眠気の襲来を待っている







「あれ、捺ちゃん?」





寮の共有スペースに腰掛けて窓の外を眺めていた私の背中に不意に声が掛けられた。透き通るようなその響きに思わず振り返ると、差し込んだ月明かりに体半分が照らされた乙骨くんが驚いた顔をしながら立っている。目を惹く白い制服と大きな刀を背負っているのを見る限り、きっと今、任務から帰ってきたのだろう。去年より身長が伸びて、何処と無く漂っていた頼りない印象が完全に掻き消えた彼を見つめ、どうも、と伝えるように掌をヒラヒラと動かすと、彼は廊下の突き当たりまで左右を見渡してからゆっくりと私の隣に腰掛けた。いつもより深く沈み込んだスプリングを感じながら彼との座高の差に小さく息を吐き出す。なんだか彼が、知らない人になってしまったみたいだ。





「こんな時間にどうしたの?」
「乙骨くんこそ、どうしたの?」
「僕はその……なんだか目が覚めちゃって」





皆に会えて嬉しかったからかな。そう言いながら恥ずかしそうに頬に触れ、へにゃり、なんて効果音が聞こえてきそうな笑顔を浮かべた彼は人畜無害そうなのに、さらりと嘘を入り混ぜているのだから何だかずるい気がした。勿論彼は明らかに、今目が覚めた、なんて服装じゃないのでその嘘は大した効力を持ち得てはいないけれど、やっぱりずるいことに変わりはない。髪を真ん中で分け、すっかり垢抜けてしまった同級生の男の子をやっぱり私は、知らない。



……彼が長期の任務に就くことになった時は寂しくて、見送りの時に私だけが情けなく泣いてしまったのは事実だ。だって、真希もパンダくんも狗巻くんも、皆平然としていたんだもの。私が涙脆い訳じゃない、と思いたい。お別れを言う直前にぼろぼろと溢れ出した水滴を止める術を彼も私も知らなくて、ギョッと瞼を見開いた乙骨くんがあたふたと両手を振りながら凄く慌ててたっけ。……でも私は、何泣いてんだよ、って呆れていた真希が唇を噛み締めていたことも、励まそうと飛び跳ねていた狗巻くんがほんの少しだけ目を潤ませていたことも知っている。パンダくんはそんな私たち皆の背中を叩いて「いい加減憂太を送り出してやれ」と大らかに笑っていた。結局みんな、彼のことがすきだった。





「……こうやって捺ちゃんと落ち着いて話すのも久しぶりだね」





ぼんやりと去年のことを思い出していた私の思考を途中で途切れさせた彼に、一瞬の間を開けてからこくり、と首を縦に振る。穏やかな口調と緩められた目元の柔らかさが逆になんだか落ち着かない。視線を逸らしながら庇うように自らの左腕に触れた私を見た乙骨くんは、形のいい眉を引き下げ「……真希さんから聞いたよ」と確信的な色を載せて言い放つ。彼の細く、それでいて節のある指が私の手の甲に触れて、きゅ、と捲り上げるようにスウェットの袖を持ち上げた。そこから覗くのは、先日の渋谷での一件で負った生々しい傷跡。硝子さんに"手は尽くしたが消えない"と言われた、切り傷と火傷の跡。乙骨くんが小さく息を呑み込んだのが分かった。私の名前を呼んだ彼の丸っこい瞳が揺らぐ。






「……真希達に比べると大したことないよ」
「怪我を誰かと比較するのはよくないよ。……眠れてないんでしょ?」
「…………なんでそれを、」
「寝不足の時の顔くらい覚えてるからね」







……それは忘れていいよ、と口を尖らせた私に彼は少しだけ笑みを零したけれど、すぐに真剣な顔をしてから「痛む?」と私を覗き込む。嘘が上手くなった彼とは違い、私は自分の今の状態を咄嗟に"大丈夫"とは言えなくて、つい黙り込んでしまった。夜部屋で横になる度に傷口が痛んで仕方ない。ロクに眠れていない。そんな事を素直に伝えたら、きっと乙骨くんはもっと悲しそうな表情をするんだろうな。そう思うと余計に私は何も言えなくなった。けれど、沈黙が肯定だとはよく言ったもので、彼は私が真実を伝えなくとも彼の顔は更に曇ってしまう。ひどい顔してる、と呟いた私に「君もね」と返した彼には覇気がなかった。





「……僕が来たから大丈夫、とか。そんな五条先生みたいな事は言えないけど……もうこれ以上、君が、皆が、傷付かないように護るから」
「特級術師なのに?」
「……もしかして揶揄ってる?」
「揶揄ってるよ」





