彼岸は遠く | ナノ



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案外この生活に不自由は無かった。


と、言うよりは、不自由が無いように"彼がしていた"の方が正しいのかもしれない。








私を連れて行ったあの日。彼は東京を少し離れた場所にある山奥の寺院に案内してくれた。そこには二人の年端も行かない少女が居て、彼の姿を見るなり彼女らはその長い足に縋りついた。目を丸くして立ちすくむ私を尻目に「美々子と菜々子だ」と端的に説明した夏油くんは明らかな敵意の目を此方に向ける二人に苦く笑ったものだ。






「捺!ただいま!」
「ただいま……!」





勢い良く開かれた障子が地面と擦れてスパン、と一層清々しい音を立てる。活発そうに高い位置で止められたお団子と艶のある墨のように綺麗な黒髪がゆらゆらと靡いた。腕一杯に紙袋を下げ、巷で流行りのジェラートをしっかり掴んだ二人は楽しそうに私の近くに座り込む。キラキラと眩い笑顔で今日はこんな店に行った、こんなものを食べた、と全身全霊で教えてくれる姿は何とも微笑ましい。うんうん、とゆったり頷きながら二人の話を聞いていると、開いたままになった障子の奥から、ひょこり、と夏油くんが顔を覗かせた。





「おかえり、夏油くん」
「あぁ、ただいま……」





心なしか疲れを滲ませた顔で私に挨拶した彼の手には美々子ちゃん達の持っている高級感溢れる紙袋とは正反対の安売りスーパーのビニール袋が握られている。大方二人の引率をした後、タイムセールに合わせて買い物でも行ったのだろう。本当は私がもう少ししたら足を運ぼうと思っていたのだけれども……どうやら先を越されてしまったらしい。というか、先を越すために寄ってきた、の方が正しいのかもしれない。



夏油くんは二人の話がひと段落したのを見計らうと、食材を冷蔵庫に入れてきてくれないか、と穏やかな声で頼み込む。彼に頼み事をされるのがよほど嬉しいのか、美々子ちゃんと菜々子ちゃんは顔を見合わせてから自分達のために買ったであろうそれらを畳に散らばせて「はーい!」と明るい返事を携えながらビニール袋を一つずつ掻っ攫って廊下を走って行った。二人の軽やかな足音を暫くBGMにした私達は、それが完全に聞こえなくなってから顔を見合わせて笑った。子供は元気なのが一番だ、なんて。私もまだまだ子供なのだけれど。





「元気だね」
「そうだね……ふぅ、流石に少し疲れるけれど」





ぐる、と筋肉質な肩周りを動かした彼の体からはゴキゴキと明らかに固まった音が響く。折れてしまったのではないかと錯覚するような響きに少し心配になってしまったけれど、夏油くんは至って平然としている。どうやら相当疲れが溜まっているらしい。それもその筈、ここ最近は集会をたくさん開いていたし、地域のちょっとしたイベントや布教活動にも精を出していた。そして、詰まりに詰まっていた予定の合間に空いた今日はと言えば二人の買い物に付き合ってすっかり日も暮れている。まるで家族サービスを欠かさないサラリーマンみたいな生活だと思った。





「……夏油くん、肩でも揉もうか?」
「え?」





思いついたままの言葉を口にした私に夏油くんは完全に抜け切った声を溢した。キョトンと丸まった瞳に口角を緩めてから「疲れてるみたいだし」と指摘すると、バツ悪そうに頬を掻きながら長く笑った彼は……分かる?と鼻声混じりに呟く。一応、彼自身疲労の自覚はあるらしい。これで何でもない顔をされたらどうしたものか、と思っていたけれど杞憂のようだ。


