すぎさる
「だからぁ、温泉くらい行ってもバチ当たんないでしょ!有馬!草津!」
「前は京都観光って言ってなかったか」
「言ってた言ってた」
細かいことは気にしなくていいのよ。そう言ってジトリとした視線を男の子2人に浴びせる野薔薇ちゃんの姿がミラー越しに写り、思わず小さく笑みをこぼした。任務終わりの1年生3人を迎えに行った私は彼女を真ん中に据え、左右で平然と荷物持ちをさせられている付き人のような雰囲気の彼等にも随分楽しませて貰ったけれど、車内の会話に耳を澄ますのも中々面白い。特に温泉旅行、という響きにはつい私も昔のことを思い出して懐かしくなってしまった。
……結局、私達4人で温泉に向かう夢は叶わなかった。当時はあの民宿での任務以降それぞれが堰を切ったように忙しくなってしまい、中々予定が合わせられなくて、やっともぎとった休みの時期にはもう、夏油くんはそこに居なかった。誰かが中止しよう、と言い出した訳でもなく、自然と話題にもしなかった出発日のあの空気感を今でも覚えている。寂しくて、切なくて、虚しい。あの感覚を。
無意識に右目の下に手を伸ばす。私には無いその斑点に触れ、あの日見た少女の姿を思い出した。五条くんには度々言われているけれど、私は呪霊の感情に当てられやすいらしい。……自覚はあった。悪意に弱い訳ではなく、私は、強い執念や想いの一端に触れると琴線が震えてどうしようもない気持ちに襲われることがあるのだ。民宿での一件や、北海道での任務など、死んだ人間を求める心や、どうしても伝えたいことがある……そんな未練に近しい感情に捕まって雁字搦めになりやすい。この世界で生きる上で多少心が揺さぶられるような出来事はどの術師も経験している筈だ。だからこそ、何が起きても動揺が極端に少ない人程上に行ける。五条くんが良い例だ。彼は、物事を割り切れる人だった。でも、
「おかえり皆!今日もバッチリ祓えた?」
「あれ、五条先生!?任務は?」
「……まさか、」
高専の入り口に着いてすぐ。ひょろりとした長身が虎杖くん達を迎える。楽しそうに手を振る彼に訝しげな視線を向けた伏黒くんは五条くんに大袈裟なくらい酷い!と騒がれていた。彼がそんな顔をする気持ちは分かるけれど、仕事上、今日の五条くんのスケジュールを把握している身からすると、正直言ってあまり笑えない。目を疑ったのだ。彼はこうして高専に戻る数時間前までは福岡に居て、更に今から東京駅から新幹線に乗り込み名古屋まで出張なのだ。ハードなんてものじゃ無い。それでも何も知らない学生達に嫌味も無理をしている素振りも見せないのだ。私はそんな五条くんに尊敬の念を抱きつつ、同時にひどく心配でもあった。普通の人ならこんな生活が続いて耐えられるものでは無い。なのに、彼はそれを平然とした顔でこなしてしまう。こなせて、しまう。複雑だった。居なくなってしまった彼の誘因の一つが"それ"だと分かっていても尚、五条くんはこの生活を変えないし、変えられない。
「じゃ、捺。いつもみたいに宜しくね」
「……うん。皆お疲れ様、報告書だけ書いててくれる?」
「え、捺さん!?」
知ってたんですか!?と虎杖くんと野薔薇ちゃんが乗り出してくるのに苦笑いを浮かべつつ、ゆっくりとまた来た道を戻るように車を発進させる。目を丸くして何か叫んでいる2人を後部座席のリアガラスから覗く彼はクツクツと楽しげに喉を鳴らした。それから足を組み座り直し、話してなかったの?問いかけてくる彼に「聞かれてもなかったから」と答えると、なるほどね、と五条くんはアイマスク越しに笑った。それから直ぐに口調は緩やかに、それでいてある程度真面目な調子で数日に渡るスケジュールを説明していく彼の声を耳の中へと通しながら、ぼんやりと私は前の車のナンバープレートを見つめた。"07"から始まる文字列は何の因果か、つい先ほど思い出したあの夏の日と同じ日付だ。それに気付いた時にはもう、殆ど無意識に私は彼の名前を呟いていた。
「……五条くん」
「ん?」
「今度、温泉旅行とかどう?」
スーッ、と道路を滑る独特のタイヤ音が車内に響いた。少しの返事もなくて戸惑いつつ、ちらりとミラーに視線をやってみたけれど、ぽかんと口を開けて固まった五条くんの姿が映し出され、思わずハンドルを握る手が滑りそうになってしまった。ご、五条くん?と戸惑いまじりに呼び掛けると、彼はハッと肩を揺らしてから顎に手をやり、何やらぶつぶつと小さな声で唱えている。
「……考えろ僕、これはどういう意味だ?捺に限って誘われてるなんて考え辛いし……」
「……五条くん?」
「でも都合良く考えるの全然止まんないし纏まんないし何?どういう状況?」
「えと、あの、」
「…………それってお泊まりデートの誘いだったりする?」
たっぷりの沈黙を携えた後、困惑まじりの真剣な表情で私を見た彼にギョッと目を見開いた。え!?とほぼ無意識にあげてしまった声に五条くんは「違った?」と言いたげに首を傾げると、頬を軽く掻きながら"説明してくれる?"と聞き返す。こほんとひとつ咳払いをした私が素直に五条くんが疲れていないか心配だと答えると、彼はやはり神妙そうな顔をしながら頷き、
「……やっぱりデートじゃん!」
「ち、違うって!」
ぐいっとアイマスクを引き下げて青くてキラキラした瞳を私に向ける彼はデートだと熱弁を続ける。私は一緒に行きたいという訳ではなく、彼に少しでもリフレッシュして欲しかっただけなのだが……五条くんは全く聞く気がない。それどころか捺とデートのためなら任務頑張るよ、とまで言い出してもはや収集がつきそうになかった。あれよあれよと彼の中で進んでいく計画を否定しつつも聞き入れて、確かにそのプランなら素敵な休日になるだろうなと納得してしまう私は流されやすいのかもしれない。でも、五条くんが羽を伸ばす機会になるなら悪い話ではないだろう。
「めちゃくちゃ元気出てきた。僕頑張るよ捺」
「……五条くん」
「なぁに?」
「無理、しないでね」
あまりに楽しそうに頬を緩めていた彼の顔が一瞬驚きに変わり、それからゆっくりと瞼が緩んだ。優しく暖かな視線を私へと向け、分かってるよと一言だけ返した彼に嘘はない。きっと、そう信じたい。……例えこれが嘘じゃなくても、向こうで何かあれば無理も無茶も平気でしてしまう人なんだ。ならせめて、今だけは彼自身を受け入れよう、そう思った。
五条くんを乗せた車は道を覚えているかのように信号に引っかかる事もなく駅に到着する。小さく息を吐き出した彼は長い足を扉の外に出してからたった一言「いってきます」と告げて堂々と歩いていく。一際目立つ容姿の彼を避けるように人混みが割れ、頭いくつ分も抜きん出た五条くんは構内に消えていく。……何処かの家の風鈴が揺らいで、リン、と微かな音がする。美しくて凛々しいそれはどれだけ距離が離れていても自然と鼓膜を揺らして、混ざり合った蝉の声が夏を感じさせた。
五条くんを見送った私は穏やかに車のアクセルを踏み、頭の中で自分の休暇予定を考えた。……出来るだけ、私も行けそうな日に彼の休みを作り出せないか、と思案しながら。
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