だってそんな顔されたらほっとけないもの。ころり、と喉の奥を鳴らした私に乙骨くんは、敵わないなぁ、と夜に溶けそうな黒髪をくしゃりと掻き上げた。……因みにこれも嘘だ。彼が私に敵わない筈がない。嘘つきになったね乙骨くん、と肘の先で突いてやれば彼は「え!?」と分かりやすく狼狽えていた。あ、こういう所はあんまり変わってないな、そう気付いてほんの少しだけ安心したのは癪なので秘密にしておこう。時計の針のどちらもが丁度真上を通り過ぎた時間帯。星あかりが増して、紺色を煮詰めたような空が眩くなる、そんな期間。私と彼は、僅かな戯れの中に包まれていた。





「乙骨くん、寝ないの?」
「そっちこそ。まだここにいるの?」
「……たぶん、いる」
「なら僕もここに居る」






彼の矜持の全てを懸けるみたいな、少しの曖昧さも残らない声色。乙骨憂太という人間の頑固さに私は今、触れている。譲る気はない、とその瞳が私に強く訴えかけている。強情だなぁとぼやいた私にふんと息を吐き出した彼は得意そうだった「明るくなったらどうするの?」「それでも、君と一緒に居るよ」「……そういう話じゃない」「僕にとっては"そういう話"だから」……本当に本当に、ごうじょうだ。それを何度も突っぱねて彼の善意を受け取らないようにしている私も大概強情なのは否定しない。





「……乙骨くん」
「…………ん?」
「あ、今眠そうだった」
「え!?ね、眠くないよ!ちっとも眠くないから!!」





じゃあ何でぼーっとしてたの、と追及するみたいに顔を寄せた私に彼は、いや、その、と突然歯切れ悪くなってしまう。やっぱり彼は任務終わりだし疲れているんだ、優しいから無理してるんだ、そんな考えで埋め尽くされる私の脳内を見透かしたのか「本当に違うからね!?君のせいとかじゃなくて……いやある意味そうなんだけど……!」と訳の分からない事を口走っている。どういう意味?と聞き返した私の言葉と同時に、ふ、と空からその光景を見下ろしていた大きな月に薄雲が掛かり、途端に周りが暗くなる。突然のことで目が慣れず、すぐ近くにいた筈の彼がシルエットでしか見えなくなった。……急な不安に駆られる。こんなの何ともないのに、どうして今に限って弱くなってしまうのだろうか。つきん、と鈍く腕が痛む。まだ寝ていないのに、それでも私に痛みを与えてくる傷が憎い。苦しい。つらい。






「大丈夫」
「っ、あ、」
「大丈夫だよ」






僕はここにいるよ。それを伝えるかの如く、彼の手が私の左手を握っていた。五本の指を絡めるように掌を包んだ温もりはとてもしっかりとしたものだった。力任せではない、それでいて揺るがないその行為は思いがけないくらいに確かで、優しい感覚だ。行く月を覆っていた霧みたいな雲はすぐに風に押し流され、月明かりに照らされたあらゆる物体の影が薄い墨を塗ったように長く伸びていく。青白い光のカーテンを身体に纏った乙骨くんは底光りした絢爛さを滲み出している。私はただ純粋に、そんな彼のことを、





「…………綺麗だね」
「……えっ?」
「……あ、」





じわ、じわ、じわ。侵食していくようにいつも血の気が控えめな彼の肌に紅色が差していく。それは耳から始まり、頬へ渡り、ついには首筋にまで達していく。乙骨くんのその反応はたぶん、嘘ではない。天井から床にかけて忙しなく目線を彷徨わせた彼は最後に深く深く息を吐き出して、私と繋がっていない方の手で自らの顔を覆った。…………ごめん、わすれて、と蚊の鳴くような声が指の隙間から零れて、何と言っていいのか分からなくなった私が必死にコクコクと頷くと、彼はちらりと片目だけを此方に向ける。





「……そ、それはそれでちょっとショックかも……」
「ど、どっち!?」
「あー……あー……いや、その、」





……やっぱ、忘れないでほしい、です。妙に恭しく改まった口調の彼がぽつ、と呟いた。酷く恥ずかしそうなのに、それでも私の手を離さない彼の優しさに、私が汲み取れた彼の本当の言葉に、心拍の速さが増していく。彼に籠った熱が移されてしまったみたいに体の奥の方が熱くなる。やっぱり乙骨くんはずるい。何が何だか分からない中でそれだけが唯一、今の私に理解出来た事だった。







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