認印






夢を見た。あまり詳しくは覚えていないけれど、通帳や保険の書類とか、私達にとって社会的に大切なものを仕舞っておく棚の前に普段着を纏った彼が佇む夢。ふ、と覚醒した意識はカーテンの外から差し込む朱色の光で徐々に明瞭になっていく。……どうやらいつの間にか眠ってしまっていたようだ。手元から滑り落ちるようにマットレスに無造作に置かれたスマートフォンには硝子さんからの電話が数件入っていて思わず苦笑いした。多分、心配されているんだろう。いや、多分じゃなくて、絶対に。



どうにか持ち上げた体と重力に従って滑り落ちる服の裾。ふ、と向けた窓の外に見える景色は数日前とは随分表情が変わってしまった。ハロウィンの夜がこの町の全てを変えてしまったのだ。ビルも、お店も、車も、行き交う人々も、そして、私達も。人気がなくなったテーブルの上に置かれた骨壷に触れてそっと息を吐き出す。普通の人の半分程度の重さしかないそれは、大きかった彼とは似ても似つかなかった。後で日下部さんに聞いた話だと私も渋谷に駆り出されかけていたみたいだけど、七海くんがキッパリと止めたらしい。何だかそれが「私から術師という仕事を奪い取ってまで安全圏に入れようとしていた」彼らしくて乾いた笑みが溢れた。どうせなら私も一緒に死ねたら良かったのに、七海くんの優しさは自分勝手だ。



……七海くんは死んだ。呪霊に殺された。呪術師として生きる以上珍しい出来事ではないけれど、彼は私を置いていき、取り残された私はまだ、この部屋から出られない。東京の殆どが酷い有様になったというのに一年前から同棲を始めた彼の家は神様が帳尻を合わせたみたいに傷一つなく無事だった。どうせなら彼のことを見逃して欲しかったのに酷い話だと思う。硝子さんはきっとこんな私だからこそ連絡してくれたんだろう。もしかしたら後を追うかもしれない、そんな事まで考えて。残念ながら私にそんな度胸も勇気も無かったけれど。……でも、ここに七海くんが居たら「そんな勇気は要らない」と叱られそうだ、なんて。





「術師を、辞めて頂けませんか」





彼の家に腰を据えた夜。ベッドの中で言われた最初で最後の我儘をよくよく覚えている。まさか体を重ねた後にそんなこと言われると思わなくてポカンと口を開けた私に七海くんは真剣な目を向けた。冗談なんかじゃないことはすぐに分かった。……迷いが無いと言えば嘘になる。それでも私は二つ返事で彼の願いを聞き入れた。七海くんが考え無しに衝動的な頼み事を私にするとは思えない。だからきっと、悩んだ末の結論だったのだろう。羽根をもがれた天使みたいに、私はこの日までの自分を支えて来たある種の生き甲斐を捨て、人間に還った。七海くんの彼女として生きる道を選んだ。何処か申し訳なさそうに、それでいて安心したように肩を落として「すみません、ありがとうございます」と紡がれた言葉があまりに穏やかで気が削がれたのだ。



子綺麗な入れ物の縁をなぞって、ふ、と小さく息を吐き出す。見ていられなくて逸らした視線の先には夢で見た棚が静かに鎮座していた。……意味はない。けれど、吸い寄せられるように立ち上がった私は彼がしていたようにそっと取手に手を掛けていた。簡単な力で開いたそこには朱肉と印鑑、そして、2枚の紙が納められていた。大きめの何かの書類とその上に載せられた私の名前に宛てられたメモ書き。流暢で綺麗な書体が彼の字だと気付くのに時間は掛からなかった。どくん、と心臓が跳ねる。七海くんからの、手紙?こんなもの、見たことがない。



震えた指先で几帳面に畳まれた紙を開いていく。怖くないと言えば嘘になる。でも、これを見ずに生きることも、死ぬこともしてはいけない気がした。綴られていた文字は決して多くはない。この一年の暮らしのこと、彼のわがままのこと、私たちのこと……しゃんとした男性にしては綺麗で整ったバランスの手書き文字からは元来からの真面目さが浮き彫りになっている。トメハネがキッチリした美しい文字列の筈なのに私には何故か滲んで見えた。





「どうするかは貴女にお任せします」





そんな一言で締め括られた彼の文章に溜息が溢れた。やっぱり彼は、狡い人だ。手紙の内容を理解してからもう一枚、さらに丁寧に仕舞われた紙を開く。彼の分の必要事項のみが記載された、この国では既に効力を失った紙切れ。だって日本では『死んだ人との結婚』は認められていないのだから。




ねぇ、七海くん。こんなものを残されて、選択肢まで与えられて、私はどうすればいいのかな。手元のスマートフォンで調べてみたらフランスとかだったら"できる"らしいよ、七海くん。……死人に口はなしとはよく言ったものだ。もう彼の気持ちは分からない。もしかしたら三途の川の向こうで私の考えを意味が無いと否定しているかもしれない。でも、君が悪いんだ。君がそのつもりなら私はどこまでも付き合ってあげるよ。


目尻を一思いに拭って、深呼吸する。必死に口角を持ち上げてペン立てから少しお高めのボールペンを手に取った。私なりに真剣に、間違えないように書いたはずの文字は彼のモノと並べるとあまりに不恰好で、インクさえも滲んでいる。でも、これでいい。これでいいんだ。替えを準備してくれて無かった七海くんのせいだし、私は悪く無いもの。





「……もしもし、硝子さん。心配掛けてごめんなさい。あの、私、もう一度……」





貴方と違って私はまともな仕事なんてロクに経験した事ない。私がお金を稼ぐ手段なんてこの道しかない。大丈夫、ヘマしないよ七海くん。ちゃんとお金を貯めてフランスにまで逃げてやる。……でも、もし私も死んだ時は迷わないようにちゃんと迎えに来てね、だとか。冥土で待っている筈の彼が呆れたのか、突然強い突風が部屋に吹き込んできたけれど私はもう止まらない。先に逝った自分を精々悔やむんだな、そんな気持ちで私は青空の奥に中指を立ててやった。女性がそんなことをしてはいけません、と母親のように小言を呟く七海くんの姿が脳裏に過って、私はやっと、今度こそ、心から笑えたのだ。




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