生真面目




「不器用だよね」






夕暮れ時の公園に私の呟いた声は思ったより大きな音となり、あたりに響いた。ジリジリといつ点検されたのかも分からない電灯が点滅し、名前も知らない蛾のような昆虫が円を描くように宙を舞う。その下で、態々スーパーまで行って買ったおにぎりを一口食べた日車くんが私を見た。私が言えたことじゃないけれど、彼は昔から変わらず幸の薄い顔立ちをしている。幸福の方が遠のくような、覇気の無いそんな顔。平たい瞼を開閉させながら此方に視線を向けた彼の目元には薄く隈が張っていた。





「……誰の事だ」
「ひぐるまくん以外にいる?」






ハァ、と吐き出した息が溜息なのか単なる癖なのか、それすらも分からないくらい彼の生き方は好まれたモノでは無い。立派な仕事ではあるが、この職に就くにあたり、彼は純粋で美し過ぎたのだと思う。ついさっき本人に不器用だと告げたり、幸が薄いだの散々なラベリングをした自分が言うのは少し憚れるが、事実、そう思う。彼は文句なしに"良い人"だったのだ。




日車くんとの出会いは大学の頃。同じ研究室の仲間であった彼とは入って暫くロクに話した覚えはない。でも、私があの最悪な教授にお尻を触るやら腰を抱くやら露骨なセクハラを受けた時、誰もが見て見ぬ振りをした時に、彼は声を上げた。そう、彼だけは私を助けようとしてくれた。それはスーパーヒーローみたいな鮮やかな手腕でも、少年漫画の主人公のような勢いでも無い、静かで確かで現実的な「刑法」を用いた弁論で、冷や水を打ったようなあの空気が未だに忘れられなかった。……その後で感謝を伝えた時の喜んでも無いあの微妙な表情も忘れられないのだけれども。







「俺だって、器用に生きられるならそうしたい」
「……本当にそう思ってる?」
「見えないか?」
「全く」






そうか、と言いながら近くの自販機で1番安い缶コーヒーを啜った彼の横顔は普段とまるで変わらない。日車くんはこう見えて頑固な人なのだ。今だって「見えないか」なんて聞いたのはただの建前や常套句。彼本人はきっと結局は自分の生き方に、やり方に誇りを持っている。プライドも自信もあって、だからこそ茨の道を行く。汚い現実を見据えながらも被害者にとってはまるで、昔絵本で見た蜘蛛の糸のような救いの手として映るであろう弁護士としての彼の仕事は立派だ。私は、そう思う。他の大衆と大して変わらず、汚い物には蓋をして、逃げられるものからは逃げて逃げて逃げ続けながら大人になった私とは違う、彼の生き様は儚く、気高く、美しい。





不意に震えた彼のビジネス用のスマートフォンと、す、と軽く手を上げる動作。軽く頷いて視線を逸らすフリをして、ちらり、と日車くんを盗み見る。当時よりは老けたけど、悪く無い老け方ではあると思う。俺という一人称を封印して「私」なんて唱える彼は大人になった。そんなことを気にする私はきっとまだまだ子供なんだろうけど。







「日車くん」
「……はい、はい。では次は、」
「すきだよ」
「…………は?」








一瞬の揺らぎ。丁寧な仕事口調だった彼が乱れて、コンマで電話口に謝罪を口する。私を見る目が"正気か"と訴えてきたのが分かった。いつも以上に手早く切り上げてから、私の名前をこの日初めて呼んだ彼は「揶揄わないでくれ」と眉を引き下げる。そうやって思われているのが心外で、もう一度、すきだよ、と呪いのように答えれば日車くんはもっともっとどうしていいか分からなそうな顔をした。気の迷いだ、とか、そんなくだらない台詞ばかり紡ぐ彼は法廷に立つ姿とは随分乖離している。下手くそで慣れない男の人。あんなに堂々としてるのはどこへやら、今私の目の前にいるのはかつての同期だった細長い彼だけ。





「なんで、急に」
「急じゃないよ、前から」
「前って何時だよ」
「ずーっとまえ」






女の子は惚れやすいんだよ、とぼやいた声はきっと日車くんに届いただろう。公園の隅っこで大人になりきれない私と立派な彼が佇んだ。差し込んだ夕陽が青白い頬を染めて、血色が良くなった姿はなんだか可愛らしく見えた。生き辛い世界に生きる彼の不器用さが愛しくて、すき。そんな感情だけは大人の世界で汚れた私の中で唯一優しくてきれいな気持ちに思えた。





「日車くんは?」
「……何を求めてる?」
「日車くんのきもち」
「気持ちって、お前」






あぁ、ほら、やっぱり困ってる。少しかさついた手入れの行き届いていない唇を淡く動かして、俺は、と意思が固まらない声を震わせる彼は酷く珍しい。私はあなたみたいに良い人じゃないの。あなたの困る姿を見るのも、普段見せない顔を覗くのもどれも全部嬉しいような性格の悪いオンナなの。そんなこときっと、貴方ならとっくの前から知ってるだろうけど。数度視線を彷徨わせた日車くんは最後に深く深く息を吐き出す。これは多分本当のため息。






「……お前が、」
「ん?」
「お前が、一番言ってほしい言葉は?」






……予想だにしない返事に今度は私が瞬きをする。へ?と抜けた声を零した私に彼は膝を軽く揺らしてから、こんな時どうすべきかなんて知らない、と吐き捨てた。知らない、だからこそ学ぼうとする。彼のそんな姿勢はどうやら司法だけではないらしい。真面目すぎる彼の真面目すぎる回答に思わず吹き出した私が「恥ずかしい言葉でもいいの?」なんて調子に乗れば彼は明らかに嫌そうに顔を顰めた物だから今度こそ声をあげて笑ってしまった。ひぐるまくん、あなたは知らないかもしれないけれど、私はそういうところが好きなんだよ。







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