足枷












「五条くんとの番を、解消したいの」








震えた声で紡がれた言葉の意味が、よく分からなかった。ついさっきまで体を重ねて、熱を分け合っていた筈の彼女が今は厳しい顔を浮かべながら唇をキツく閉ざしている。僕達は何故こうなってしまったのだろう。何故こんな、不安定で名前の付かない関係に落ち着いていたんだろう。考えれば考えるほどに胸が苦しくなる。現実から逃れるように捺が淹れてくれたココアに目を落とした。チョコレート入りの僕専用ドリンクに映るその顔は、酷く頼りない。












俺はαだ。


うちの家では生まれた時にすぐに検査される人間の持つ第二の性。血統もあってか、俺は上位数パーセントに当たる所謂"恵まれた"性を持っていた。周りの大人は大層喜んだが、俺は自らの性が好きではなかった。もう何年前か思い出せもしない昔のこと。使用人のΩがヒート期間に陥った時、当時まだ何もこの性別について知らなかった俺は、気付いた時には殆ど強姦のようにその女を襲っていた。幸い相手も俺も大事には至らなかったものの、自分の意思に反するように理性を失ってしまう自分が酷く恐ろしくなった。あの日以来俺の家にはΩ性の人間はいない。俺も、大人も、万が一があった時に困るから、きっとそういう理由だと思う。でもそれで構わなかった。俺だってあんな経験はもう、御免だった。






「は?またアイツ長期任務なの?」
「みたいだね……1週間程度って言ってたかな」
「どーせすぐ帰ってくるよ」






俺が珍しく時間になっても教室に現れない彼女を探しているのに気付いた傑は捺が今日から長期任務に出ていることを告げた。彼女は入学当初から年に数回、1週間ほどの長期任務に飛ばされる事がある。何処に行っているのかも、どんな任務なのかも詳しくは知らないが、大抵帰ってきた捺は普段見ないくらいに疲弊していることが多くて俺はこの長期任務が好きではなかった。


硝子も彼女の任務のことを知っていたみたいだし、何故俺が毎回知らされていないのかは疑問だが、それを指摘したらしたで俺が彼女を待ち侘びているみたいで妙に恥ずかしい気がして黙り込む。……高専に来てからの俺はα性に悩む事が少なくなった。俺以外の同級生の3人が皆βだったことが幸いし、あの燃え上がるような衝動には暫く縁がない。今いる生徒と教師を含め、α性は俺しかいないし、運良くこの年代はΩを持つ人間も存在しなかった。窮屈なしきたりも無い高専は、ある種俺に取って居心地のいい場所だったのだ。


ぽつん、と一つ空いた木製の机を見つめて息を吐き出す。今いない彼女の特等席は青空をぼんやりと反射して美しく染まっているが、俺にとっては物足りない光景だ。……捺に会いたい。漠然とした感情が込み上げてきて、はっ、と我に帰り首を振る。何が会いたいだ、1週間もすれば直ぐに会えるだろうに。そんな俺をニヤニヤといやらしく口角を上げながら見つめてくる傑の机を軽く足先で小突いた。揺れた平面からシャーペンが転げ落ち、面倒くさそうな顔を向けてきた男を鼻で笑う。顔に出てるんだよこの馬鹿。








彼女が任務に出てから2日後。俺も単独任務を終了し、疲れた体を引き摺りながら高専の廊下を歩いていた時、あの事件は起こった。今思えば俺の人生を変えることになったこの日は、初夏の日差しが差し込む蒸し暑い日だだった。廊下の角、影の掛かった暗がりに差し掛かった瞬間、俺は急に内臓を引きずり出されるような気分の悪さに襲われる。倒れ込みそうになるのを膝に力を入れてなんとか堪えたが、俺はこの感覚に覚えがあった。息が荒くなる。全身が燃えるように熱い。必死に無下限を全てを弾く最大出力へと持っていこうとしたけれど、頭が言うことを聞いてくれない。ダラダラと汗が流れ、俺の肌を濡らしていく。……これは、発情だ。



