うーん、やってしまった。






今にも天に昇りそうなふわふわとした覚束ない足取りで僕の一歩前を歩く彼女の体幹はろくに機能していないのが目に見えている。ふふ、と特に理由なく笑みを浮かべながら夜の街をふらつく彼女は明らかに"酔って"いた。いつもは捺は自分である程度セーブして僕の前でこんなに酒に溺れることは一度も無かったけれど今夜は違うらしい。確かにご飯の時の話を聞く限り仕事が切羽詰まっているみたいだったけどまさかこんなに酔うなんて。一応飲むペースとか頼んでる杯数は確認していつもとあんまり変わらないと思っていたのに、今日は酔いやすかったらしい。それか度数が高かった?正直僕はあまり酒は飲まないから銘柄には詳しくないけど……今度から少し調べておくほうが良いかなぁ、なんて考えながら傾いた彼女の体をスッと支えた。いつもなら酷く申し訳なさそうに謝ってくる捺は今日はニコニコと楽しそうに笑って、ありがとぉ、と溶けそうな声で感謝を伝えてくる。これは悪くない。あんまり謝られるとこっちの方が気が引けるし、可愛く笑ってくれるのは僕だって癒される。






「捺、1人で帰れそう?」
「ん〜……」
「ダメそうだねぇ」






渋るようなその態度に思わずクスリ、と笑う。なんだか子供みたいで愛らしい。こんな風に気の抜けた状態を見せてくれるようになったのはかなりの進展かなぁ、なんて考えながらも出来るだけ"紳士的"に彼女の腰に腕を回す。他意は無い、全然、これっぽっちも……今はね。


一応形式的に彼女の家の場所を尋ねたけれどやっぱりそれも答えられそうにないらしい。こんな姿僕以外に見られたらすぐお持ち帰りされちゃうルートで心配になる。まぁ、普段はしっかりしてるし早々にこうはならないだろうけど、それって僕は昔と違って多少は君の特別ってことでいいのかな。男としては頼られるのは悪く無い気分だけどこれが常だったらやっぱりちょっと気に食わないというか、単純に言えば妬く、めちゃくちゃ。無理。男なら勿論だけど女の子でもちょっとヤダ。今度硝子に聞いておかないと……と思いつつスマホを開いて元々知っていた捺の住所を打ち込んだ。そのまま適当にタクシーを捕まえて捺が怪我しないように細心の注意を払った動作で彼女を車内へと移動させる。こういう時にできたアザって中々治らないしね、綺麗な彼女にそんなもの作りたく無い。



一応そこまで家との距離は離れていなかったらしく20分程度で到着して運転手にカードを渡すと若干嫌な顔をされた。年寄り故にもたついている動作を眺める僕は、今日は隣にこてんと体を預けてくる捺が座っているのでそんなに苛立ちは積もらない。寧ろ当分このままでも割と嬉しい。すみません、とあまり心の篭ってない言葉を聞きながらいいよいいよ、と笑い返した。捺に感謝しろよこのジジイ、お前の対応はゴミだったぞ。後でクレームきっちり入れといてやるからな。と呪いの言葉を脳内に抱きながらまた丁寧に捺を外に連れ出す。男がいるからなのか見送りも無しに去っていくタクシーを横目に彼女の住むマンションへと足を踏み入れる。オートロックじゃないことに若干の不安を感じつつ、今度いい部屋紹介しよう、と心に決めた。捺も稼いでないわけじゃないんだからもう少し防犯には気を使って欲しい。相変わらず蕩けそうな彼女を支えながら、なんとか部屋の号室を聞き出してエレベーターのボタンを押す。ここまで来るともうすぐこの捺と寄り添える時間が終わってしまうと実感して急に惜しくなってきた。もうちょっと遠回しても良かったかもなぁ、なんて。






