彼岸は遠く | ナノ



5/5










チュンチュン、と鳥が囀り、北風に木々が揺れ、まだ薄い影が地面に落ちる。窓の外をぼんやりと見つめ、自然と震えた身体に被り直そうと引き上げた布団は想像以上に重く、結局目が覚めてしまった。寝返りの延長でベッドの上で振り返れば、分かってはいたが大きな体を丸めた男が毛布の大半を占領している。まったく、ひどい光景だ。








「……寒いよ、夏油くん」
「……ん、」
「なにそれ」
「こっち、来るかと思って」








いつから起きていたのか、夏油くんは瞼をそっと押し上げると掴んでいた布を離し、私に向かって左腕を広げる。自信ありげなしたり顔の彼に思わず息を吐き出して、一思いに無防備になった布団を引っ張ってやれば「ちょっと!」と慌てた声がした。知らない知らない、そんな態度を示すように背中を向けて分かりやすく拒絶すれば、テーブルに映った夏油くんの影が右往左往しているのが見える。冗談だよ、と困った声で赦しを乞う姿は中々どうして間が抜けていて面白い。結局吹き出す様に笑ってしまえば、彼は一瞬固まってから安心のため息を吐き出した。たまには焦るのも悪く無いだろう、きっと。





「ちょっと早いけど、朝ごはんにする?」
「……いつもより大分早くない?」
「でも、折角目が覚めたし」
「本音は?」
「……私が、その……お腹空いてる」
「……はじめからそう言えばいいのに」





腹ペコな夏油くんの告白にマットレスを軋ませながら起き上がった二人の姿が、柔らかい雪の積もった地面から反射した朝日に照らされる。初めてここに来た時は一面の銀世界、という言葉がピッタリだと思ったのに、人間は一年も経てば随分見慣れるものだ。壁の柱に手を着きながらフラフラと立ち上がった彼の右腕部分を覆う袖が同じように揺れる。夏油くんは大欠伸をしながら短くなった自身の髪を撫で付け、キッチンに向かっていった。今週のご飯担当は彼なのだ。




夏油くんがご飯を作ってくれている間に着替えようかな、とクローゼットを開いて、適当にハンガーを掻き分ける。何となく決まるものがなくて一番端にまで到達しそうになった時、透明の袋の中に入れられた"それ"を見つけて思わず手が止まった。右肩の部分から規則性のない黒いシミが大きく残されたこの服は、去年のクリスマスにダメにしてしまったものだ。……そういえば、残しておいたんだっけ。




手元に触れたその服と、キッチンに立ち私に背中を向ける彼を見比べた。こんなに血を流していたのに、よくもまあ、生き残れたものだ。彼は右腕を失い、右足の神経も幾つか駄目にして、走る事が出来なくなった。それでもこうして、生きていた。……運命に生かされたのではない。彼は、人に生かされた。






「今後一切、何があっても日本に足を踏み入れるな」

「……それでも、懲りずに来た時は、」

「俺が二人とも、殺しに行く」
 





五条くんは優しい人だ。こんな言葉を思い出しておきながらでは説得力が無いかもしれないけれど、本当に優しい人だった。五条くんは私達から"目を瞑って"くれたのだ。私も夏油くんも、彼の優しさに甘えた。酷いことをした自覚はあるけれど、あれがあの時私にできた精一杯の取引であり、頼みの綱だったんだ。日本に居る彼がこの決断で上に何を言われたのかは分からないし、私にはもう、知る術はない。私には、私達には彼の平穏を祈る以外何も出来ないのだ。






「捺、もうすぐ出来るよ」
「……うん、分かった」






数秒の思考の後、私は着替えずにクローゼットを閉めた。二つ置かれたトーストのうち、ひとつの前に腰掛けて、真ん中の大皿に盛られたサラダを適当に乗せていく。夏油くんも私と同じように自分が食べるだけのサラダを自分の皿へと掻っ攫ったけれど、さっき空腹だと宣言した通り、かなりの量に見える。思わず眉を上げた私に気付いた彼は態とらしく肩を竦めて「育ち盛りなんだ」と答えた。






