るすばん
「じゃあ、行ってきます」
「私たちが居ない間に変に盛るなよ」
「盛んねぇよ!」
五条くんの声に手を振って笑いながら硝子と夏油くんは4人部屋を後にした。すっかり更け込んだ夜の民宿に来た理由は正にこの時間から解消されて行く。何せ高専から請け負った今回の任務は色々と情報が少ない。現場の術師である私達が積極的に周りを探索して目星をつける必要があった。かと言って4人で毎晩行動するのは流石に怪しまれるリスクが高い。そうして晩御飯の最中に話し合った結果、私達は交代で2人ずつ周辺を見回ることになったのだ。今日の担当はついさっき出て行った夏油くんと硝子で、私と五条くんは一先ずここで待機することになっている。いつの間に組分けが決められていたのかは分からないけれど、なんだかやけに夏油くんが楽しそうだったのが気になった。深い理由は無いのかもしれないけれど……硝子の"盛るなよ"という謎の忠告もあまり意味が分からなかった。すっかり閉められた障子を睨むように見ていた五条くんは舌打ち混じりに息を吐き出すと、ふ、と私に視線を向ける。緩やかに交差したそれと、途端に静かになった部屋には沈黙が降りて、思わず小さく唾を飲み込んだ。……な、何か、話さないと……そんな焦燥感に駆られながら、あー、と迷った声を吐きだした私に、五条くんも何処か気まずそうな調子で「……なんだよ」と呟いた。
「その……お、温泉!気持ちよかったね」
「……まぁ、久しぶりに入ったな」
「私も久しぶりで……任務なのにはしゃいじゃった」
「聞こえてたから知ってる」
へ?と顔を持ち上げた私に彼は何かに気付いたように目を丸くしてからグイッと一思いに目を逸らす。聞こえてた、というのは露天風呂での硝子との会話だろうか?あまり何を話していたのか正確には覚えていないけれど、私も硝子も温泉を満喫していた気がする。もしかして煩かった?気になって上手く休めなかった?色々な疑問や心配が渦巻いて途端に気分が落ち込んでいく。五条くんは勿論、今この場にいない夏油くんにも迷惑をかけてしまったかもしれない。そう思うと更に申し訳なさが込み上げてきた。咄嗟にごめんなさい、と口にした私にたった一文字「は?」と彼は眉を顰める。
「なんで謝ってんだよ」
「う、煩かったかなって……あんまり休めなかったり、した?」
「……別にしてない。けど……」
「けど?」
先の言葉を待つように聞き返した私に、五条くんは更に眉と瞳の幅を近付けた。唇を軽く尖らせて明らかに不満そうな様子を見せた彼は何か言いたげな何度か口を開閉させていたが、結局それ以上は言葉にせず「何でもない」と会話を終えてしまった。今の間とか雰囲気を見る限り本当に何も無いわけじゃないのは分かりきっているけれど……何度尋ねても彼から紡がれるのは同じ台詞の一点張り。真偽がどうあれ話すつもりがない、という意思がひしひしと伝わってきた。私には言えないことなのだろうか、そう考えるとやっぱりどうしても寂しく思えてしまうのは仕方がないことだと思う。これは男の子だけの秘密、というやつなのだろうか。夏油くんと気の置けないやり取りをしている彼を見ているとたまに"私も男の子だったらなぁ"なんて、どうにもならない事を考える事があった。せめてもう少し、数センチだけでも五条くんと仲良くなれたら、なぁ。
私に線引きをしている彼の顔を見ていられず、畳まれて隅に置かれた敷布団をぼんやりと見つめた。硝子と夏油くんは何時に帰ってくるんだろう。民宿の管理人さんは全体の消灯時間は22時だと言っていた。呪いの原因が分からない以上、管理人さんのこともある程度警戒する必要がある。変に怪しまれない為にもルールには従うべきだ。現在の時刻は21時45分……そろそろ寝る準備を始めるべきだろうか。一呼吸置いてから改めて五条くんに目を向けて準備の提案をしようとしたけれど、私が彼の方を見た瞬間に彼の青い目が視界に飛び込んできた。先に五条くんの方が私を見ていたの、だろうか。戸惑って一度黙り込んでしまった私に彼はバツ悪そうな顔をしながら「……敷くか」と一言、大袈裟に言うと"これからの方針"ついて私と同じ意見を述べた。……お留守番組の私たちに出来ることは限られている。ならせめて帰ってきた彼らがすぐに眠れるように、足を引っ張らないように、行儀良く過ごす他無い。
「っ、よい、しょ」
「……無理すんなよ、別に俺が運ぶし」
「でも五条くんだけに任せられないよ……!私も何か、」
「ならこっちの枕と掛け布団から運べ。……見てて危なっかしい」
苦労して持ち上げた敷布団を私の腕から軽々と奪い去った彼は更に残りの3枚を上に重ねて部屋の中央へと運んでいく。苦労も滲まない涼しい表情で全員分のそれを畳に下ろして広げていく彼は流石、としか言いようがなかった。すらりとした体型からは想像できないような力の源が普段から鍛えている効果だと、一応、同級生である私は知っている。夏油くんなんかは服の上からでも分かるくらいがっしりとした体型をしているけれど、五条くんは着痩せするタイプらしい。夏場の訓練終わりに汗に塗れたTシャツを脱ぎ捨てる彼は彫刻みたいに美しく整った筋肉を携えていたのをよく覚えている。硝子はそれを見て「なんか無条件にムカつくな」なんて理不尽な事をぼやいていたけれど、私は綺麗に筋肉が付いた体が少し羨ましくもあった。服の袖口から覗く上腕や前腕が逞しくて枕を抱える自分の手とつい、見比べてしまう。……私もやっぱりもう少し鍛えようかな。
