留守にしてまして







「あっ、」






人は案外、咄嗟の時には声が出るものだと思う。イヤホンを挿して慣れた道を歩く私に突然起こった、慣れない出来事。目の前を歩く黒い服の男性が落っことした白いハンカチを一瞬の戸惑いと数回の視線誘導の後に掴み取り、ここ数年一番の駆け足で追い掛ける。あ、の!と何の準備もなく押し出した自分なりの大声は不恰好に掠れてしまったけれど、幸運なことに男性は立ち止まり、くるりと振り返った。




「……何か用が?」
「……ええ、と、」




ハンカチを、とそこまで紡いだところで私の視線は彼の顔に向けられる。正確には顔、ではないのだが。失礼だと理解しつつも肌の色や何らかの障害など自分や他の人と違う場所に目が行ってしまう、というのは自然な事だと信じたい。彼の場合はあまりにおざなりに目立つ形で残された額を横断している大きな"縫い目"だった。男性は私が差し出したまま固まった腕からするりとハンカチを受け取ると人当たりの良さそうな綺麗な笑顔を浮かべて丁寧なお礼の言葉を口にする。そして、一言、衝撃的な一言を吐き出した。






「折角なので、そこでお茶でもしませんか?」






そんな色々な意味で濃い出会いから数十分。私は何故か見知らぬ男性とカフェの一角に腰掛けている。まさか新種のナンパ?それとも勧誘!?嫌な想像がぐるぐると頭から離れないけれど、彼は相変わらず穏やかな調子でウェイトレスに珈琲と抹茶のケーキを注文している。君は?と問いかけられたのに言葉を詰まらせつつも「お、同じものを……」と答えた私はきっと挙動不審のはずだ。ウェイトレスさんの貼り付けた微笑みの裏で何を思われているか分かったものじゃない。





「さっきは失礼な態度をとってしまって悪かったね。ケーキなんてお詫びの気持ちにしてはささやかだろうけど」
「い、いえ!そんな寧ろ貰いすぎというか何でここまで感謝されるのか分からないと言いますか……」





どうしてここまで……?と恐る恐る。伺うように尋ねた私に彼はくすり、と口角を緩めて笑うと「ただの善意だよ」と呟く。別にナンパでも宗教勧誘でもないよと付け加えられた言葉にびくりと肩を揺らした。考えていたことが見透かされたような気がして何とも居心地が悪いけれど、彼は本当にそれ以上何かをする訳でもない。そして何かと不器用……というか、不思議な行動を重ねる。メニューを手に取ろうとしては掴み損ねたり、掴めたと思えば床に落としたりと、兎に角言い知れぬ微妙な違和感があるのだ。水の入ったグラスを持つ手が震えた、妙に力が入っているのも気になるし、やっぱり"変"なのだ。初めこそ彼の行動一つ一つに眉を顰めていた自覚があるけれど、よくよく考えれば額にあんな傷が残る怪我なんて思い付かないし脳や頭蓋骨の手術をした、と考える方が自然だ。もし脳ならば麻痺が残っているのかもしれないし、多少の障害と付き合っていくような人生かもしれない。そう思えば途端に違うものを排斥しようとした自分が恥ずかしく見えてきて気付いた時には「何か手伝いましょうか」と声を掛けていた。





「……え?」
「その、もしかして腕、動かしづらいのかと思って……物を取る、とか、私に出来ることがあれば言ってください」






パチパチ、と数度瞬きした彼は、ふ、と笑い、直ぐに眉を下げて申し訳なさそうな顔をして「気を遣わせてしまってすまないね」と謝った。謝られるようなことを彼はしていないし、理解が足りてなかったのは多分私の方だ。初めて出会った筈の男の人の事をこんなにも真剣に考えている自分には驚いたが、なんだかこの人には不思議な雰囲気があった。穏やかそうなのに長く伸びた黒髪には表現するのが難しい圧があり、それでいて何処か儚い様子も感じられる。掴みどころが難しい性格も相まって、彼は何処かこの世の人間では無いようなするのだ。そんな事、あるはずがないのに。





「でもこれはリハビリも兼ねていてね、私が自ら動かないとダメなんだ」
「な、なるほど……その、何かの後遺症ですか……?」
「……あぁ、大きな手術でね」





この跡を見れば分かるだろうけど、と答える顔はどこか物憂げで息を呑んだ。どんな病気なのか私では想像がつかないけれど辛い事はよく分かる。彼は「夏油傑」さん、と言うらしい。すぐに漢字が出てこなかった私に震える指先で書いて教えてくれた彼に何とも言えない感情が込み上げる。いつか、彼が自然に文字が書けるようになればいいのに、そう願わずにいられない。ケーキが届いてからも彼とは色々な話をした。彼は博識な人で私の知らない事や知らない経験を多く積んできたらしい。奥さんが居るのか子供を産むこと、出産についてもかなり理解が深い人でこんな人に愛される女性はきっと幸せだろうと感じた。





「……ところで、一つ聞きたいことがあるんだけど……いいかな?」
「はい!私が答えられる範囲なら……」
「ならきっと大丈夫だね。……最近、肩が重かったりしない?」
「…………え?」





脈絡のない問い掛けだったが私は思わず目を見開いた。その反応が肯定だと悟った夏油さんは続けて「何かに追われる夢を見て、息苦しさで目覚めないかい?」と質問重ねる。どく、どく、と心臓の音がすぐ側で聞こえた気がした。どうして、分かったんだろう。小さく頷いた私に彼は首を振ってから"じっとしておいてね"と前置きしてから重いと感じている方の肩……左肩に手を置いた。ひんやりと冷たい手だった。瞬間的に彼の手に力が込められて、そして……




「……あ、れ?」
「……消えたみたいだね」




綺麗さっぱり、重みが無くなった。何が起きたのか分からず戸惑う私の目の前には右手に黒い球のようなものを握った夏油さんが座っている。彼は小さな声で何かを呟いたかと思うと一思いに"ごくん"とそれを飲み込んでしまったのだ。え!?と声を上げた私に夏油さんは一瞬眉を動かしてから「ちょっとしたおまじないだよ」と笑った。






「おまじないって……手品みたいなことですか?でも何で……」
「種明かしをすると手品とツボ押しの複合なんだよ、凝ってる人は見ただけで分かるんだ」
「す、凄いですね……夏油さんって本当に何でもできるんだ……」






私だって出来ることしか出来ないよ、と謙遜して見せる彼だったけれど私にとってはこんなに幅広く物事を知っていて、スキルを持っている人は十分出来る人に当たる。そんな時、感動しっぱなしの私に気恥ずかしそうに笑った彼の隣に置かれていたスマートフォンが震えた。






「出なくても大丈夫ですか?」
「……あぁ、大丈夫。"彼"は留守にしているからね」
「彼?」
「そう、本当に気にしなくて大丈夫。そういう相手だからね」






友達、という事だろうか?私に気を遣っているなら遠慮なく出てくれていいのにな、と考えつつ彼がご馳走してくれたケーキを口に運んだ。甘く広がる味に目を細めた私に彼もまたここのケーキは美味しいねと笑った。「今は尚更美味しく感じるよ」……と呟く言葉が聞く人によっては口説き文句に聞こえる事を夏油さんはもう少し自覚したほうがいいと思う。







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