なんとなく、そんな予感はしていた。






生徒達と笑っている時の彼女話は普段と特段変わらないように見えるけれど、ふと、ほんの少し後ろ髪が跳ねているのを見つけて眉を寄せた。捺は昔から真面目だ。制服の類を変に着崩したり、適当な髪で任務に臨んでいるのは殆ど見たことがない。だからこそ、彼女がこうして普段とは違う様子であるという事実に胸が騒ついた。悠仁に手を振って離れてから暫くして肩を落として厳しい顔を浮かべたのを見てそれは確信に変わる。……最近の捺は明らかに疲れていた。



自販機を眺めて迷った末、スポーツドリンクを買った。ここでコーヒーなんて買えばもっと働け!と言っているようなものだし、僕はそれを望んでいない。それどころか今すぐ休んで欲しいところだ。すっかり暗くなった廊下と並ぶ教室の中に一つ、蛍光灯がバッチリついた部屋があるのに一人息を吐き出した。確実に彼女だろう。少しずつ近づくにつれてカタカタとキーボードを操作する音が大きくなっているのが分かった。明暗順応が可笑しくなるくらいの外との明かりの差に目を細めつつ、小さな背中をじっと見つめた。暫くブラインドタッチを続けては勢いよくエンターキーを押してまた画面と睨み合うその姿は普段の穏やかな捺とは中々結びつかないものだ。時たま息を吐き出しているか心配になるくらいに集中している彼女は遂には後ろに腰掛けた僕にすら気付いていない。いつもはきっちりと伸ばされている黒のジャケットには薄く皺が入っていた。


無理をしやすい女だった。自分の出来る範囲以上のことを無理にやろうとして、一人になった時に辛くなる。彼女はそんな人間だった。そしてそれを他人に簡単に見せようとしない、強情な人間なのだ。そういうところもまぁ……骨があって嫌いでは無いけれど、間違った方向にその才能を使うのは感心しない、というか、やめてほしい。本当は途中でガス抜きさせてやるのが一番なんだろうけど何かと彼女は無理をするのが"得意"でもあった。流石に僕は分かるようになって来たけれど、正直他の奴が見てもかなり気付くのは難しいと思う。捺は他人に助けを求めるのが苦手だった。それは別にこうして追い詰められている時だけじゃなく任務に出た時もそうだ。僕が適当に呪霊を払ってる間に何故か足に怪我をして血を流しながら帰って来た事もあった。本人は無駄に冷静だったけどこっちはそうもしてられなくて、恥とかそういうの全部捨てて硝子のところまで抱き抱えて走ったのはずっと忘れられない思い出だ。嫌な、ね。



そんなことをぼんやり考えつつ滑車付きの椅子を足で漕ぎながらすっかり彼女の真後ろにまで来たけれどやっぱり捺は少しも気付かない。どうしたものかな、と足を組んだけれどこれを渡して話を聞く為には彼女に気付いてもらう必要がある。ほんの少しの悪戯心を込めて一思いにバッ、と彼女の目を塞いだ。ひっ!?っと高い声を上げて体を大きく跳ねさせた姿は見ていてすごく可愛らしい。だーれだ、と、耳元で意図的に低めの声で囁いてやれば、捺はもっと体をビクつかせる。……ごじょう、くん……?なんて、恐る恐る呼ばれた名前にニヤケながら「せーかい!」と目隠しをやめると未だ驚いたのが抜けきらないような表情で彼女は僕の方に向き直る。少し乱れた前髪に、目の下の薄い隈。ずっとモニターを見ていたせいかかしょぼしょぼと何度も瞬きを繰り返す仕草。……やっぱりどれをとっても酷い状態だ。





「お疲れ捺、これ差し入れね」
「あ、りがとう……でも、なんで、」
「君の事なら見れば分かるよ。……寝てないの?」





寝てるよ、と答えたその顔は不格好だ。無理やり持ち上げた口角も、下がった眉もいつもの自然なソレとは程遠い。だからこそ余計に嫌な予感がついて回る。捺は無理をするにしてもこんなに分かりやすく無理をしています、と表情に出すような素直さは持ち合わせていない。なら何故、彼女は今、こんなにも露骨に辛そうな顔をしているのだろうか。「色々やらなきゃいけない書類が多くて、」そう言いながら僕からドリンクを受け取ろうとする手が小さく震えているのに気付いて捺、と名前を呼ぶ。……それと、ほぼ同時だっただろうか。突然、胸の辺りをギュッ、と強く掴んだ捺の呼吸が速く、荒くなる。……まずい。鈍い音を立ててある程度の重さを持ったスポーツドリンクが床に転がった。苦しそうな表情でふらついて椅子から崩れそうになった彼女を咄嗟に前から抱きしめるように支えて名前を呼んだ声が意識せずとも大きくなった。返事は無い。動物みたいにはっ、はっ、と息の音が聞こえるくらいに必死に呼吸をしようとしている彼女には俺の声が届いていない。