「……何?」
「その……筋肉、いいなって」
「はぁ?」
視線に気付いた彼の訝しげな表情に思ったままのことを伝えれば変なものを見るような顔をされてしまった。私はこれでも結構本気だったんだけど、五条くんには冗談か何かだと思われたらしい。それでも自分の腕を触ってあまり硬さが感じられないことに落胆していると、彼はやっと信じてくれたようだ。とは言っても呆れ混じりに息を吐きながら「男と比べても意味ねぇだろ」と正論を突きつける。そうだけど、と食い下がる私にそれ以外無いだろとスッパリ切り捨ててしまう五条くんは何時でも、どんな時でも彼らしいままだった。
「そもそもお前の術式は近接と相性良くねぇだろ」
「……でも五条くん、前に近接は強くて損がないって、」
「……忘れろ」
「ええ!?」
殺生な!掛け布団を並べながらそんな気分で顔を上げた私の耳にゴーン、ゴーン、と鈍く、錆びた鐘の音が聴こえた。私と同じように耳を澄ました彼の目線の先には10の文字盤を指す時計の短針が確かな風格を持って鎮座している。窓の外から見えていた玄関の淡い照明が光を無くし、近くにコンビニすらない田舎の夜が黒に飲み込まれた。なんだかそれが少し不気味で、自然とカーテンを引いた私に五条くんは、寝るぞ、と一言だけ告げて部屋の電気を消し、近くに敷いた布団の中へと大きな体を収めていった。パチン、と消えた天井の明かりのお陰で足元に置かれていた灯籠のような形をした間接照明が橙色の仄かな光を灯す。真っ暗では後で帰ってくる硝子達が困るだろうから、と付けたものだったけれど、普段部屋では電気を付けない私にとってなんだかこの灯りはある種旅行に来たような、特別な気持ちにさせてくれた。
すでに布団に入って枕の位置を整えている彼の身長では一組の敷布団だけだと見ていて少し狭苦しく感じる。寝づらく無い?と声を掛けながら詰めるような形で彼の隣の布団の中に足を入れて私もゆっくりと寝転がった。枕をマジマジと見つめていた彼は「慣れてる」とだけ告げてからやっと、私の方を見た。驚愕。そんな言葉が似合うような弾けたみたいな驚きが五条くんの顔を染め上げる。薄明かりに照らされる白い毛束は夕焼けの海みたいな独特な輝きを秘めている。なっ、と喉に詰まったみたいな小さな声と共に五条くんの体はスライドするみたいに布団から飛び出していった。今にも叫び出しそうな表情に私の頭の中で"近所迷惑"という文字列が踊る。……気付けば私も彼を追いかけるように布団の中から這い出していた。
「っおま、なんで隣ッ…………!?」
「ご、ごじょうくん……!!ごめんなさい、でも、この時間に大きい声は……!」
想像と違わない、それどころか予想以上に大きく鋭い声に慌てて私は彼の口を塞いでいた。透き通る空の目がチカチカと困惑に揺れているのが分かるし、あまりに不敬なことをしている自覚があったけれど、彼を止められる手段が咄嗟にこれ以外思い付かなかったのだ。乗り上げるように五条くんにのしかかってしまった私の腕を掴んで押し返した彼の口からはハァ、ハァと浅く、荒い息が零れた。ぎゅ、と噤まれた唇。五条くんの喉が震え、
───ギィ、
びくり、と反射的に肩が揺れた。古くなった木を踏み締めたような耳障りな音。目の前にある五条くんの開き掛けた口がゆっくり、ゆっくりと閉じていく。瞬間的に駆け巡った緊張感が帳みたいに辺りに降りて、体が一段と重くなった気がした。ギィ、ギィ、という悲鳴にも似たその音は部屋一体を包み込み、出所がなかなか掴めない。廊下?隣の部屋?それとも、
「……上だな」
「……天井……?」
それに気付いたのは殆ど同じタイミングだった。揃って顔を持ち上げて少し煤けた木目を見つめたけれど、そこに何かいる気配は無い。私の目には映らない呪霊なのかと五条くんの反応を待ったけれど、彼は少し瞼を細めて「視えない」と呟いた。その意味を尋ねるより先に今度は軋む音とは違う、何かを叩いたような低く鈍い"ドン!"という音が響き渡る。そして追従するように獣のような唸り声が頭上から雨漏りのように零れ落ちた。上に何がある?何が、いる?朝見た民宿の外見は平屋で2階があるようには見えなかった。だとすれば屋根裏、ということだろうか?……何のために?なぜ、屋根裏から音が?考えても答えは出なかった。……知らぬ間に掴んでいた彼の服に込めていた力を抜く術を知らず、ただ私は、そこに佇むことしか出来なかった。
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