相合い傘







数時間前までは晴れ渡っていた空に少しずつ暗雲が立ち込み機嫌を悪くし始めたと思えば、案の定。蛇口を捻ったような唐突さで雨が降り始めた。一粒一粒を視認出来るくらいの大粒の涙は、咄嗟に邪魔したバスの停留所の古いトタン屋根をひっきりなしに叩いている。樋の先端から阿保みたいに水が溢れて地面に大きな水溜りを作っとるし、あぁ、何やねんコレ、と苛立ちを隠せない。ただでさて全く面白くないコトの為に出てきているのに酷い仕打ちだ、とため息を吐く。着物の下のシャツが立ち込めた湿気で肌に張り付きあまりの着心地の悪さに涙が出そうだ。まぁ、そんなことは実際起こらないのだが、比喩表現というヤツだ。



分厚い雨のカーテンのせいで霧がかり、灰色に染まった視界はどうにも不良で2、3メートル先ですら視認するのが難しく、かと行って備え付けられたちゃちな青いベンチはとっくの前に濡れそぼって座る気にもならない。必然と立ちっぱなしになってしまうのはそれなりに辛く面倒だし、今日行ったお偉いさんの話もつまらんかった。兄さん方は人相が悪ぅて話し合いの場には向かんし、必然的に俺が足を運ぶ事になるのが常で、重い和服をウチ以外で纏うのは肩が凝りストレスが溜まる一方だ。チッ、と思い切り舌を打ちながら現代機器を取り出して、家に電話を掛けようとした、が、寸前で俺の指が静止する。






「お兄さん、雨宿りですか?」






ちゃぷ、と小さな水音を鳴らして俺の目の前に立つ、京訛りの番傘を差した、女。赤い華を肩に掛けながら、少しだけ骨を持ち上げ、そこに見えた"見知った"美しい顔立ちに「げ、」と思わず露骨に嫌な声が零れた。閑夜捺。抜けるような白い肌と自然に色づいた仄かな唇。蠱惑的で精巧な美貌は確かに目を惹くが、人形みたいで面白味は感じられない。彼女は最近入ってきた使用人の女だった。扇はんにも直ぐに気に入られる器量の良さと甚壱くんが骨抜きになる美しさ。そりゃあもう体も顔も上玉中の上玉だけど、呪力はからっきしの勿体無い女。これで有望な術式でも持っとったら1人くらい俺の子産ませたっても良かったんやけどなぁ、と考えていたのが最早遠い昔の話にも思える。






「五条家の無下限持ちの綺麗な坊ちゃんなら、こんな貧相な場所で雨宿りをする必要も無かったんでしょうね、直哉さん?」
「……死ね。この阿婆擦れ」






あら、相変わらずお口が悪いですね。だとか、クスクスと口元に手を当てて鈴を鳴らすみたいに笑う姿があまりにも憎らしい。何度も解雇してやろうと思ったが、兄さん方も"パパ"も騙し込んでいる彼女を独断で引き下ろすのは俺の今後の立場が悪くなる可能性があり、仕方なく足踏みするしか無かった。相変わらず信じられへんくらい整った唇から吐き出される蠱毒は酷く禍々しく刺々しい癖にそれを見た目に滲ませないからタチが悪い。器用で世渡りの上手い女の癖に、俺に対する気立てだけは最悪な下賤な糞女がよりによって迎えとはよっぽど運が無い。これ以上コイツのペースに乗せられても碌なことがないと分かっていたので、深く息を吐き出して、ええからはよ入れろや、と催促したが彼女は一歩離れた所で笑うばかりで近寄ってくる気配が無い。……まさかこの女はそこから動かんつもりか?俺を絶対濡らす為に?あまりの性格の曲がりっぷりに絶句する俺に嫌味ったらしく傘を傾けて、どうぞ、と喜色を浮かべる姿は妖怪とかそういう類に近しいとさえ感じた。





