ふ、と意識が覚醒する。張り付いたみたいに粘膜が乾き切った喉へゆっくりと生唾を飲み込んで朝日が差し込み始めた部屋の中を見渡す。夜に踏み入れた時は分からなかったが、どの家具も頑丈そうな作りをしていて高級感があった。五条くんが住んでいたマンションだし、他の部屋に住む住民層も高所得者が多かったのだろう。今ここにいない家主へ心の中で「すみません」と謝罪した。
ぼんやりと天井を見つめながら数時間前の事が頭の中でぐるぐると回転する。……わたし、五条くんとえっちしちゃった。自覚すると燃えるように顔が熱くなり少しだけ毛布へと顔を埋めたが、布団に覆われていた自身の裸体を目の当たりにしてしまい、結局気持ちは落ち着かない。見ると近くの床に私と彼の衣服が小さな山を作っているのが分かった。
……ゆるりと口角が弧を描く。久しく感じていなかったどうしようもない倦怠感と、体の奥底の違和感。あれほどまで大きなものが自身に収まっていたのだと思うと不思議な気持ちが込み上げてきた。それでも記憶に痛みが残されていないのだから、五条くんがよほど優しく丁寧に行為に臨んでくれたことは容易に想像出来る。私も彼の背に腕を回して、大きな体の圧迫感を受け入れながら五条くんがすきだ、と心の底から実感した。肉体言語……といえば少し聞こえが悪いけれど、体を繋げたことでしか分からないお互いだけに分かる直感、というものは存在するのだと思う。
背後に感じる確かな気配と熱。その主である彼の腕は少しの隙間もなくガッチリと私の腹部に回されていて、少し苦しいのと同時に彼の絶え間ない愛を感じる。それに応えようと、今できる感謝を伝えるように指先で撫でるように彼の手に触れて触れて、そのまま大きな窓へと目を向けた。所謂タワーマンションの窓から見える空はまだ仄かに薄暗くて、オレンジ色の球体が昇ると同時に下の方に降りてきた星々はまだ自らを主張するように輝いている。
……綺麗だなぁ、と一般的でなんら面白くもない感想を抱えつつ、ただじっとその瞬きを眺めた。腰と股関節に感じる鈍い筋肉痛の原因がなんなのか、重々承知している。丁寧に確認しながら手順を踏んで、私を抱いた五条くん。私の全てを知りたいと告げた五条くん。……愛していると、澱みなく言った五条くん。そのどれもが私もよく知る彼そのもので、彼の手に弄ばれながらもそれにどこか安堵する私がいた。
一際青白く、他よりも強い輝きを持つ星を見つめながらそんな考えを燻らせていると耳元で「……何見てるの」と熱い息が吐きかけられた。ビク、と震えた肩へ甘やかすように、ちゅ、と一度キスした五条くんは改めて腕を回し直すともう一度何を見ていたのか、と私に問いかける。別に態々言うほどのことではないけれど、窓の外に向かって指させば、あぁ、と納得がいったように頷いた。綺麗?と当たり障りなく問いかけた彼に肯定してらから、ふ、と思いついたみたいに「五条くんみたいで、」と呟けば、彼は数秒、言葉を探すように黙り込んだ。
「……捺って、そういうとこあるよね」
「どういうところ?」
そういうとこだって。続けながら五条くんは私の体を自分の方へと向けるように回転させると、じっ、と静かにこちらを見据えた。少しだけ硬くて色素が薄い髪が揺らぎ、光が直接虹彩に当たらなくてもキラキラ輝き続ける青い瞳と視線が交わる。……やっぱり綺麗だなぁ。そうやって見惚れる私に彼は少しくすぐったそうに首を竦めると、そんな見られると照れるなぁ、なんて笑って見せる。思わず、照れるも何も言われ慣れてるでしょう、という目を向けたが彼はそれを否定しなかったが「捺に言われるのはまた違うよ」と柔らかな声色で吐き出した。
徐々に白み出した空の光が少しずつ私たちを包み込む。晩秋の冷え込むような寒さに自然と身を寄せて、彼は私を受け入れるみたいに抱きしめた。五条くんは夜中の北極星のようでもあるし、明け方の薄氷のような月にも似ていた。そのどちらにも違った情緒があって、彼はまさにそういう人≠セと思った。……愛してるよ、と確かに伝えるように動いた彼の唇はほんのりと持ち上がっている。細められた瞳の奥の優しくて柔らかな光に胸がいっぱいになる。私はずっと、こうやって彼と目を合わせたかった。
「……私も、あいしてる」
「……うん、うん、」