すぐにそれが過呼吸だと分かった。死にはしない、そう頭では理解していても剥離したように俺の鼓動も早くなっていく。落ち着け、これ以上彼女を不安にさせるわけにはいかない。落ち着け、落ち着け……必死に唱えながら自分の座っていた椅子を蹴り飛ばして床に膝をついた。彼女が呼吸しやすい前屈みになるように、支えている俺がしゃがみこんでしっかりともう一度抱え直した。ゴホゴホと噎せ返り震える体を包むようにキツく無い程度に抱きしめて「大丈夫、大丈夫」と出来る限り柔らかな声で伝え続けた。それは彼女にだけ、と言うよりは自分自身に言い聞かせる意味合いでもある。大丈夫、助かる、大丈夫……捺は、死なない。死なせる、わけない。





「捺聞こえる?ゆっくり、息を吐こうか」
「っ、ぁッ……」
「大丈夫、カウントに合わせてねゆっくり……1、2、3……」
「は、ぁ……ぁ、」
「上手に出来てるよ。もっかいそのまま……」





俺を信じるように彼女が素直に従うのを見てひどく安心した。少しずつ落ち着いてくる発作と共に呼吸も安定し始めて、徐々に頷いて意思を示しているのも分かった。……どのくらいそうしていただろうか。彼女の脈拍も正常範囲に戻り、完全に収まったことを確認して少しだけ体を離して捺の顔を確認した。ぼんやりと紅潮した肌や涙が伝う頬からも余程苦しかったのが見て取れて胸が痛む。「大丈夫だよ捺。終わったよ」としっかり言葉にして伝えてやれば彼女は掠れた声で、ありがとう、と小さく感謝を零した。





「……無理してただろ?」
「かも、しれない……ごめん、めいわく、かけて」
「迷惑なんて思ってないけど……心配したよ」





親指で涙の跡を拭い取り目を合わせた。未だ潤んでいる瞳は申し訳なさそうに小さく揺れている。過呼吸の原因は大抵強いストレスなどの精神的な負荷によるものが多い。 はじめてなった、と捺が呟くのを見るに今回は特に自分を追い込んでいたらしい。理由を聞けば最近同期の補助監督が数人死んで全員の分の仕事をそのまま請け負っていた、と教えてくれたけれど、明らかにオーバーワークだ。そもそも彼女は元々人の生死に影響されやすいタイプなのだから仕事に向き合うたびにそいつらのことを無意識に考えていたのだろう。……相変わらず生き辛い性格をしている。





「俺からも報告する、ちゃんと仕事再分配して休めよ」
「うん……」
「……捺」





沈んだ表情で俯いた彼女をほぼ衝動的に抱きしめた。……彼女を慰めたかったからではない。ただ、俺が、彼女が生きていると、ここにいると実感したかった。わ、と小さく声を漏らしたのを耳に入れつつも離さなかった。酷い男だと思う。彼女の話を聞いて、死んだその数人の中にお前がいなくて良かったと思ったことも、俺を頼らないことにほんの少し苛立ちを覚えたことも、他の誰でもない俺の前で発作を起こしたことに優越感を覚えたことも、何もかも。じんわりと伝わってくる体温に捺を感じた。これだけで死ぬ筈がない、分かっているのに不安に駆られてどうしようもなかった。呪霊に殺されかけるなら俺がいくらでも助けてやれるのに、病気やこんな発作には何も出来ない事が酷くもどかしい。どうして俺は、万能じゃないのだろうか。彼女の為ならなんだって出来るのに、それだけの力が無いのだろうか。





「もう、やめろ」
「……五条、くん、」
「……無理して、俺を不安にさせるの、やめろよ」
「ごめんなさい、わたし……本当に、ごめん」





ぎゅ、と控えめに回された腕に更に抱きしめる力を強めた。これじゃ俺とお前、どっちが慰められているのか分かったものではない。腹いせにもっと深くに押し入れるみたいに彼女を捕まえる。少し慌てたような声で俺を呼ぶのが気分良くて、止めてやる気なんて起きやしない。反省しろこの馬鹿、と心の中で悪態を吐いたのも今日なら許されると信じて、俺は彼女の小さな肩に顔を埋めた。






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