「ッ、ホンマ最悪やなお前……!」
「やん、乱暴せんとってくださいな」





明らかに楽しそうな顔。俺を舐め腐った態度。額に青筋が浮かんだのが分かる。こんな雨の中どうせ見てる奴はおらん、そうやって自身を正当化させつつ殆ど無理やり彼女の手から傘の柄を奪い取り、着物姿の女が追い付けないぐらいの速さで歩を進めた。泥が飛び散る事なんか気にも留めず、ただただ俺を馬鹿にする女を貶めたくて、いつも余裕そうに笑うその顔を少しは曇らせてやりたくて、背後を振り向かずに水溜りを踏み締めた。綺麗な着物に水を含ませて、重くなった体を引きずり惨めに歩いて帰る姿を思い浮かべる。……あんな女、ちょっとくらいは灸を据えてもバチは当たらん。雨音に掻き消えてなんの声すら聞こえない中、俺はひたすら足を動かし続けた。




どのくらい歩いただろうか。じわ、と足袋に滲む心地の悪い感覚に口を歪ませて、触れた現実感に何となく後ろを振り返る。相変わらず視界は悪く、背後には何も見えない。耳を澄ましても水を蹴るような足音ひとつも聞こえない。アイツは、そこに居なかった。……何所行ってん、アイツ。様々な可能性が脳を巡った。どっかで転けて身動きが取れへんか、餓鬼みたいに迷子しでもなったか、それとも川の氾濫に足を取られたか。あの女が雨なんかで死ぬようなタマか?何度も自問自答して、最後に浮かんだのは初めて顔合わせした時の、彼女の柔らかな、表情。…………アホらしい、ホンマに阿保や、そう思いつつも、何度も自己嫌悪しつつも辿り着いたのはさっきまで自分が居た停留所で、雨に紛れない鮮やかな着物を纏い、真っ直ぐ背筋を伸ばし気高い立姿に安堵の息を吐き出した自分が、本当に、並外れた馬鹿だと自覚する。






「……おい、」
「なんです?」
「…………はよ、入れや」
「……直哉さんがそう言うなら」






失礼します、とたおやかに頭を下げて裾を引き、俺の隣に並んだ女の所作は妙に艶っぽい。女1人で差すには大き過ぎる傘を持ってきた彼女は気が利くのか、それとも確信犯なのか、それ以上は俺には分からない。小さな屋根の下でふたり、隣から漂う桃の薫りに脳の奥が揺さぶられた。……あぁ、腹立つ。この雨も、湿気も、熱も全部が全部腹立たしい。丁度噛みつきやすそうな白い頸と凛とした瞳が酷くアンバランスだ。誘っとんのかお堅いのかどっちかにせえや、そうやってつい、悪態を吐きたくなる。





「…………何で一本だけやねん」
「直哉さんと相合傘、素敵ですよ」
「アホ抜かせ」
「ほんまです、この傘重いんで助かりました」
「……結局俺を使とるだけやろ」





そうかもしれませんね、と目を細める彼女には美しいという言葉すら俗っぽさを感じさせる。かつてより、傾国を齎らすのは女だと言われてきたが、案外それは的を射ている気がした。人の心をかき乱し、踏み躙る甘美な果実。厚みのある唇が震える度に官能に近しい生々しい欲が渦巻いて、震える。こういう女は誰かのモノになるようなタイプやない、理解しつつも自らに閉じ込めて拘束したくなる。あぁ、嫌や、こんな女を気にしてる自分が嫌や。こんな土砂降りの空なんか死に晒せと思っとったのに、今は止むなとすら思っとる自分がキショい。歩く度に変色し、ずっしりと重くなる左肩が俺の抱えるこの女への感情の全てを表している気がした。俺がそれについて何も言わずとも「帰ったら着替えましょうか」と提案してきた女にムカついてアンタも脱ぐなら考えたるわ、と突き放せば、キョトンと珍しく目を丸くした彼女は「それ、今ならセクハラで通りますよ」と花が咲いたみたいに閑夜は自然と、可笑しそうに笑った。現実的な台詞と一緒に言うことちゃうわ、と突っ込みつつも、可愛らしい、と一瞬思ってしまった脳内花畑な自分をブン殴ってやりたい。直哉さん訴えられへんよう気付けてくださいね、なんて、余計なお世話やわアホ女。








×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -