恋慕よりは淡く、








久しぶりに訪れた高専で見知った体格の男を見つけた。彼が誰なのかなんて、私が一番よく知っている。図体は私含めた同期の中でも一番で、その癖色々繊細に物事を考えられる、そんな男。ちらりと見上げた時計の針が指す時刻は高専の休憩時間を示している。私の学生時代の記憶が正しければ、恐らく。廊下から覗いた教室の中には色んな意味で話題の3人の学生が机を並べて話し込んでおり、教卓に立つ彼は手元の資料にじっと視線を落として私には気付いていない。……数秒の思考。今邪魔して良いものか、悪いものか。……結局私の腕は横開きの扉に伸ばされていたのだけれども。





「夜蛾くん!」
「……閑夜ッ!?」





想像より勢いよく開いた扉と一般的な教室よりも生徒が少なく広々とした空間に私の声が響いた。ギョッと目を見開いた彼は私の姿を見るなり直ぐに此方に近寄ってくると、そのまま背を押すようにして自分と私を廊下へと押し出してしまう。コワモテながらも柔らかい瞳をした夜蛾くんはそっと私の体から手を離すと「……すまん」とバツ悪そうに謝罪の言葉を口にした。こんなのセクハラになんて当たらないし、押された本人の私ですら大して気にしていなかったのにこうして謝る彼は紳士というか、律儀というか。変わっていないという言葉が似合う人だった。






「ううん、ほら、急に押し掛けたのが悪いし」
「……自覚はあるんだな」





小さく息を吐き出した彼にくすりと口角を緩ませる。多少は確信犯のつもりがあった私をすぐに察する夜蛾くんに付き合いの深さを感じて何だか少し嬉しく思った。相変わらず変わらないな、と苦笑いしてくれる彼の優しさを私はよくよく知っている。私は彼のこういうところが好きだ。剃り込みまで入れてさらに厳つい容姿になっているにも関わらず、夜蛾くんは穏やかで情に厚い人なのだ。




『え、今の誰?先生のオンナ?』
『……そんな話聞いたことないけれど……随分綺麗な人だったね』
『話し方は同期っぽいけどセンセーと同い年には見えないな』




ふ、と鼓膜を震わせた数人の男女の声が情報として脳に伝わった。目を開いたまま静止する私に彼はすぐに気付いて「……アイツら何を言ってる?」と尋ねてくる。肩を落としているのを見る限りその内容に大方察しはついているらしく、彼らの言葉をそのまま復唱してやると夜蛾くんは自らの顔を覆うように手を置いて再度溜息をついた。……そう、私の術式は「少しだけ」耳が良くなる、そんなモノなのだ。同級生だった彼は勿論それを知っているので私が声を受け取った時の反応で大体は理解出来たのだろう。夜蛾くんはまだ若いから許してくれ、と学生たちのフォローをしていたけれど、私は元々全く気にしていなかったので軽く手を振って大丈夫だ、と伝えた。寧ろあれくらいの方が健全な学生だと思えるし、先生と呼ばれる夜蛾くんが見れたのはかなりの収穫だ。




「なら良いんだが……それにしてもお前、」
「ん?」
「……いくら夏とはいえ、その服はどうかと思うぞ」




どうかと思う、と暗に苦言を呈された自分の格好を改めて見下ろす。丈の短い半袖のシャツに短パンと非常にラフな服装だけど、彼のお眼鏡には適わなかったらしい。似合わない?と首を傾げた私に彼は何とも形容し辛い表情で「そういう訳じゃないが、」と言い淀んだ。……勿論、私だって彼の言いたいことが分からないような子供じゃない。無邪気なフリをして夜蛾くんの優しさに触れようとするただの"どうしょうもない女"なのだ。それに彼が気付いているのかは定かではない。


夜蛾くんは半ば呆れを含んだ息を吐き出すと、ジッパーを引き下げて自身の纏っていた黒い上着を柔らかな手つきで私の肩に覆い被せる。数秒前まで彼の体温を吸っていた布地はほんのりと暖かくて心にまで柔らかな光が灯った気がした。ほんのりとした出来心を込めて「生徒達に見せられないから?」と笑えば、ドアに手を掛けようとしていた彼の手が止まり、数秒の沈黙が生まれた後、夜蛾くんは落ち着いた声色で呟いた。







「……いや。俺が心配だったんだ」






ゴーン、と始業のベルが鳴った。私の返事を待つより早く休憩時間の終わりが告げられた彼はそのまま教室の中へと入っていく。中からは私の術式を使う必要がないくらいの大声で私と彼との関係性を問い詰めようとする生徒の声が聞こえた。でも、その内容が頭に入ってこないくらいに私は今、動揺している。てっきり彼の事だから、生徒達の不純異性交遊を助長しないためだとか、風邪をひかないためだとか、そんな理由を付けてくると思い込んでいた。それが、どうだ?結果彼の口から伝えられたのは「心配」の2文字だったのだ。彼の言う心配が何を指すのか私にはわからない。どうしようもなく熱くなった顔を誤魔化す術を私は、知らない。


夜蛾くんはずるい。昔からこういうところがある。彼はよく私を混乱させるんだ。やがて静かになった教室からは彼が教鞭を取る声が聞こえてきた。音としてそれを受け入れつつ、ふらふらと彷徨い歩く私をきっと夜蛾くんは知らないのだ。それが悔しいような、彼らしいような、そんな気持ちで受け入れる私は大概彼に懐いている自覚がある。





『えっ、あの人誰?学長の奥さん?』
『……いや、見た事ないな』
『タメで話してるけど……あの人の方が大分若そうよね』





ふ、といつものように体を静止させた私にサングラスを掛けた彼が振り返る。そこに立つ新入生三人の姿を目に入れると夜蛾くんはいつかみたいに「またか」とため息を吐いた。その反応に口角を持ち上げた私に彼はそろそろ年相応になってくれないか?と一周回って薄く笑みを浮かべながら呟く。以前より私も彼も十分歳を重ねた筈だけど、彼にはまだ年相応には見られていない、ということだろうか。若干不満を抱えつつ子供っぽいということか、と尋ねると夜蛾くんはゆっくりと首を横に振った。





「……いや、そうじゃない。いつまでも昔と変わらず美人だって事だ」
「…………なぁに、それ」





嘘じゃないぞ、と前置きする彼はやっぱり何年経ってもずるい。恋と呼ぶには仄かな彼への感情をずっと燻らせる私を彼は知らない。左手に付いた指輪を見て嬉しくもあり寂しく思っていたことも、きっと、知らない。それがいつの間にか無くなっていたのを見て何を思って良いのか分からなくなったことも、きっと。





「夜蛾くんにそう言ってもらえるなら逆に頑張っちゃうよ?私」
「……それは、喜ぶべきか迷いどころだな」





仕方なさそうに目を細める彼が優しい人だと知っている。サングラスの奥にある瞳が穏やかに歪んでいるのも知っている。いつの間にか学長にまで上り詰めた彼がこれからもその優しさを大切に生きていく姿を私は出来るだけ長く、見守りたい。オレンジ色の髪の男の子が残りの二人に押されるようにして彼の前に弾き出された。まだ若い少年に私との関係をストレートに尋ねられて何処となく狼狽える彼のことがやっぱり、私はすきなのだろう。









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