「あの時は何も言わずに居なくなって、」

「犯罪者になって帰ってきたかと思えば"手当てしてくれ"ねぇ」

「……いーよ、馬鹿ども。何処にでも行っちまえ」
 





今やクリーム色のスウェットを纏う彼は、直接的には私達のもう一人の友人に生かされた。あの日、五条くんの元から離れ、私は動けない夏油くんを必死に引き摺った。五条くんは追いかけて来なかったけれど、他の術師に見つかれば全てが終わりだった。それでも私はすぐに高専から離れるのでは無く、地下にいるであろう彼女の元を訪れたのだ。こんな怪我をしている彼をどうにか助ける方法がそれ以外に浮かばなかったし、私は最後にもう一度彼女に会いたかったのかもしれない。当時の短かった髪の面影はなく、胸元のあたりまで伸ばしっぱなしになっている姿に硝子が忙しい事はすぐに分かった。





「……寒いねぇ」
「薪入れる?」
「あ、私が、」
「いいよ、捺は座ってて」





緩やかに私が立ち上がるのを制した彼は暖炉の中に積み上げた薪を幾つか放り込んだ。慣れたように左手でトングを扱う彼は片腕での生活にも大分順応しているように見える。人里から少し離れたロッジで二人きり。たまに街に降りて買い物をして、また静かに戻っていく。幸い私も彼もお金だけは困らない量を持っていた。呪術師という職についていた事をこんなにも感謝した事は無い。



ある程度火を大きくした彼は満足気に頷いてから、また私の正面に腰掛けた。ふぅ、と反射的に吐き出した息がパチパチと火の燃える音の中で静かに響く。夏油くんは、私の前で、私のそばで、今も生きていた。腕を失くしても、一生日本に帰れなくなっても、それでも彼は、ここにいる。これが正しい選択だったのかはわからない。彼がしてきた事は正当化出来ないと思っているし、それを見て見ぬ振りしてきた私も同罪だと思う。




夏油くんも今の状況に対して何か言った事はなかった。何人もの人間を葬ってきたのだから、こうなる可能性があることも何処かで受け入れていたんだと思う。……それでも、たまに私は考えてしまうんだ。彼はあそこで死んだ方が、良かったのではないか、と。彼をここまで連れてきたのは大半が私のエゴだ。エゴであり、復讐であり、あらゆるモノへの贖罪だと思う。





「……夏油くん、私がね」
「ん?」
「私が……夏油くんの腕が無くなって、足も満足に動かなくなって、良かったって思ってる……って言ったら、怒る?」
「……怒るなんて、そんなことしないよ」






夏油くんは少しだけ私の言葉に驚いていたけれど、すぐに柔らかく口元を緩めて見せる。物騒で不謹慎な事を言ったのにも関わらず、彼は穏やかだった。机の上で左手を伸ばした彼は私の両手に掌を重ね、ぎゅ、と優しく握り込む。確かに伝わってくる拍動と温もりは、彼のものだ。







「きっと、私のためなんだろう?」
「……夏油くん、体が動いたらまた戻っちゃいそうだもん」
「それは……まあ、否定はしないかな」







でもね、と区切るように呟いた彼の目は以前よりずっと澄んでいる。憑き物が落ちたような細やかな色合いが朝の晴れやかな空気に溶けていく。私はそれが、綺麗だと思った。






「私は、左手だけでも残って良かったと思ってるんだ」
「……」
「君を護れる分の手が残って、良かった」
「……夏油くん」
「それがせめて、私に出来る恩返しだろう?」






触れていた彼の手に力が篭った。それが必然のように彼はそう言ってのける。でも、決してそれは以前のように負担が籠ったものではない。すべきだ、しなければならない、といった重い枷に縛られているのではなく、あくまで彼が"そうしたい"から、そんなニュアンスを感じさせた。……そして、それを聞いた私は、この一年間、ずっと言えなかった事を零していたのだ。








「夏油くん、」
「ん?」
「今……しあわせ?」









彼は目を見張り、ふ、と息を呑む。少しだけ瞼を伏せて、そして夏油くんは、







[back]

×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -