彼岸は遠く | ナノ



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これが悪夢ならどれほど良かっただろう。






導かれるように帰って来た母校の一部は見る影が無いほど崩れ落ちていた。隕石でも落下したかのようなクレーターや瓦礫の山を通り過ぎ、徐々に足を回転させるスピードを早めて行く。嫌な想像ばかりが頭をよぎり、必死に首を横に振った。道標みたいに続く赤黒いシミを必死に追いかけて、そこで、建物と建物の間にある薄暗い路地に佇む、彼を見つけた。





「……夏油、くん……」
「……捺、」





どうして、と聞くのは野暮かな、と目を細めて笑った彼は辛うじて立っていた体を壁に預け、そのままフラフラと地面に座り込む。慌てて駆け寄った私の足に生暖かい液体が付着する。ちらりと一瞬向けた視線の先に見えた酷い血溜まりに眉間に皺を寄せ、首を振った。……が、結局私が視界に捉えたのはあるべき場所から消え去ってしまった彼の右腕だった。肩から先が捩じ切られたように無くなり、先からは未だに止まらない血液が滴り落ちている。久しぶりに訪れた高専での思い出がこんなことになるなんて、本当に私も彼も、ついてない。






「……無茶しすぎだよ」
「そう、言われるのは、覚悟してた」






不自然な言葉の区切り。肩で息をする彼が致命傷を負っているのは明らかだ。それでも尚今後の展望を口早に述べる彼の声を聞きながら、私の中に様々な可能性が浮かんだ。彼は助かるのか?碌に動けない彼をどうやって助ける?そもそも片腕すら失った彼を助ける意味は?それとも、彼は、もう、




頼りない灯火が揺れる彼に向けて静かに視線を向ける。私は、蜃気楼のような揺らぎの中に彼と過ごした"時間"を見た。あまりにも儚い光景の中で彼は苦しみ、悩み、時に笑い、血に染まる。たくさん集った家族と呼ばれる存在の中で体を袈裟で包んだ彼は分厚いミノの中にいる気がした。彼がただ、彼のままでいられたのは何時の話だろう。私はそれを知っているような気もするし、もしかしたらもっともっと、私が出会うより昔の出来事かもしれない。……けれど、少なくとも彼は、今の夏油くんは、幸せそうには見えなかった。必死にもがいて、もがいて、狭い路地に体を打ち付けて、遂には半身まで抉れてしまった。


……いつか、こんな日が来るとは思っていた。それが今日だとは思っていなかったけれど、でも、彼が本当にボロボロになってしまう日を、何かから"解放"される日を、私は待ち望んでいたのかもしれない。彼に高専から連れ出されたあの日からずっと…………いや、本当に、そう思っていた、の、だろうか?








「……っ、はは……流石に、すこし堪えるね」
「……少し?」








ピクリ、と自分の眉間が動いたのが分かった。そうだ、私は彼に半ば強制的に連れて行かれたんだ。その上で、その上で彼は今、こうしてボロボロになっている。私の人生の大半を奪ったくせに、家族を守るなんて大義名分を掲げて一人で高専に突っ込んで、死に掛けようとしている。思い返せば思い返すほど勝手で、あまりに最低な人間だと理解した。勿論分かっていたつもりだけど、でも、こんな時でさえ自分勝手な最悪な男だなんて、思いもしなかった。


腹が立つ、悔しい、くやしい。溢れそうな感情を押し殺そうと手が震えた。目敏い夏油くんはそれにまた何処か寂しそうに笑う。なんなんだよ、さっき見つけた時はあんなにも饒舌に次の野望について話していたじゃないか。なのになんで今、そんな諦めたような顔をするんだろうか。なんで私を、そんな目で見るんだろうか。もう、耐えられなかった。






「ッあの、ね……!」
「!?っ、なに」
「勝手に私の人生を掻き回して、なんで、いま、死のうとしてるの!?」
「……っそれ、は、」
「私を連れてきて、でも何かをさせる訳でもなくてッ!!」
「……!!」
「そのくせ勝手に!ひとりで!!……何処に行くつもりなの……?」







ぼたぼたと彼の腕のあった場所から赤い血が流れた。そりゃあそうだ、こんなふうに首根っこを持ち上げたんだから。それにあんな傷口すぐに止まる筈がない。私より何倍も重たい体がほんの少しだけ軽く感じたのに唇の奥を噛み、じんわりと鉄の味が広がる。夏油くんは細長くて"胡散臭い詐欺師"みたいな目を一際大きく見開いた。まさか死の間際にこんなこと言われる人生だなんて、彼はきっと想像していなかったのだろう。口をパクパクと金魚みたいに情けなく開閉する夏油くんを見れただけでも儲けものだ。……殺す気なんて、ないけれど。






「最初はね……さっき夏油くんの姿見た時、もう、終わりにしようって思ったの」
「……捺、」
「夏油くんは十分苦しんだし、頑張ったから、楽になっていいよって、言おうと思った……でも、」
「…………」






夏油くんは息を呑んで私の話を聞いていた。自分の事ながら冷静だと思う。こんな状態の知り合いを見て折り合いをつけようとしていたなんて、それを今本人に説明しているなんて、イカれてる。でも、私が伝えたいのはこんな事じゃない。こんな生温い優しさではない。彼の元で生きた日々の分を、今から私はきっちり、全部、取り返すんだ。……夏油くんが教えたんだよ、貸したものはきっちり返してもらえって。何度もその話を聞かされたんだから、いいよね、夏油くん。






「……でも、それじゃ足りない」
「……たり、ない?」
「私があなたに渡したものと、釣り合ってない!!」
「……つ、つりあい、って、」
「あなたの仕事と同じよ!話を聞いて、お祓いをして、その対価を貰うだけ!!」






驚きの色に染まり切っていた夏油くんの目がゆっくりと、次第に地面に降ろされていく。渡せる物なんて、と消え入りそうな声で呟いた彼は淀んだ黒真珠みたいに余計に瞳を濁らせる。"渡せる物なんてない"?なんて、夏油くんは肝心な時ほど本当にほんとうに、鈍くてどうしようもない人だ。私が求めるのは私が捧げた分と同じ「対価」だけなのだ。難しくもなんともない、ただ彼が、頷いて手を取ればいいだけなのだ。……あの日の私と同じように。







「……今すぐここ逃げて、生き延びて……ただ一緒に居てくれればいい、それだけ」
「…………本気?」
「本気じゃないなら大怪我の人間を揺さぶったりしないよ」
「でも、」
「でもなんて言える立場なの?夏油くん、」







「楽に死ねると思わないで」そんな捨て台詞と共に、私はゆっくりと彼の襟首から腕を離した。昔は貴方によく投げを教えられたよね。それがこんなところで役に立つなんて思わなかったよ、私。そんなことを考えている間にも、鳩に豆鉄砲を食らったような顔をして彼は私を見上げた。零れ落ちそうな目玉と彼の肩が小さく震える。貴方はせいぜい、残った左手を伸ばせばいいんだ。








「……なに、オマエらいつからそんな関係になったの?」
「……さと、るッ!?」
「なんかお熱いとこ見せられてるし」








背後に感じた気配と聞き覚えのある声に。彼の左手は反射的に下げられようとしたが指先だけが触れた時点で私は何も構うことなく彼を思い切り自分の元に引き寄せた。苦しそうに咽せた彼から伝わってくる異常な熱と血生臭さに少しだけ眉を顰めつつ、私は改めて彼と向き直る。圧倒的なオーラを纏いながら佇むのは、呪術界最強を謳われる男……そして、私の元同級生である、五条悟だ。



小さく息を吐き出し、その後で深く吸い込んだ。彼と対峙することなんて、分かり切っていた。五条くんが来ないはずがない、私には根拠のない、でも確かな確信があった。私の肩に抱かれている夏油くんは暫くの悶絶の後、そっと五条くんと視線を合わせた。それから今度は私に目を向ける。……大方離すようにとでも言いたかったんだろうけど、先に首を横に振った私に仕方なさそうに息を吐き出すと、五条くんと話し始める。






それを私が見ているのはなんだか気が引けて、そっと瞼を下ろし、ただその空気感に浸る。……あぁ、懐かしい。小気味良いテンポで進む会話は昔とそう変わらない。少しだけ夏油くんが"露骨"に性格が悪い話し方になったのと、五条くんの声が低く落ち着いたことだけが私の記憶との違いだった。何よりもまず家族たちの無事を聞くあたり、彼は本当に家族を案じていたんだろう。この作戦だって彼が全ての犠牲を厭わない人物であればきっと、もっと上手くいったのだろう。……当然五条くんもそれを理解した上で作戦を打ち出したみたいだが。






「そこは信用した。オマエの様な主義の人間は若い術師を理由もなく殺さないと」
「"信用"か、」






クツクツと喉の奥を鳴らしながら笑った彼の声には明らかな嬉しさが滲んでいた。……彼らは仲違いをしたのではない。ただ、進む道が違っただけ。そう思いたくなってしまうようなやり取りだった。視界が黒で染まった私には彼らが今でもあの高専特有の制服を纏っているような、そんな気がしてならないのだ。……ゆっくりと目を開ける。けれどもそこには、成長した五条くんが立っているだけだ。







「……で?急に居なくなった同級生とこんな所で再会するなんてね」
「……久しぶり、五条くん」
「捺、やっぱここにいたんだ」
「居たっていうか……誘拐されたに近いけど」







一瞬、青い瞳をキョトンと丸めた彼は手を叩きながら声をあげて笑った。誘拐ィ?と楽しそうに夏油くんを見た彼はきっと当時ならサングラスを引き下げて居たに違いない。夏油くんは少しだけバツ悪そうに目を逸らしたけど、何も言わなかった。彼も多少自覚はあるみたいだ。







「それで"誘拐"の腹いせがさっきの?」
「そうなの。……あのね、五条くん」
「……うん?」
「私も、あなたの友達?」







まつ毛の先まで白い彼は二度、ゆっくりと瞬きをした。それから少しだけ目を細めて「あぁ」と答えた。彼もまた、私が言いたいことを理解している気がした。五条くん越しに見える空は既に白んでおり、今日という日の終わりを告げている。……私もまた、彼を信用していた。私の申し出を聞いた五条くんは、何よりも、誰よりも呆れた溜息を吐いて、それから告げた。








「………何か言い残すことはあるか」








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