噛み締めるみたいに頷き、相槌を打った彼は今刻々と流れる時間ごと、この瞬間を愛しているようだった。満ち足りた五条くんの笑みは私をたしかに幸せへと導く。死滅回游というゲームが始まって以来、こんなにも穏やかな気持ちになれたのは初めてだった。何も解決していないし、事態が明確に好転したわけではないのに、やはり五条くんという存在は私を形成するのに多大な影響を齎していた。
私がそれ以上何か述べるより早く、自身の胸元に押し付けるように強く私を引き寄せた彼は、暫く身じろぎしていたが次第にそのまま動かなくなる。微かに聞こえてくる寝息にまだ朝早いもんね、と丸っこい後ろ頭を撫でた。完全な真っ白ではなく、少し銀や青を織り交ぜた手の込んだ反物みたいな髪の毛と元来の整いすぎた彼の顔立ちは、私と同い年のはずなのにどうにも実年齢よりずっと若く見えてしまう時がある。
ちょっとだけ子供っぽくて、それでも確かに大人になった五条くん。大人になったといっても、まだ二十代の五条くん。私も彼も成熟し切ったかと言われるとそうでもなくて、まだまだ生きていく中で学ぶことも沢山あるだろう。高校生で天才と言われた彼は今では呪術師最強と名高い。それは今までの彼を見ていると当然の結果のような気もするし、その孤高を背負わせるには早すぎる気もする。最強≠ニ言っても彼は機械ではなく感情があるし、教師として生徒を大切にもしているし、一応……こいびとを冠した私にもひどく、優しい。そんなどこにでもいる男の人でもあった。
───若き天才は悲惨な最後を遂げるのがフィクションのセオリーで、そんなことを思うたびに彼自身の根っこの部分に触れて彼という人物を確立させたくなる。虎杖くんにも言った通り、神頼みなんてしたくはないけど、少しの願掛けくらいは許されると信じたい。……あぁ神様、どうかまだ、彼を連れて行かないで。そんな気持ちは五条くんには唯一、伝わってほしくない心の弱くて柔らかい部分のどうしようもない吐露のようなものだった。
……なんだか、目が冴えてしまった。彼の腕の中でただ、彼だけを見つめながら時が流れるのを待ち続ける。意外にも五条くんは目を覚まさなかった。私の助手席に座る時はちょっとした物音で直ぐに瞼を押し上げるくらいに眠りが浅い人なのに、今の彼は死んだように眠っている。少しだけ不安になって呼吸を確かめてみたけれど、一定のリズムで暖かい吐息が指先に触れるのにそっと胸を撫で下ろした。
ぐぅ、と安心したせいかお腹の虫が音を立て、慌てて腕で押さえるように手を当てる。確認するように顔を上げたがやはり五条くん寝ていた。……そういえば、中途半端な時間にここへ着いて、それから何も口にしていないんだった。自覚すればますますお腹が空いてきて、あれだけ啼かされた喉に渇きを覚える。少しだけ考えて、申し訳ないと思いながらもそっと彼の腕から抜け出していく。……本当は影の中に溶けてしまおうかと思ったのだけれども、今の彼なら呪力の方が敏感に察知してしまいそうだったので細心の注意をしながら縄抜けでもするように身を離した。
足音を殺しながら慣れない廊下を歩いて、途中で風呂場からバスロープこっそりと拝借する。かつて訪れた彼の家と似た作りのキッチンに辿り着き、お借りします、と再三になる感謝を口にしつつコップの中に水を注いで潤った喉にぷはぁ、と声が出てしまった。よくよく考えればあんなにも泣いたのだから水分が足りなくなっていても可笑しくない。
次に両開きの冷蔵庫に手を掛けて中の食材を覗き込む。タイミングのせいか、家主の元々の生活リズムのせいか。大して中身は詰まっていないようだ。消費期限が過ぎていなくて食べられそうな物は卵と豆腐とバターと……あとはソースやドレッシングといった調味料ぐらいしかない。これで何が作れるだろうか、と頭を悩ませつつ戸棚を適当に開いた先に未開封の薄力粉を見つけた。
───ふと、あの日の記憶が蘇る。瞼の裏へ鮮明に映し出されたのはにっこりと笑いながら「おはよう」と笑う彼の姿と、少しだけ固くて、それでも美味しかった失敗作≠フ味。……これにしよう。そう決めてからは早かった。ローブの袖を捲り上げ、レール式の棚からボウルとフライパンを取り出すと必要な材料を揃えていく。振るった薄力粉と卵とバターと……ある程度の水に、レシピよりも気持ちばかり多めのお砂糖。泡立て器で混ぜ合わせて、ダマっぽさがなくなってからフライパンを火にかけた。二回に分けて注ぎ込み、鍋蓋をしてからしっかりと焼き上げて、幼い頃母に教えられた頃合いを思い出しながら表面に穴が開き始めてからひっくり返す。白い皿に一枚ずつ。狐色……とまではいかない淡い色合いのソレをカウンターに並べた。