長らく感じていなかったマグマのようなとめどない圧力と性で塗り潰されていく思考を必死に追い出そうとかぶりを振るが、俺の足は本能に従うように、導かれるように、寺院の一つへと向かっていく。だれだ。この気配の主は誰だ。甘く蕩けるような俺の性器を容赦なく奮い立たせるこの匂いの正体は、だれだ。今高専にΩは居ないと聞いていた。なら外部から来た客?……まさか。ヒート時期にその辺を歩ける訳がない。



止まれ、止まれ、俺の体だろう。俺の言うことを聞け、祈るような感情とは裏腹に濁流のような性欲に思考が溶けそうになる。誰でも無い、よくも知らない相手に手を出すなんてごめんだ、そんな獣みたいな真似は、御免だ。必死の抵抗で指先が震え、一瞬扉に手を掛けた腕が静止する。が、隙間から漂ってくる性を体現する"ソレ"に抗えない。頭の中が今はいない彼女と姿の見えないその気配でぐちゃぐちゃに混ぜ合わされる。俺は、俺が、好きなの、は、俺が求めているのは、捺だけ、なのに。俺の腕は荒々しく重い金属で出来た扉を、開いた。






「っ、はぁ、ッ、はあ…………」
「…………捺……?」






中央で横たわる一人の女性。ぐったりと力なく倒れ、小刻みに震えるその体に、その顔に、見覚えがある。それが誰なのか認識した瞬間、俺の本能と理性両方が音を立てて崩れ落ちていく気がした。薄暗い空間、柔らかな布団を床に敷き、はだけた制服を纏う小さな彼女が首を持ち上げ、真っ赤になった顔と潤んだ瞳を俺に向け、名前を、呼んだ。








「ごじょう、くん……っ、たす、けて、」








もし、紡がれたのがあの4文字以外だったなら。俺はきっとあの瞬間、全てを投げ出して彼女というΩを抱き潰していたに違いない。朧げな意識の中俺が選んだのは、無防備な頸に噛み付いて、彼女の苦しみを終わらせること、それだけだった。




気付けば俺達は抱き合うようにその場で眠っていた。幸か不幸か、俺は彼女に手を出していなかったが、彼女の首にはくっきりと、赤い歯形が残っていた。その日から俺と捺は何よりも強い縛りである"番"となったのだ。Ω特有の発情期は俺と定期的に性行する事で消失し、彼女は不自由なく28歳になった今も殆どの人間からΩと知られる事なく、生きている。俺にとってこれは、天から湧いた恵のような出来事だ。好きな女と番になれた、きっとこれ以上に幸せな事はない。その筈なのに、たまに虚しくなる。番という関係を得た代わりに、俺の本当の想いは彼女に未だ届いていないのだから。












「……今、なんて」
「……私はずっと五条くんに助けられてきた。でも、昔の同情で五条くんを縛っているなら私はもう……!」
「ッ、あの、な……!」






立ち上がろうとした彼女の体を押さえ込むように覆い被さった。ただでさえ体格差があるだけでなく、真っ直ぐ見つめた俺の視線に、Ωであり、番のお前は逃げられない。教え込むように頸に歯を立て、耳元で俺は彼女に囁いた。"今更もう遅いんだ"と。捺は泣きそうな顔を浮かべる。そんな顔をこれ以上見たくなくて、柔らかな唇にキスをして誤魔化した。俺は、お前が好きなのに、おまえはそれをわかってない。


この関係が俺たちの足枷なのは分かっている。だけど、俺はもう逃れられない。彼女の全てを縛り、支配下におけるこの安心感から、離れられない。依存しているのはきっと、彼女ではなく俺の方だ。いつか彼女に拒絶されるかもしれない、そんな悲劇から目を背けるように、俺は今日も捺の運命を名乗り続けた。













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