをお前が覗き込んでくれたならどれだけ良いか、そう思ってしまうのは俺が子供だからだろうか。
「……夏の夕方って、何だか寂しくなるよね」
「……何だよ、急に」
「何となく、そう思って」
ふっ、と呟いた彼女に、押し出すようにして言葉を返した。一人で見ると、切なくなるんだよね、とぼやくその気持ちは何となく理解は出来た。一年の内でも明るい時間が長い分、夜が覆う時間帯になるとその日の疲労と共に重くなる体と足元に伸びる影法師が恐ろしい物のように感じたことがあった。そんな記憶も、俺にとってはもう随分昔のことだが彼女にとってはそうでも無いらしい。……影使うんだから夜の方がいいだろ、と突くように言った言葉に捺は数回瞬きしてから曖昧に笑う。彼女は、そうだね、と一度は肯定して、それから少し言い淀んでから改めて口を開く。
「だからこそ、かなぁ」
「……どういう意味だよ」
「影が多いと、もし私が操り切れなかったらとか、飲み込まれたらとか……そういうの考えちゃうっていうか……」
私が弱いからなんだけどね、と自嘲したように俯く捺にグッ、と眉間に皺が寄った自覚がある。オイ、と発した声はその一音だけでも相当な迫力を持ち合わせていた。しまった、と露骨に体を縮めた彼女は俺がこの手の話題や言い方に良い気がしないことをすっかり理解しているらしい。それはご苦労なことだ、と思いつつも俺は俺で言うのを辞めるつもりは無いが。
「んなこと考えながら使って強くなれる訳ねぇだろ」
「……だよね。分かってるんだけど、でも、」
「大体お前みたいな術式が暴走したところで俺ならどうにでも出来るっての」
「そう、なの?」
「そうやって面倒な事考える暇があんなら全力でやりゃいいんだよ馬鹿」
お前雑魚だしな、と付け加えた俺に捺は目を見開いた。その視線が居心地悪くて逸らした俺に構わずに見つめてきた彼女は何かに納得したように頷くと……ありがとう、と簡潔に礼を述べる。俺に並ぶようにして外を見つめる横顔はここに来た時より大分スッキリとした爽やかな物に変わっていた。別に?と我ながら捻くれた答えだったが彼女はそれに言及はしなかった。
「五条くんのおかげでこの時間、好きになったかも」
「はあ?」
「って言うか"かも"じゃなくて、好き、かな」
「……俺は元々嫌いじゃねぇし」
俺のどうしようもない態度に対して、そっかぁ、と破顔するそれが無駄に可愛いのがムカついた。たった三文字を遠回しに飾りつける俺の方がよっぽど馬鹿だってことぐらい、自分が一番分かってる。ほんの数分で表情を変えた空がゆっくりと俺達の上を覆い尽くしていくのは神秘的な光景だったが、それを掻き消すように暗くなった光の灯っていない廊下の奥の方で硝子が飯の時間だと捺を探す声がした。彼女もそれに気付いたのかそっと窓から離れるとはーい、と大きな声で返事をしてから俺の方に向き直る。ご飯いこっか、と笑顔で誘った彼女が床もロクに見えない中、一足先に歩き出そうとしたが、そんな捺の手首を掴んで止めて、代わりに俺がその腕を引くようにして前を歩いた。まだほんの少しだけ顔を出していた夕陽のおかげで見えた一瞬の表情が固かった。……それだけの理由で。すぐ変われたら人間は苦労しない、彼女にもまだ根本的な暗闇の恐れがある。それにも関わらず無理しようとするのが捺だった。「馬鹿だろ、やっぱ」思わずそう言った俺を彼女は否定しなかった。……ごめんね、ありがとう、と微かに聞こえた返事に握る力を強くして答えた。大した予知夢じゃないか、と自嘲しつつ古い校舎を堂々と踏み締めて歩いた。……これで好きだ、も、無理するな、も、全部伝われば良い。無茶な願いだと分かっていても、素直になれない俺はそう願うしかなかった。