「……いた、」
あとはあれが……と目当てのモノを探している最中。独り言みたいな呟きが私の背後に落ちる。すっかりと太陽が顔を出し、朝の訪れを伝えるように鳥達が囀る中、五条くんはぼんやりと扉の前に立ち尽くしていた。……生まれたままの姿で。悲鳴をあげそうになるのを寸前で飲み込み、慌てて私は彼に駆け寄る。お風呂場に着るものが、と伝えようとしたが、五条くんが私のローブを引っ張るように抱き寄せたのでそれは叶わなかった。
「……どこ行ったかと思った」
「……あ、ごめんなさい……ちょっとしたいことがあって、」
「それ、僕よりも優先するようなコト?」
臍を曲げた少年のような拙い口調に思わず「へ?」と聞き返す。見上げた彼の顔には明らかに不服だと貼り付けられており、不貞腐れた……という表現がぴったりだ。ぐりぐりと頭と白髪が首元に押し付けられてなんとも言えない擽ったさに目を細める。……なにしてたの。普段よりもほんのりと低い声が私に問いかけた。そこに僅かに揺れた不安の色に申し訳なさが募って、ごめんね、ともう一度彼に伝えた。居なくなることが恐ろしいことだと、私はよく知っているはずなのに。
彼の体をくっつけたまま歩いて風呂場にあるバスローブをもう一つ借り、五条くんに腕を通してもらった。ん、と短い声で白を纏う彼だったが、その高身長にやはり今回も少しだけ丈が足りていないようだ。五条くんは私の体を解放したが手だけは離すつもりがないらしい。指先を絡めて繋いだまま、緩慢な足取りで私の後ろに続いて歩く姿にはほんの少し母性本能をくすぐられた。キッチンに戻り、既に並べるところまで済んでいたテーブルへと五条くんを誘導させると彼の目が一点を真っ直ぐ見つめたのがわかる。……よかった。彼には意図が伝わったらしい。
「……あのね、五条くん。私これを作ってたの」
「…………これ、」
───晴天の空と朝日に照らされたパンケーキ。以前彼が作ったものに比べると味気ないほど簡素なものだが、上から掛けたハチミツが黄金の光沢を見せ、キラキラと輝いた。透き通るような五条くんの瞳に輝きは伝播して、僅かにぼんやりとしていた彼の顔に溢れんばかりの生気が宿った。バッ、と音を立てそうなくらい勢いよく頭を上げた五条くんに「あんまり甘くないかもしれないけど」と笑い返したが、彼はブンブンと首を横に振り、すぐさま木製の椅子に腰を落ち着ける。食べても良いか、と確認を取るような上目遣いの視線にどうぞ、と促せば、五条くんは丁寧に手を合わせていただきます≠ニ唱えてからフォークを握った。
「…………美味い……」
「ほんと?良かったぁ」
「これ、何で作ったの?」
「薄力粉とお豆腐と卵と……あとバターかな。牛乳はちょっと期限切れてそうだったからお豆腐を使ってみたんだけど……」
「……めっちゃ美味い」
しみじみと噛み締めるように五条くんは大きな口にパンケーキのかけらを放り込んでいく。ここまで美味しそうに食べてもらえるならば作り手冥利に尽きるなぁ、と彼の眩しさに自然と目を窄める。ほんとに、綺麗な人だ。開いた窓から吹き抜けた風は心地よくて、朝の空気をこんなにも身近に愛おしく感じることができた自分に驚いた。きっと私ではなく、彼のおかげだ。長く続いた私の夜に、朝がやってきた。
「ありがとう。……僕のために頑張ってくれて」
全てをパン屑一つ残さず平らげた五条くんは始まりと同じように「ごちそうさまでした」と告げてから笑った。あどけなさと抜けるような青天井を思わせる爽やかな笑み。満ちた幸せで頬を緩ませた彼の姿に私もまた微笑んでしまった。……あの日、私にパンケーキを作ってくれた彼も、同じことを思ったのだろうか? わたしは、今の彼のように笑っていたのだろうか? 答えを知り得はしないけど、でも、今はそれで良いとさえ思った。
宙に近いこの場所で何も知らずに顔を合わせて、笑い合う。高専に向かい、今日までの事情を聞いた彼とこんな風に過ごすことが出来るのかは分からない。だからこそ、この瞬間を満足するまで味わいたかった。
……───運命の日まであと三十四日。まだ彼から知らされていないリミットが、既に動き始めていることを今の私は知らなかった。