少し迷うように視線を彷徨わせた夏油くんは小さく息を吐き出す。辛うじてため息には満たないそれは緩やかに天井へと吸い込まれ、そして、観念したように「お願いしてもいいかな……?」と答えた。断る筈もなく二つ返事で了承した私は彼の背後へと回り込み、軽く気合を入れながら膝立ちになった。畳に触れる面積が狭くなり自身の体重が2点に集まる。この体勢はつらい。つらい、が、何せ夏油くんは体が大きくて私が普通に座るだけでは到底座高が足りない。なのでこうして泣く泣くこんな体勢に落ち着いたのだ。


当然チラリと首を回して私を見ていた彼は不安そうに眉を顰める。無理しないで、と細やかに声を掛けてくれる夏油くんは変わらず優しい人なのだろう。それに必死に大丈夫だと伝えつつ、私は彼のがっちりと硬い筋肉にそっと、手を伸ばした。





「わ、」
「……どう?」
「その、硬くて中々入らないね」




ぐ、ぐ、と親指を窪みに滑り込ませようとしたけれど、彼の鍛え上げられた肉体と疲労故の肩凝りには私の指はびくともしない。ぐ、ぬぬ、と自然と唸りながら押し込もうとする私に夏油くんは気恥ずかしそうにあぐらをかいた膝を揺らした。ごめん、その、と煮え切らない口調でチラチラと視線を此方に向ける彼はどう見ても困っている。私がしたいと言ったのだから気にしなくていいのに、やっぱり律儀な人だと思う。人の性格はそう簡単には変わらない。それはきっと夏油くんにも当てはまっている。


体重を乗せて沈めるように力を込めた。少しずつ触れた筋層を掴み上げ、揉み込み、刺激する。やっぱり凝ってる、とほぼ無意識に呟いた言葉は彼の耳にも届いたらしく、そんなに?と首を回していた。硬すぎて触るのも難しいくらいなのに、どうやら自覚はなかったらしい。最近ロクに休んでいる彼を見ていないし疲れるのは当たり前かもしれないけれど、それにしても心配になる。






「夏油くん、無理しなくていいんだよ」
「……ありがとう。でも大丈夫だよ」
「ほんとに?」
「うん、本当」






私がそんな嘘付くと思う?と続いた声色は戯けたようで、安心させようとする意図が伝わってくる。彼の肩に触れ続けている私はそれを聞きながら小さく息を吐き出した。夏油くんは昔から、こうだ。彼と初めて出会った時からもう何年も経っているけれど、根幹にある考え方は何も変わっていない。他の人に悟らせず無茶をして、募らせて、募らせて、募らせて……最後には、破裂する。溜まりに溜まった水が表面張力を超えてコップの淵から流れるように、彼は無茶をし続けた結果、首が回らなくなる人なのだ。夏油くんの親友であった彼も相当無理をする人だったけれど、彼は無理を通せる人だった。疲弊はしても、それを溢れさせるような人ではなかった。……夏油くんは、不器用だ。





「……夏油くん、」
「ん?」
「今から、お昼寝しよっか」






え、と惚けた声を落とした彼の体をゆっくりと自分の方へと引き倒す。戸惑った夏油くんの顔が私でも見下げられる位置へ移動し、私の膝の上に長く伸びた髪が扇子みたいに広がった。少し毛先が痛んだ、勿体無いくらいの黒髪。そっと指を通して、絡まった部分を少しずつ解せば、目を白黒させていた彼は目を細めて「捺、」と私の名前を呼ぶ。なんだかそれが泣き出しそうな子供みたいに見えた。







「なあに?」
「……君は、ずるいよ」
「それ、夏油くんが言う?」







お昼寝と名打つには、少しだけ遅い休息。私なんかよりよっぽど白い頬に指の腹を乗せ、するすると優しくなぞっていく。おやすみ、と伝えた気持ちは彼に届いたらしい。夏油くんは何度か口を開閉してから、おやすみ、と消え入りそうに呟くと、薄い瞼を閉ざし、睫毛同士を擦り合わせた。夕陽が差し込む午後の日暮れ。キッチンから聞こえる騒がしい二人の声を耳に入れながら私も目を閉じた。出来れば彼の見る夢が、せめて優しい物であることを願って。





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