「はい、とうちゃ〜く……捺、鍵は?」
「かばん……」
「鞄ね、ちょっと開けるよ〜……ん、あったあった」
「あった……」
「そう、あったよ。ドア開けるね」






そっとノブに手をかけて開いた部屋は当たり前だけど暗い廊下が続いている。ほんの少しだけ体を乗り出してスイッチを押して玄関に灯りを灯すと綺麗に整理された下駄箱周りが目に入って口元を緩めた。うん、とても捺らしい。見えている範囲に男性モノの靴が無いこともしっかりと確認してから彼女に回していた腕を慎重に離していく。倒れないか様子を見つつ僕から解放されていく捺は先程よりはしっかりとその場に立位を保てているので恐らく大丈夫だろう。少し身を屈めて視線を合わせ、ちゃんと僕が出たら鍵を閉めるんだよ、と言い聞かせるように伝えると彼女もまたゆっくりと首を縦に振った。その動作を見て、よし、と僕も同じように頷いて借りていた鍵を捺の右手に握らせる。一歩後ろへと足を引き、マンションの廊下に出た僕は、彼女がきちんと鍵を閉められるかを見守った。……けれど、捺は鍵は愚か、中々ドアさえも閉めようとしない。何か僕に言いたいことがあるのだろうか。酔っ払いの思考回路は中々難しい。







「捺?どうしたの、何か気になることでも、」
「ごじょう、くん」







僕の問いかけを途中で遮るように彼女は名前を呼んだ。そしてそのまま両腕を伸ばし、僕の首に絡める。彼女の自重に引き寄せられるようにして少し前のめりになった僕の目と捺の瞳が交差した。あ、と呟いた言葉はすぐに触れた柔らかいもので塞がれ、びく、と意識せずに背中が震える。僕に触れている彼女の腕も何もかもが熱として電導して、ちゅ、と小さなリップ音と共に離れていく捺の可愛い、愛しい、顔。ふにゃりと目も口も緩めたあどけない笑顔で「おやすみ」と手を振った彼女はさっきまでが嘘のように簡単にドアを閉めると、しっかり、ご丁寧に、ロックの音を人気のない廊下へと響かせた。






……一気に静寂が帰って来たその場所で僕は唖然と口を開いたまま立ち尽くす。今、何が?混乱する頭を落ち着かせようとエレベーターへと向かう足取りはふらついている。捺の酔いが移っちゃった?なんて、全然笑い事ではない。無機質な音を立てて一階を告げるアナウンスを聞きながら無用心なマンションを後にして、そこで、ふ、と体の力が抜けてその場に俯きながら蹲み込んだ。ガシガシと髪を掻き混ぜて深いため息を吐き出す。顔も体も熱さが抜けていかない。そりゃそうだ、こちとら何年も片想いしてるんだ、その相手に、例え向こうがほぼ無意識だとしてもキス、されるなんて、思わないだろ、普通……なんだよ、アレ。なんだよあの顔。



俺にキスして何嬉しそうに笑ってんの、何が「おやすみ」だ。めちゃくちゃ可愛くしやがって……え?何?俺のこと誘ってる?とか、もうぐちゃぐちゃだ。あんな顔知らないし、捺があんな風にキスするなんて、知らない。あームカついて来た、今まであんな可愛いことを他の男にして来たの?それとも俺が初めて?捺の元彼の話とか全然知らねーし知りたくもない、けど、知らないのも苛々する。グツグツ煮え立つ嫉妬の感情と確かな優越感が喧嘩しあって胸の奥がひり付いた。……マジで訳分かんねぇ。俺はだって彼女が鍵を閉めたのを確認したら電話で玄関で寝てないか確認して、ありがとうメッセージもマメに送るつもりだったのに、何もしない且つ美しく女の子を送り届けるナイスガイを気取る気満々だったのに、なんだよ、これ。だとか、このまま後ろに倒れ込みたい気持ちをグッと堪えて空を見上げると、中途半端な形をした月が滑稽さを嘲笑うみたいに俺を見下ろしていて、もう一度息を吐き出す。タクシーを呼ぶ気すらも起きなくなってしまった俺は近くの駅まで籠った熱を覚ます為にも頭を悩ませながら夜道を歩き始めた。







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